後日談 隣にいてくれるあなたへ:転

 私が感じたそれは、間違いなく怒気でした。


「読む必要はない」


 これまでにない拒絶を示して、ラングリフ様は部屋を出ていこうとします。


「どいてくれ、リリエッタ。そこを通してくれ」

「それは、できかねます。ラングリフ様」


 日記帳を差し出した格好のまま、私は彼の頼みにかぶりを振ります。


「リリエッタ。通してくれ」


 わずかに語気を強めて、彼は再度頼んできます。


「いいえ、ラングリフ様。ここはどけません」


 そして私は、また首を横に振るのです。


「この日記をお読みください。お願いいたします」

「読むつもりはない」


 逆に私の方からお願いすれば、返ってくるのはやはり拒否の言葉です。

 わかっています。今のラングリフ様にとって、ルリカ様がどういう存在なのか。


「どけ、リリエッタ」

「どきません、ラングリフ様」


 彼は言葉を荒げ、私はそれに否と返します。


「読んでくださいませ、ラングリフ様」

「断る。無用だ」


 私は日記を差し出し、彼はそれに否と返します。

 しばらく、私達はそんなやり取りを繰り返しました。徐々に、熱が高まります。

 先に我慢の限界を迎えたのは、ラングリフ様の方でした。


「いいかげんにしてくれ、リリエッタ!」


 私に浴びせられる、厳しい声。

 でも、それを言う彼の顔は、激しい苦痛に歪んでいるのです。


「リリエッタ、君は俺の母がどういう人間か知っているはずだ。俺が笑えなくなったのは、あの女のせいだ。俺に呪いをかけたのがルリカという女だ!」


 叩きつけてくるような、激しい調子の言葉。

 そこに感じる強烈な圧は、彼の人柄を知る私であっても心竦ませるものです。


「俺は、母に何の幻想も抱いていない。ましてや期待など持つはずもない!」

「ラングリフ様……」

「俺にはアンジェリカ様がいてくれた。あの方が俺の母だった。それで十分だ。ルリカの書いた日記など、目にも入れたくない! そこをどいてくれ!」


 抑えきれぬ怒りを、それでも必死に堪えながら、彼は私にそう叫びます。

 内心で、私はずっと彼に謝り続けていました。


 でもそれは、どうしても自分の意を通そうとする私自身への慰めに過ぎません。

 それでも、それでも今だけは、退くわけにはいきません……!


「ラングリフ様。これを、お読みください」


 私は、両手に持った日記を、彼の前に突き出しました。

 その瞬間、ラングリフ様の瞳が、見たこともないほどに大きく見開かれます。


「リリエッタ――」


 彼は右手を振り上げました。

 私は『殴られる!』と思って、身を縮こまらせて目を閉じました。


 けれど、それから数秒経っても、何も起きません。

 ゆっくりとまぶたを開いていくと、力なく私の肩に手を置く彼が見えました。


「……できるものか」


 直前まで見せていた怒りを失速させて、ラングリフ様が苦しげに呻きます。


「どれほどの怒りに駆られようと、俺が君を殴れるわけがないだろう……。君はずるい。俺という人間を知っていて、こんな真似をする。本当にずるいよ……」

「ラングリフ様……」


 そうです。私は卑怯な人間です。それを自覚して、今、ここに立っています。


「どうしても、どいてくれないのか?」


 彼は、泣きそうな顔で、私にそれを確かめてきました。

 笑うことができないラングリフ様は、泣くまいと決めた強い人でもあります。


 その彼にこんな顔をさせてしまう。

 それだけでも、私は罪深く、愚かしいのでしょう。それでも――、


「どけません。ごめんなさい」


 謝る自分に反吐が出そうです。

 彼は、その顔をますます辛そうに歪めて、最後にこれだけ尋ねます。


「そんなにも、君は俺に苦しめというのか。母のことで、苦しみ続けろと」

「いいえ、逆です。ラングリフ様」


 私はかぶりを振って、ルリカ様の日記を胸の内に抱きしめました。


「私は、これ以上あなたに苦しんでほしくないのです。だから、どけないのです」

「何なんだ、それは……」

「これをお読みいただければ、きっとご理解いただけます」


 受け取ってもらえる。

 その確信と共に、私はみたび日記帳を彼に示しました。


「俺の母ルリカの日記か……」

「はい」


 うなずく私を、ラングリフ様が凝視します。

 私は目を逸らすことなく、それを受け止めてジッと彼の反応を待ちます。


「……わかった」


 伸ばされた手が、ルリカ様の日記を掴みました。


「もしかしたら俺の心の奥底には母に対する幻想の残滓くらいはあるのかもしれない。現実を知ることで、今度こそそれを除くことができそうだ。どうせ、書かれているのは呪詛の言葉だろうからな」


