第3話 断崖の君

 それは、突然のことでした。


「明日、おまえにはこの屋敷を出ていってもらう」

「……え?」


 数週間ぶりにお父様の部屋に呼び出されて、そう命じられたのです。

 その場には、お母様も同席していました。


「あ、明日、ですか……?」

「そうだ。この屋敷を出て、ラングリフ殿下のお屋敷に行ってもらう」


 ――ラングリフ殿下。


 サミュエル殿下の弟君で、生来笑ったことがない『断崖の君』と呼ばれる方。

 武勇に優れ、現在は第一騎士団を任されている、とか……。


 貴族の間では『笑わないこと』が噂になってはいます。

 けれど、殿下御本人のお話は、私はそれほど聞いたことがありません。


 伝え聞くところによると、今までに幾つもの武勲を挙げられている、とか。

 他にも、王族でありながら最前線で剣を振るい多くの魔物を屠っている、とか。


 パーティーにもほとんど顔を出さず、私も一度もお会いしたことがありません。

 それだけに、私の中には強い不安がありました。


 そのような御方に嫁入りして、果たしてやっていけるのか、と。

 誰にも相談できず、その不安は今日まで私の胸の中に蟠っていました。


「……さすがに、性急すぎるのでは?」


 胸の内の不安が、私にそのような言葉を紡がせます。

 すると、お父様は苛立たしげに顔をしかめて、声を大きくして私に言うのです。


「これはすでに決まったことだ。おまえはただ従えばいい」

「で、ですが……」

「『ですが』? ……何だ、おまえは私に口答えする気か? 女の分際で!」


 急に怒りを露わにするお父様に、私は「ひ」と声をあげて身を竦ませました。

 お父様は強く拳を握り締めて、こちらを睨みつけてきます。


「そもそも、おまえが悪いのだ、リリエッタ!」

「私が、ですか……?」


「そうだ。おまえがサミュエル殿下のお心を射止められる女でなかったから、あの御目見えの場で私が恥をかくこととなったのだぞ! わかっているのか!」

「な――」


 それは、学のない私でもわかる、完全な言いがかりでした。

 私はあの日までお父様の言いつけに従い続けてきたのに、そんな言い草。


「何だその顔は? 何か不満があるのか? サミュエル殿下に選ばれなかったのはおまえ自身の魅力が足りなかったからではないか。それは私の責任ではない!」


 込み上げる憤激をそのまま私にぶつけて、お父様は私を罵り続けました。


「家のために役に立つのがおまえとシルティアの役割だ。だがおまえは、それができなかった。おまえの責任だ! ならばせめて、ラングリフ殿下に嫁ぐことで、最低限でも役に立て! 今のおまえの存在価値などそれだけだ!!」


 それは、あまりといえばあまりな言い方でした。

 私も貴族社会に生きる者です。

 自分が果たすべき役目はわかっています。貴族社会において、女は道具です。


 わかっています。

 そんなこと、言われずともわかっています。


 だから、面と向かって言われると辛いのではありませんか!

 自分が道具であると知っていても、人間扱いされなければ人は傷つくのですッ!


「……お母様」


 私は、ずっと押し黙ったままのお母様に助けを求めました。

 お母様とは、普段はあまり話したりはしません。


 ずっとお父様のもとで貴族の女としての役割を学ばされてきたのが、私です。

 けれど、今、お父様は私を捨てようとしています。


 私がラングリフ殿下のもとに嫁ぐことは、すでに決まったことです。

 それに抗ってもどうしようもないことはわかっています。


 でも、この場でのお父様の言いようは、さすがに私も納得できかねます。

 だけど私一人では、お父様に反論することもままなりません。だから、お母様。


 私を少しでも哀れと思うなら、助けてください。

 たった一度、この場で味方になってくれたのなら、それだけで私は救われます。

 お願いします、お母様。どうか、どうか――、


「……リリエッタ」


 お母様が、私の名を呼びます。

 助けてもらえる。そう思いました。でもそれは、浅はかな考えでした。


「よかったわね、リリエッタ。ラングリフ殿下に嫁げるなんて光栄なことね」


 お母様の言葉は、私を祝福してくれているようでした。

 しかし、そこにあるニュアンスは、明らかに私を突き放すものだったのです。


「お母、様……?」

「リリエッタ、私はね、私によく似ているあなたのことが前から好きではなかったのよ。あなたは今の今まで、ずっと知らずにいたのでしょうけどね」


 お母様?

 何を、何を言っているのですか、お母様!?


