第5話 二人の結婚生活
殿下との結婚は、思ったよりもはるかに静かなものでした。
王家の婚姻となれば、国を挙げての一大事です。
サミュエル殿下とシルティアの結婚は、それはもう大々的に行なわれました。
会場となったのは、国内一の規模を誇る王都の大聖堂でした。
結婚式では、近隣の国々から多数の王家や大貴族が招かれたそうです。
私は参列しなかったので、よくは知りませんが。
今やシルティアは、誰もが知る未来の王妃にして、貴族社会のヒロインです。
一方で、私とラングリフ殿下の結婚はひそやかに執り行われました。
結婚式は開かれたものの、列席してくださったのはごく少数の身内だけでした。
会場は、王宮内の片隅にある、小さな礼拝堂です。
王宮が建築されたときからある、最も古い歴史ある礼拝堂なのだとか。
もちろん、デュッセル家の人間は誰も参加しませんでした。
シルティアも、両親も、すでに私のことなど忘れているのかもしれません。
ただ、結婚式に国王陛下が列席されたことには、驚きました。
我が国の国王陛下は、威徳を兼ね備え、人々から慕われておられる御方です。
その陛下が、式の際に私にこう言われたのです。
「ラングリフを、どうか頼む」
それを告げられた陛下の顔には、深い苦悩の跡が見え隠れしていました。
ラングリフ殿下は、あとで私に教えてくれました。
「父上は俺を嫌ってはいないよ。ただ、俺は呪われているからな。その事実を表に出すことは避けたい。だからどうしても、遠ざけざるを得ないんだよ」
殿下は、顔つきこそ変わらないものの、その声はやはり寂しげでした。
そんな彼の隣で、私はそっと寄り添って彼を支えます。
「幸せになりましょう、殿下。そのような呪いにまけないよう、最高に幸せに」
「君と一緒だったらなれるだろうな。俺のような男のところに来てくれた、最高に美しい、君のような花嫁と一緒だったら。――愛しているよ、リリエッタ」
「私もです、ラングリフ様」
王都で最も歴史がある小さな礼拝堂で、私と彼は唇を重ねました。
参列者の皆さんが、誓いの口づけを交わす私達に祝福の拍手を贈ってくれます。
この日、私とラングリフ様は夫婦となりました。
サミュエル殿下とシルティアの結婚式から二か月ほど遅れてのことでした。
新しい生活が始まりました。
でも、それは思っていたよりもずっと穏やかな日々です。
普段は騎士団を率いるため登城する彼を見送って、時々、一緒にお城に赴いて。
騎士団の稽古に顔を出したりして、騎士の皆さんとも知り合いになりました。
お屋敷の皆さんも騎士の方々も、私に大変よくしてくれました。
ラングリフ様も、私のことを常に気にかけてくださいます。
休日には一緒にお忍びで出かけたり、時には少しだけ遠出することもあって。
それから、ラングリフ様は、意外な趣味をお持ちでした。
「見てください、マリセアさん。こちらの蕾は明日には開きそうです」
「あら、本当ですね。咲いたら殿下に報告しなくっちゃ」
庭園の一角で私と侍女長のマリセアさんは、桃色の蕾を見て言葉を交わします。
屋敷の庭園には、数多くの花が植えられていました。
元々はなかったものらしくて、ラングリフ様が種を持ってきたのだとか。
「ラングリフ殿下も武辺者を気取っておられますけれど、あれでなかなか可愛らしいところもおありなんですのよ。って、奥様もそれは御存じですよね」
「ええ、知っています。あの方は本当に可愛い人です」
無骨で不器用に見えて、いつも私を驚かせようとする茶目っ気のある人です。
ある日なんかは、私に花束を贈ってくれたのですが――、
「見てくれ、リリエッタ。見事な花束だろう?」
「はい、とても素敵な……、って、何でしょう、やけに甘い匂いがするような?」
ラングリフ様が私に渡してくださったのは、ピンクの薔薇の花束でした。
でも、よく見るとそれは薔薇を模した別の何かのようなのです。
「その甘ったるい匂いは、チョコレートの匂いだよ」
「チョコレートの?」
チョコレートは、南の国で採れるカカオという希少な果実を使ったお菓子です。
私も幾度か食べたことはありますけど、確かにチョコレートの匂いでした。
「この薔薇は全部、チョコレートでできているんだ。すごいだろう!」
「それは、確かにすごいですね。驚きました」
チョコレート自体、相当貴重なお菓子なのに、それを花束に似せるなんて。
「君への贈り物にしようと思って、知り合いの錬金術師と菓子職人に前々から依頼していたものがようやく出来てな。受け取ってくれたら嬉しい」
「ラングリフ様、ありがとうございます。本当に、とっても嬉しいです……!」
そこまで想っていただけたことに、私は感激して花束を受け取りました。
そして、直後に思ったのです。
「でも、これは保存はどうしましょうかしら?」
「む、保存か? この場で食べてしまえばよいのではないか?」
「あの、ラングリフ様、さすがにこの量は私達二人がかりでも厳しいかと……」