 それは、あまりにも悲しい言葉。

 強くあろうとしてきた彼は、そうして深い諦観の中で生きてきたのでしょう。


 私は、何も言いません。

 これはラングリフ様とルリカ様の問題なのです。


 彼がそれに向き合うことを決めてくれたなら、私が言うべきことはありません。

 部屋の真ん中に立ったままで、ラングリフ様はルリカ様の日記を開きました。


「その日記は、陛下に見初められてこの国に来てから書かれたもののようです」

「そうか」


 言葉短く応じて、彼は日記を読み始めました。

 私もすでに読み終えた日記の内容は、前半は陛下との日々に関する内容です。


 陛下との間に育まれた愛情と、異国へ嫁ぐことへの不安。

 祖国に残した家族に対する未練などが、覚えたばかりの文字で綴られています。


「アンジェリカ様とは、仲が良かったようだな」


 ポツリと、ラングリフ様が零されました。


「はい、まるで姉妹のように感じられると書かれておりますね」

「それにしても汚い字だ。異なる文化圏から嫁いだから、仕方がないのだろうが」


 無表情のまま、彼はさらに先へと読み進めていきます。

 ペラリ、ペラリと、しばらくページをめくる音だけが部屋に流れていきます。


 ラングリフ様が日記を読む姿を、私とマリセアさんは黙って見ています。

 彼の様子に変化が生じたのは、読み始めて何分経った頃でしょうか。


 急に、ページをめくる手が止まりました。

 彼は日記を睨んでいるかのようで、傍から見ても鬼気迫るものがありました。


「……『今日、新しい命を授かったことがわかった。あの人との子だ。嬉しい。私のような人間でも母になることができるのだと思うと、幸福で胸がいっぱいになった』」


 そこに書かれている内容を、私はそらんじました。

 ラングリフ様がハッと顔をあげて、驚きの顔つきで私の方を向きます。


「リリエッタ、君は……」

「今、ラングリフ様が読まれたのはそのページですよね」


 私は、あの日記帳を見つけて以降、彼が戻る今日まで、何度も読み返しました。

 何度も、何度も、そこに書かれている内容を暗記してしまうくらい。


「…………」

「邪魔をして申し訳ありません。どうぞ、続きを読んでください」

「……そうだな。ここにある母の喜びも、すぐに悲嘆にとって代わるのだろう」


 そう言って、ラングリフ様は日記をまた読んでいきます。

 でも、そこに見える彼は、その表情を少しずつ変えていくのです。


 その瞳はまばたきを少なくし、ページをめくる手は荒っぽくなっていきます。

 肩の震えは全身へ伝播して、彼はその身を激しくわななかせました。


 ぺラリ。

 ぺラリ。

 めくられていく、日記のページ。


 さらに激しくなっていく、ラングリフ様の身の震え。

 ついにまばたきをしなくなった目は、左右に揺れて日記を読みこみます。


「何だ、これは……」


 愕然となって漏らす彼の頬を、幾筋も汗が伝い落ちていきました。


「何なのだ、何だ、何だこれは……、どういうことなんだ、リリエッタ!」


 弾かれるようにして顔をあげ、ラングリフ様は私にそれを尋ねてきました。

 もはや、半ばすがりつくようでもありました。彼は、私に助けを求めたのです。


「そこに書かれている通りです、ラングリフ様」


 だけど、私にはそう答える以外ありませんでした。


「バカな、俺にこれを信じろというのか、こんな、こんな……!」

「はい、そうですよね。あなたの心情を思えば、とても信じられるはずがありません。でも、そこに書かれている内容の通りです、ラングリフ様」


 私は告げます。

 彼にとって、全てを裏切るであろう一言を。


「ルリカ様はあなたを愛していらっしゃいました」


 日記に書かれていた内容のうち、後半は全てラングリフ様に関するものでした。

 そして、その中に、彼を呪うものなど一つもなかったのです。


 例えば、ひどくなるつわりが辛いという日記がありました。

 そこには、苦しみの果てにある我が子との出会いへの期待が綴られていました。


 例えば、大きくなったおなかのおかげで動きにくいという日記がありました。

 そこには、おなかの中で子供が順調に育っている喜びが綴られていました。


 書かれている全てに、ラングリフ様への愛情が感じられました。

 子を想う母の尽きぬ慈愛が、一文字一文字から溢れているかのようでした。


 我が子を想い、我が子の未来を夢見て、我が子の幸せを心から願う。

 日記に綴られていたのは、とてもありふれた、至上の愛の軌跡だったのです。


「君は、俺にこれを信じろというのか、リリエッタ!」


 ですが、ラングリフ様はそれを受け入れることができずにいるようでした。


「これが我が母ルリカの真情であったと、信じろと!? 今さらになって、母からの愛情を信じろというのか、生まれたその日に呪われた、笑えないこの俺に!」


 叫ぶラングリフ様の瞳が揺れて――、いいえ、潤んでいます。

 ルリカ様について諦め続けてきた彼には、受け入れがたいことなのでしょう。


 その痛みを、推察することはできても感じられるとは口が裂けても言えません。

 今、ラングリフ様が感じられている胸の痛みは私の想像を絶します。


 だけど、それでもまだ終わっていないのです。

 むしろここからが、ラングリフ様が知るべき真実なのです。


「ラングリフ様、まだ、あなたは日記を全て読み終えておりません」

「もういい、もうたくさんだ! これ以上、俺は、こんなものを読みたくは――」


「そこに、全ての答えがあるとしてもですか?」

「な、に……?」


 動きを止めるラングリフ様へ、私は告げるのです。


「あなたが抱えられている苦しみに対する全ての答えが、その日記にあるのです」

「俺の苦しみへの、答え……」

「読んでくださいませ、ラングリフ様。そして、ルリカ様を知ってください」


 会ったこともない、ラングリフ様の母君、ルリカ様。

 だけど私は、形こそ違えど同じく彼を愛する者として、そのお心を感じます。


「……今日ほど」


 ラングリフ様が、天井を仰がれました。


「今日ほど、君という人の頑なさを感じたことはないよ、リリエッタ。あのパーティーのときよりもよっぽど今の方が凛々しいじゃないか」

「私に強くあることを教えてくださったのは、ラングリフ様です」

「その言葉を嬉しく思ってしまうのだから、俺も大概、君に参っているな」


 あらぶっていた気配がすっと静まって、ラングリフ様は日記をまた開きました。

 残りページはあとわずか。

 そして、彼が全てを知るのも、もうすぐです。

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