「あなたは私と同じ『ただの道具』なのよ、リリエッタ。お父様のもとで『花の令嬢』として育っていくあなたを見て、私は嫌悪感を覚えていたわ。だって、あなたはこの家に嫁ぐ前の私と変わらないから。本当に、私はあなたが嫌いだったわ」


 そう言って、お母様は私に笑顔を見せるのです。

 それはまさしく、私が普段から見せているもに酷似した空っぽな笑顔でした。


「おい……」


 お父様が、不満を露わにしてお母様をねめつけます。

 けれどお母様はそれをサラリとかわして、勝ち誇ったように言うのです。


「何か問題でも? シルティアはあなたと私なら、私の側につくと言っておりましたよ? それはあなたも御存じでしょうに。ねぇ、未来の王妃様のお父様?」

「……チッ! わかっている!」


 今までお父様に従うだけだったお母様が、今はとても生き生きとしていました。

 ああ、そうなのですね。お母様は私がお嫌いだったのですね。

 だからこの人は、シルティアの修道院行きにも反対したのですね。


 遅まきながらの納得が私の心を占めました。

 そして、お父様は私を見て、叩きつけるように言ってくるのです。


「まだいたのか! 話は終わった! さっさと部屋に戻れ、愚図めが!」


 お母様は、罵られるわたしをニヤニヤと笑いながら眺めていました。

 この人達にとって、今の私はただの邪魔者でしかないと、痛感させられました。


 翌日、私は言いつけ通りに屋敷を出ました。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 ……いっそ、死んでしまおうか。


 ふと、思いついたのです。

 ここで私が死ねば、王家とデュッセル家の体面に泥を塗れるのではないか、と。


 これは、実行すればきっと上手くいくでしょう。

 遺書でもつければ完璧ですね。

 常にゴシップに飢えている宮廷の皆様に、最高の話題を提供できます。


 今さら、サミュエル殿下とシルティアの婚姻を壊すことはできないでしょう。

 けれど私の命を対価に、デュッセル家を失脚に追い込めるかもしれません。

 行き詰まった現状、それは魅力的なアイディアに思えました。


「――思いつくのが、遅いのですけどね」


 大きな扉を前にし、私は嘆息と共にそう零します。

 実行するなら、屋敷を出る前が最善でした。今は無理です。もう無理です。


 だって、この扉の向こうに殿下がいらっしゃられるのですから。

 そうです、ここはラングリフ殿下のお屋敷なのです。


 デュッセル家のものよりもさらに立派な、今後の私の居場所となるお屋敷です。

 そして、侍女長に案内されて到着したのが、この扉の前なのでした。


「殿下、リリエッタ様をお連れいたしました」


 私を案内してくれた四十代ほどの侍女長が、扉をノックしてそう告げます。


「入ってくれ」


 扉の向こうから、落ち着きのある声が返されます。

 侍女長が扉を開けて、深々と一礼しました。


「失礼いたします」


 当然、私も深く頭を下げます。


「殿下、こちらがリリエッタ様となります」

「ラングリフ殿下、ご機嫌麗しゅうございます。本日よりこちらでお世話になることとなりました、リリエッタ・ミラ・デュッセルと申します」


 ガシャン。


 ――という、足音が聞こえました。……ガシャン?


「そうか、わかった。顔をあげてくれ」

「は、はい……」


 今の音は何だろうと思いながら、私は言われた通りに顔をあげます。

 広い部屋の真ん中に、銀色に煌めく全身甲冑が立っていました。


「…………ぇ?」


 私は、固まってしまいます。

 屋内だというのに、腰に立派な剣を差した、壮麗な装飾が施された甲冑でした。


 頭から指先、爪先まで完全武装をしています。

 え、あれ、え? わ、私、来るところを間違てしまったのでしょうか?


「――殿下?」


 と、侍女長が、頬をヒクリとさせて呟きます。え、殿下!?


「どうした、マリセア?」

「その格好は、一体何事ですか?」

「ん? リリエッタは今日が初めてだろう? だから緊張していると思ってな」


 緊張はしています。当然です。でも、それがどうして全身、甲冑……?


「まずはインパクトのある登場で肩の力を抜けるようにしてやろうと思ったんだが、ダメだったか……? 俺としては、かなり会心の出来だと思っているんだが」

「最初の対面でその格好で出てこられたら、感じるのは死の恐怖だけですよ」

「何ッ!?」


 ガチャガチャと音を立てて、全身甲冑の人が激しい狼狽を見せます。

 会話を聞く限りこの方が『断崖の君』――、ラングリフ殿下、なのですよね?


