第1話 夜ノ窓

 夜の窓って鏡みたい。

 そう思いながら、わたし――出野いづるの詩露しろは部屋の窓に手を当てました。その拍子に、わたしの座る回転いすがキイッ、と音を立てます。小学校入学と同時に買ってもらったこの回転いすはもう五歳。もしかしたら、人間でいえばおじいちゃんの年なのかも。

 そんなとりとめのない考えなど、まったくしていないように。窓に映るわたしも同じように、けれどまったく静かに手を当てました。

 目にかかるくらいの前がみに、腰くらいまである後ろがみ。猫背ぎみの姿勢に真っ白なはだ。「しろ」という名前もあいまって、わたしは小学校では「おばけ」と呼ばれていました。「おばけのしろ」、と。

 クラスの男子にそうやってからかわれるたび、友達のかなちゃんはおこってくれました。「もう五年生なのにそんなこと言ってはずかしくないの」と。そして決まって言うのです。「しろちゃんはおばけなんかじゃないよ、おはだきれいでうらやましいよ」、って。かなちゃんがそう言うたび、わたしは「ありがとう」と言って、ぎこちない笑みをうかべました。

 だって、わたしのことがうらやましいなんて、わたしには全然わからないんです。真っ白なはだも、「しろ」という名前も、わたしはあまり好きではありませんでした。おまけに、体育のドッジボールでは顔面にボールを当てられるし、算数の時間は当てられたのに答えられなかったし……。クラスの男子がわたしのことを「おばけ」とからかうのもよくわかります。

「このまま別の世界に行けたりしないかなあ……」

 窓に手を当てたまま、わたしはそうつぶやきました。

 夜の窓ってなんだか不思議。

 お部屋の明かりの下の小物たちと、暗いお庭に咲きみだれるお花たち。このお部屋の中と外、ふたつの景色が混じって、なんだか別の世界にいるみたい。

「別の世界……行くなら魔法がある世界がいいなあ! お花の魔法で、妖精さんたちと仲良くなって冒険するみたいな……。あ、でも、スチームパンク系もいいかも! 蒸気とこの世界とは違う仕組みで動く乗り物に乗って、あっちこっち旅するの。それで、行く先々で人助けして、感謝されて……!」

 窓の直角の位置、つまりわたしの右横には学習机があります。回転いすと同じく、五歳の机。学習机とは名ばかりで、そこに並んでいるのはファンタジー小説やSF少女漫画ばかりなのですが。

 わたしは窓から手をはなしてその名ばかり学習机に向き直り、ひじを乗せてほっぺたを包みました。考えだしたらもう止まりません。わたしの意識は空想の世界に入り込みました。

 魔法の世界で冒険する? 蒸気の世界で人助け? それとも、すごーく強いからだに生まれ変わって大暴れ? それでそれで、たまたま助けた人に告白されて、実はその人はすごい国の王子様で――。

「……って、だめだめ。わたしはともくんのことが好きなのに」

 われに返ってそうつぶやいて、自分で言ってはずかしくなります。

 ともくん、とは同じクラスの押野おしのともくんのことです。ともくんはすごくて、わたしが当てられてあわや負けそうになったドッジボールではほぼひとりで点を取り返し、わたしが答えられなかった算数の問題は見事に答えを当てて見せたりと、ともかく運動も勉強もできるヒーローなのです。おまけにいつも明るくてわたしみたいなおばけにも話しかけてくれる優しい男子となれば、もう好きにならないはずがありません。……もちろん、だれにでも優しいともくんは大人気で、クラス、いや、学年の女子の半分近くはともくんのことを好きなのですが。

「やっぱり今日、ちゃんと返事できればよかった……」

 帰る直前のことを思い出し、私の頭はずるずると両手の間に埋もれていきました。

 実は今日、ともくんに放課後いっしょに遊ばないかと誘われたのです。どうやらともくんとよくいる男子メンバーで放課後またドッジボールをやろうという話になり、人を集めているようでした。だから特別わたしだけが誘われたというわけではないのですが。

 ともくんが! わたしに! 話しかけてくれた!!