結構大きな花束です。
その全てがチョコレートだというなら、二人で食べきることは不可能でしょう。
「でも、チョコレートですので放っておくと溶けてしまいます。どうしましょう」
「…………」
花束を前にして困る私と、固まるラングリフ様。
「ラングリフ様?」
「すまない。保存方法までは考えていなかった。どうしよう」
そう言って、ラングリフ様はガックリと肩を落として途方に暮れるのです。
さっきまでは無表情でも瞳を輝かせていらっしゃったのに、急にこの落差です。
「……フフフフ、ラングリフ様らしいですね」
「ぐ、俺は君の笑顔は好きだが、ここでその笑いは……、でも、いい笑顔だな」
ラングリフ様はいつだってこうです。
どんなときでも、私の笑顔を褒めてくださるのです。それが、本当に嬉しい。
結局、チョコレートの花束は使用人の皆さんも呼んで、みんなで食べました。
あれは、なかなかに忘れがたい、楽しい思い出でしたね、ラングリフ様。
彼と過ごすようになって、私は徐々に作り笑いをすることが減っていきました。
そしてその分、心から笑うことが多くなっていったのです。
きっと私の中にも、呪いはあったのでしょう。
お父様によってかけられた、貴族の娘は『花』であれ、という呪いが……。
あのときの私は、お父様の自己顕示のための道具に過ぎませんでした。
でも、それをラングリフ様が解いてくださったのです。
初めてお会いしたとき、あの人が素顔の私の笑みを求めてくれたことで。
他に結婚して変わったことといえば、社交の場に出なくなったことでしょうか。
以前からそうでしたが、ラングリフ様はそちらに顔を出しません。
それは、やはり彼の呪いが理由でした。
自然、妻である私も同じくそういった場に出ることがなくなりました。
結婚して半年が過ぎると、私はすっかり貴族社会から遠ざかっていました。
だけど、それでよかったのだと今は思っています。
以前も今も、私は『花』のままです。
ただ、前と違って今の私はあの方のために咲く『花』でありたいのです。
ラングリフ様の隣で、あの方の分まで笑っていたい。
それが、今の私の願いであり、そして生きている理由そのものでした。
彼のそばにいられるならば、他の方々が私を忘れても気にはなりません。
そう、私は思っていたのですが――、
「……立食パーティー、ですか?」
結婚して一年ほど経ったある日、ラングリフ様からその話を切り出されました。
「ああ、俺と一緒に出てほしいんだ」
ラングリフ様は、非常に申し訳なさげなご様子でした。
表情はいつもと同じですが、声の抑揚や調子から気持ちは大体読み取れます。
「王都の西に出現した魔物の件は知っているだろうか?」
「はい。聞き及んでいます。とても強い魔物で、街道が封鎖された、とか」
「そうだ。それをやっと討伐できてな。討ち果たしたのが、俺の騎士団に所属している騎士で、その功績から正式に貴族に取り立てられることが決まったんだ」
「まぁ、それはおめでとうございます!」
ラングリフ様が団長を務める騎士団は、王都周辺の治安維持を任されています。
騎士団の方々とは今まで何度も顔を合わせており、私も嬉しく思えました。
「立食パーティーは若き英雄の誕生を祝うためのものなんだが、ウチの団員だからな。俺が出ないのでは格好がつかない。それで君にも同行してほしいんだが……」
「何か、問題でも?」
珍しく歯切れの悪いラングリフ様に、私はそう尋ねます。
彼は小さく息をついて、やはり気まずげにしながらも答えてくれました。
「パーティーには父上も出席する。と、いうことはつまり――」
「サミュエル殿下とシルティアもその場にいる、ということですね。お父様達も」
「ああ。君にとっては苦痛かもしれないが……」
「いいえ、構いませんよ。私もご一緒させていただきます」
私は、笑ってラングリフ様にうなずきました。
「いいのか?」
「ええ、大丈夫です。ラングリフ様と一緒でしたら、どこであっても平気です」
「ありがとう、リリエッタ。君がいてくれるなら、こんなに心強いことはないよ」
「どこにでもお連れください。私はラングリフ様の『花』ですから」
そうして、私とラングリフ様は唇を重ねます。
彼の腕に抱かれて、私は高まる気持ちに熱い吐息を漏らします。
ラングリフ様は、私のことを案じてくれました。
でも、話を聞いているうちに、私は少しずつ実感を覚えていったのです。
サミュエル殿下も、シルティアも、お父様のことも、もう何とも思いません。
自分でも驚くくらいに、あの人達のことがどうでもよくなっていました。
ああ、本当に私はこの一年で変わったのだと実感します。
これも、逞しい両腕で私を抱きしめてくれている、素敵な旦那様のおかげです。
一か月後、私は初めてラングリフ様に伴われて社交場へと赴くのでした。
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