「とにかく、せめて兜くらいは脱いでください。屋内でフルフェイスとか……」

「むぅ……」


 侍女長――、マリセアさんの呆れ声に不満げに呻いて、殿下は兜を脱ぎました。

 すると、現れたのは黒髪黒目の、雄々しく精悍な顔立ちをした男性でした。


 背丈はサミュエル殿下と同じほどで、武装もあって物々しい雰囲気です。

 ただ、甲冑を帯びたその姿に違和感はありません。

 むしろその立ち姿は洗練されていて、英雄という言葉を形にしたかのよう。


 サミュエル殿下は周りから『金色の獅子』と呼ばれています。

 それに対して、ラングリフ殿下は『黒き大鷲』のような印象の方でした。

 そんなラングリフ殿下ですが、一言、呟かれました。


「……これは、滑ったか?」

「ええ、これ以上なく」

「これ以上なくか。相変わらずマリセアは容赦がないな」


 近くにある机に兜を置いて、殿下は表情を変えることなく肩を落とします。

 その際も、纏われている甲冑がいちいちガチャリと金属音を立てているのです。


 この方が『断崖の君』?

 武装していることもあり、見た目は確かに威圧感があります。


 けれども、聞いていたお話とはイメージが違うような……。

 他人に心を開くことのない、単身で断崖に立つ孤高なるお方、ですか……?


「――で、そちらが、例の」


 ラングリフ殿下の黒い瞳が、今度は私に向けられます。

 そのときにはもう、私の顔にはいつもの笑みが浮かんでいました。反射的に。


「リリエッタ・ミラ・デュッセルでございます」


 殿下に対して、私は改めて御挨拶をしました。

 サミュエル殿下にできなかったことを、ラングリフ殿下に行なったのです。


 何を今さら、という想いが私の胸を深く衝きます。

 この挨拶のやり方も、私を捨てたお父様から学んだことではありませんか。


 今となっては、その記憶の全てが唾棄すべきもののはず。

 なのに、私はこうして学んだことを学んだ通りに行なっています。愚かしくも。


 本当に空っぽな自分。嫌気が差します。

 今の私に残されているのは、上辺を繕う『花の令嬢』としての笑顔だけで――、


「リリエッタ」

「はい、ラングリフ殿下。何でございましょうか?」


「もしや、何か不満などあったりするか? 俺は何かしてしまったかな?」

「……はい?」


 急に、何を言われるのでしょうか。

 私は意味が理解できず、殿下のお顔を見返しますが全く表情が読めません。


 ラングリフ殿下はその端正なお顔をきつく引き締めておられます。

 そこには、確かに威圧的なものが感じられました。

 きっとこれも殿下が『断崖の君』と揶揄される原因の一端だろうと思いました。


「いや、君のことは笑顔が美しい『花の令嬢』であると聞き及んでいたのだが」

「は、はい……」

「しかし、どうにも笑顔がぎこちないのでな。無理矢理作っている笑みのように思えてしまったのだ。だから、もしや俺がやらかしてしまったのか、とな……」


 無理矢理、作っているような笑顔……?


「あの……」

「それでは、殿下。リリエッタ様をお連れ致しましたので、私はこれで」

「ああ、ご苦労だった。マリセア」


 戸惑う私をよそに、殿下はマリセアさんを見送りました。

 そして、広い部屋の中に、私と殿下だけが残される形となったのです。


「さて……」

「はい」


 殿下が再びこちらへと視線を向けられます。

 私は、変わらず笑顔を保ったまま、ラングリフ殿下の次の言葉を待ちます。


「あのな、リリエッタ」

「はい、殿下」


「俺は兄貴とは違って口が上手くない。政治やら、貴族の駆け引きやらにも疎い無骨なだけの男だ。だから礼を失していることは承知で言わせてもらうのだが」

「は、はい……」


 殿下の鋭いまなざしが、私を射貫きます。


「そんなに笑いたくないなら、笑うのをやめたらどうなんだ?」

「…………」


 私は、何も返すことができませんでした。

 殿下のお言葉に、心の奥の最も深い部分を突き刺されてしまったからです。


「君の境遇については聞いている。兄貴が随分な無礼を働いたようで、本当に申し訳なく思っている。君も、俺みたいなヤツのところに寄越されて迷惑に感じていることだろう。だが、俺が王族だからと遠慮して無理に愛想笑いをする必要は――」