 それだけでもう、信じられないくらいに嬉しくて、奇跡みたいで。

「あっ。え、っと、そのっ……」

「ともー、おばけは誘わなくていいよ。どうせ当てられるし。他には参加する人いないー?」

 びっくりして頭が真っ白になっているうちに別の男子がともくんのことを呼び、ともくんは、

「そんな言い方すんなよー! でも、あいつらいるししろちゃんイヤな思いしちゃうかも。今日はやめとく?」

「あ、う、うん……」

「そっか、じゃあまた明日! バイバイ!」

 わたしが口をぱくぱくさせている間にさわやかに去って行ってしまったのでした。その一部始終を見ていたかなちゃんに、帰り道、「しろちゃん! せっかくともくんが話しかけてくれたんだから、もっとちゃんとお話しなよ! せめてバイバイくらい返しなよ!!」としかられたのは言うまでもありません。

「うぅ……。わたしだって……ともくんとちゃんとお話したいって思ってるよぅ……」

 両手の間の頭はさらに下がり、ついにゴツンとおでこが机にぶつかりました。

 ともくんのことが好きならまずはあいさつしてお話するところから始めないといけないなんて、かなちゃんに言われなくたってわかっています。この世界は少女漫画とは違って、ただ待ってるだけでは何も起こりっこないのです。

 ……とは言うものの。

「それができたら苦労しないって」

 わたしはつぶやき、口から特大のため息を吐き出しました。わかっているけどできない、だから頭を抱えているのです。

 そりゃあわたしだって、というかわたしが一番、好きな人とおしゃべりしたいです。でも、ともくんとしゃべる! と思うとなんだかいっつも頭がこんがらがっちゃって。なんて返そう、この答えは嫌われないかな、あ、わたし今笑ってる? ちゃんと楽しそうに見える? そんなこと考えて何も言えないうちに、気づいたら話題は終わって人気者のともくんはまた別のグループに行ってしまうのです。

 うぅ、告白とかは全然考えられないけど、せめてちゃんとお話できるようになって、それでちゃんと友達になりたい……。

 これ以上頭を下げることができず、わたしは目をそらすみたいにまた窓を見ました。

 夜の窓って鏡みたい。それも、なんだか不思議な鏡。

 窓の向こうの自分と目が合い、わたしはそれに手を伸ばしました。ツル、とひんやり固い感触が伝わってきます。

「このまま……向こう側の世界に行けたらいいのになぁ。それで、不思議な力も持ってて、色んな人を助けられるくらい優しかったら……そしたらきっと、ともくんとも普通に話せるのに……」

 異世界転移とか、異世界転生とか、最近の物語ではよくある展開です。そして異世界に行った人はみんな、ものすごい力を持っていたり神さまにもらったりして、とんとん拍子に事が運ぶのでした。