「……違うのです」


 かすれ声での呟きは、自分でも気づかないうちに漏れていました。


「ん? 違う、とは?」

「今、殿下がおっしゃられたことは、当たっています」


 私は、それを認めました。

 笑顔のままで、殿下のお言葉を肯定しました。


「本当は、私は笑いたくなんてありません」

「ああ、そうだろうな。俺のような男のもとに嫁がされるなど、迷惑でしか……」

「違うのです。そうではないのです!」


 つい、声を荒げてしまいました。

 笑顔のままで、でも、堪えきれずに、抑えきれずに、叫んでいました。


「私は、笑うことしかできないのです!」

「笑うこと、しか……?」

「そうです! 私はそのように育てられました! サミュエル殿下の伴侶として常に華々しくいられるよう、殿下の隣で笑っていられる『花』であれと、父に言いつけられてきました! それを正しいと信じて、私は笑顔を磨き続けました!」


 外にまで響くであろう大声で、私はそれをまくし立てていました。

 それがどれほどはしたないことか、頭の片隅で理解しながらも止められません。


 これまでずっと我慢していたものが、決壊してしまったのです。

 私は、溢れるものを抑えようともせず、声にして殿下に向かって迸らせます。


「だけど、私は選ばれませんでした! サミュエル殿下は妹を選んだのです! 父も母もそれを支持して、私は居場所をなくしました! 父の言いつけをずっと信じて従ってきたのに、生まれてきた理由を全うしようとしていたのに……ッ!」


 いつしか、私の瞳から涙が溢れていました。

 泣いていました。そして、笑ってもいました。こんなときなのに、私は、まだ。


 笑わなきゃ。

 笑わなきゃ。

 心の根に刻まれた強迫観念が、私に笑顔を強いるのです。


「私は、笑いたくなんてありません! ずっと磨いてきたものは、私に何もくれませんでした! なのに、私はどうしても笑うことをやめられない……」


 嗚咽を漏らすのです。笑いながら。

 崩れ落ちてすすり泣くのです。笑いながら。


 これが、私です。

 これこそが、リリエッタ・ミラ・デュッセルなのです。


 本当に、本当に度し難い。

 殿下には、今の私は不気味に映ったことでしょう。笑いながら泣く女など……。


「リリエッタ」


 カシャン、という音がすぐ近くに聞こえました。

 両手で覆っていた顔をあげると、膝をついて私を見つめる殿下のお顔。


 磨きあげた黒曜石のようなその瞳に、いびつに笑う私が映り込んでいます。

 殿下は、甲冑に覆われた手を伸ばして、頬をそっと優しく撫でてくれました。

 金属の冷たさが、熱くなった私の顔にとても心地よくて――、


「すまなかった」

「ぇ……」


「どうやら、俺は踏み込んではいけない部分に無遠慮に足を踏み入れてしまったようだ。君を泣かせるつもりなんてなかったのだが、本当に至らぬ男ですまない」

「そ、そんな……」


 頭を下げてくる殿下に、私は泣くことも忘れて、すぐにかぶりを振りました。


「で、殿下が謝られることなんて、何もありません! 私の方こそ、ラングリフ殿下と婚約させていただきながら、大変な失礼を……! も、申し訳……」


 ああ、何ていう恥知らずな真似を……。

 この場で手打ちにされても、何も文句が言えません。殿下に対して何と無礼な。


「それは気にしなくていい」


 けれど、殿下はそう言ってくださったのです。


「むしろ今ので、俺は君という人間の実像をわずかなりとも掴めた気がするよ」

「ぅ……」


 そんなことを言われてしまって、私の心に急激な羞恥が込み上げてきました。

 でも、私はそれを表に出すことはありません。笑顔が覆い隠します。


「お人が悪いですよ、殿下」

「ふむ、一瞬笑顔が崩れかけたが、すぐに持ち直したな。本当に鉄壁の笑みだな」

「……殿下?」


 人の笑顔に『鉄壁』はないと思うのですけど、殿下?


「なぁ、リリエッタ」

「何でしょうか?」


「君は自らの本意ならずとも、今、自分のことを俺に明かしてくれたな?」

「え、ええ……」


 本当に、本意ならずとも、ですけれど。結果的にはそうなってしまいました。


「だから俺も、君と対等であるために、君に俺のことを明かそうと思う」

「殿下のことを、ですか……?」


 意味がつかめず首をかしげる私に、殿下は言われました。


「俺は、呪われているんだ」


 ――――え?

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