「わたしにもそういう展開、来ないかなあ~」

 なんとはなしに言った時、


 ――ねぇ。


 誰かの声が聞こえた気がして、わたしはきょろきょろと左右を見回しました。

 ここはわたしの家のわたしの部屋。当然わたししかいないはずです。――あっ、もしかしてリビングのママが呼んだのかも。

 わたしは自分の部屋から顔だけのぞかせ、リビングに向かって叫びました。

「ママー、今呼んだ?」

「うーん? 呼んでないわよー。ていうか、詩露、まだ起きてたの。早く寝なさい。明日学校休みだからって夜更かししすぎよー」

「うん、もう寝るー」

 もう夜の十時近い時間です。ママの言う通り、さすがにそろそろ寝なくては。顔を引っ込めようとした時、

「あ、詩露、またカーテン開けっ放しにしてるんじゃないでしょうねー? あれ、外から丸見えだからやめてって言ってるでしょう。暗くなったらカーテン閉めるのよ」

 うへぇバレてた。さすがママ。

「はーい。カーテン閉めるしもう寝る! おやすみ、ママ」

「おやすみなさい、詩露」

 わたしは今度こそ部屋に戻ってドアを閉めました。そしてまっすぐ前を向くと、あの窓が目に入ります。開けるとそのまま庭へ出ることができる、大きな窓。

 わたしはそれに近づき表面をそっとなでました。

「さっきの声……この中から聞こえた気がする……」

 向こう側のわたしも同じように表面をなで、わたしたちは手を合わせるようにしてお互いの顔を見つめました。

 季節はもう六月。まだ夏とは言いたくない月なのに、雨と重なって寝苦しい夜も増えてきました。それなのに、その透明な板はわたしの体温を吸収するみたいに冷たくて。

 ……夜の窓って鏡みたい。それも、なんだかちょっぴり不気味な鏡。

「――いや、ないない。気のせいでしょ。もう寝よ」

 わたしが窓から手をはなしてカーテンを閉めようとした時。


 ――ねぇ。ねぇってば!!


 再び声が聞こえ、わたしはギョっと手を止めました。

 微かな、けれどハッキリと聞こえた声。それはくぐもってはいたけれど女の子の声で――そして確かに、この窓の中から聞こえました。

「窓の中って――いや、ないない。異世界とか、そういうのは小説の中だけだよ。ていうか普通に、外に誰かいるんでしょ。もう、誰、こんな時間に。イタズラ? かなちゃん?」

 こんな時間に外から呼びかけるなんて、イタズラだとしたらなかなかのヤンチャっぷりです。いくらわたしが「おばけ」とからかわれていると言っても、それは一部の男子がたまにそう呼ぶだけで、いじめられているわけではありません。ましてや家に来るなんて。あ、もしかしたら普通に困ってる人が外にいるのかな? 怪我したりとか、緊急事態の人が。

 そう思って窓の反対、お外に目を向けようとして。

 わたしは目を見開いて固まりました。

「なにこれ……。えっ、うそ、なにこれ……」

 もしわたしが配信者だったら、きっと速攻でブラウザバックされてるでしょう。ああ、ドッキリ企画ならまだいけるかな。目の前の光景が信じられなさすぎて、わたしの頭はまるで関係のないことを考え始めました。……だって、それほどまでに、そこに映っているのはわたしの知る景色とはかけ離れていて。

 部屋。そこに映っているのは確かに部屋です。けれどさっきまで反射していた、学習机とベッドと小さな本棚でいっぱいの、ごちゃごちゃとしたわたしの部屋ではなく。

 お上品な猫あしの丸テーブルと、それとおそろいのデザインの二脚の丸いす。

 薄い布が幾重にも重なった、天がい付きの大きなベッド。

 深いこげ茶色でどっしりとしたつくりの本棚。中には大きな背表紙の本がびっちりと詰まっています。

 それらがぴしりときれいに置かれ、それでもなお、そのお部屋はわたしが踊り回れるくらいに広くきれいで。

「お姫様が住んでるみたい……」

 さっきまでのおどろきも忘れ、ついついそのお部屋に見入ってしまいました。これは夢、それとも幻覚かなにか? 小説の読みすぎかな?


 ――あ、気づいた!? ねぇ、あなた!


 また声が聞こえました。

 お姫様が住んでるようなお部屋、そこにはひとりの女の子が立っていました。ちょうどわたしと対称になるような位置です。背格好もわたしと同じくらい。

「って、当たり前だよね。結局、これは窓に映り込んでるだけなんだし――って、え? ええ!?」

 わたしがそう言った側からその人はこちらへ向かって一歩、また一歩と近づいてきて(当然わたしは動いてません!)――


「お願い、私たちの世界を助けてほしいの!」


 夜の窓って鏡みたい。それも、とびっきり奇妙で不思議な鏡。

 窓にびたりと両手をつけて。顔もくっつきそうなくらいに近づけて。とてもとても真剣な表情で。はっきりと、確かに、間違いなく――わたしとまったく同じ顔でそう言う彼女を見ながら、わたしはぼんやりと考えました。

 ――もし、これが夢じゃないのなら。

 ――もし、別の世界に行ってなにか特別な力をもらえるのなら。

 混乱と不安、そして同じくらいの輝く希望。

 それらを抱えて、わたしはゆっくりと頷きました。

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