会議室のプラム・ダンサー
くらげもてま
本文
人類の三大禁忌が何かご存知だろうか?
一般的には「殺人」「食人」「近親相姦」とされている。
確かにそりゃ悪いだろとは思うが、はっきりいって日常的な概念じゃない。そんなもん禁忌で当然だ。定義づけする意味がない。
俺から言わせてみれば人類の三大禁忌はこうだ。
つまり、「無駄な会議」「文字で真っ黒なスライド資料」「会議中に寝る田井中部長」、これだ。
「ですから、本プロジェクトは我がチーム肝いりの――つまり全員のコミットメントが不可欠で――」
会議室の椅子は寝心地が良い。深々と座り込み、舟を漕ぐ田井中部長の汗ばんだ禿頭。
狭い会議室に満ちる埃っぽい臭い。SDGs政策のあおりを受けて28度の生温い風を吐き出すエアコンの喘ぎ声。
まんじりともせず資料を凝視する今年定年の斎藤さんを飛ばして、その先……。
(美人だな……)
退屈を持て余した俺が彼女に目を向けたのは、まったくいたしかたない事だった。
年齢は27か8ってところだろうか。俺とそう変わらなく見える。
ピシッとしたアイライン。主張しすぎないリップの赤。まさに絵に描いたような美人OLって感じ。
どこの課の人だろう、と思ったが、首から下がった社員証はビジネスパートナー向けの貸し出し品だった。
隣の田井中部長の禿頭が真横で上下しているのすら気にかけず、大きな瞳でじっとスライドを見つめている。
「まさに集中をする、ということですよ。どうしたら全社員が一丸となって集中できるかということ――」
この炎天下にオフィスまで来て、それでこんな退屈な会議に参加させられたのか。
だが彼女のきゅっと結ばれた口は不平不満を吐き出しそうにはちっとも見えない。
手元の資料に目を落とすふりをしながら、俺はいつしかじっと彼女を見つめていた。
(どこの会社の人だろう? さすがに声なんかかけたらマズイよな……いや業種を訊くくらいならいいか?)
俺の胸に湧いたやましい考えを誰が咎められようか。いや、咎められまい。
田井中部長の禿頭をできる限り意識から切り捨て、俺の意識はますます彼女に集中していく。
せめて名前くらいわかれば声もかけやすいんだがな……。
「また、本プロジェクトはおおよそのアウトラインは決まっているものの、いくつかの重要な決定事項を残したままであります。本日は皆様に是非そのご検討を――」
会議はますます退屈になっていく。俺はますます彼女のめり込んでいく。
僥倖なことに、机の上に彼女のクラッチバッグが出しっぱなしになっていた。
資料やPCの充電コードに合わせて、ちらっと覗くものを俺の目は見逃さない。
(なんだあれ? 文庫本か?)
背表紙だけが覗いていた。仕事用のバッグだろうけど、通勤中なんかに読むのかもしれない。
俺は想像する。彼女が満員電車に揺られながら、左手でつり革を背伸びしてつかみ、右手で文庫本のページを億劫げにめくるそのさまを。そのけだるげな表情。隣の礼儀知らずな親父の肩がぶつかり、ため息とともに身を寄せる。しかし視線は片時もページから離さない。そのアンニュイで大人びた目元の気だるさ!
(いったいどんな本を読んでるんだろう?)
きっと文学的なものに違いない。例えばカミュの『キッチン』とか……それは吉本ばななか? そもそもカミュは作家であってたかな? 詩人だったかもしれない。オペラ歌手だっけ?
とにかく俺はそんな文学的タイトルを期待したんだ。だが、実際に見えたタイトルは全く180度違ったものだった。
『薄桃色の踊り子』
俺が目を疑ったことは言うまでもない。見間違えかと思って――例えば『薄紅色の踊り子』ならまだわかる――見返したが、現実とは時に残酷なものだ。
言うに事欠いて「薄桃色」か! それもただの薄桃色ではなく『薄桃色の踊り子』!
「つまりカラーなんですよね、重要なのは! カラーがチームの色を、ひいてはメンバーひとりひとりの色を決めるわけです。そしてそれは商品の色も決定しますよね――」
この世に色は様々あるが、踊り子という単語と結びついた薄桃色は、これはもうたった一つの可能性しか示さないものだ。例えば薄桃色の乳房の先だとか、薄桃色のヒップだとか、薄桃色の――いやよそう。
(あれは官能小説じゃないのか!?)
ようするにこれだった。
きっとこの会議に参加した人間の誰も想像だにしないだろう。あの美人OLがまさか官能小説をバッグに入れて持ち歩いているなんて!
しかし事実は事実だ。俺は先程のイメージを大幅に修正する必要を迫られた。
アンニュイでけだるげなイメージはもはやない。残ったのは、誰もいないオフィスで一人、残業の疲れから解放されようと彼女が取り出す一冊の文庫本。その背表紙に記されたタイトルは『薄桃色の踊り子』。彼女のネイルの美しい指先がそっと伸びて――。
(いや、なにかしっくりこないな……)
股間に熱が溜まっていくのはわかるが、どうも集中できない。おそらくタイトルのせいだ。俺と同い年くらいのOLが『薄桃色の踊り子』は無いだろう。まるでセンスが昭和生まれのおっさんだ。
しかしタイトルは変更できない(俺の視界の中央にはずっとそいつが映っている)。それで気がつく。おそらくあのタイトルにはルビが振られるのだろう。彼女にピッタリの官能的な横文字だ。
だがどんなルビだ?
(踊り子は
噛み合う、とはこういう時の事を言うのだろう。散らばっていたイメージが俺の脳内で結びつき、くっきりと像を結ぶ。深夜のオフィス、淡い蛍光灯の明滅する下で、彼女はそっと文庫本を取り出す。そのタイトルは『
「というわけで、西之川さん、何かいいアイデアはありませんか?」
「え!? あ、はい!」
名前を呼ばれて反射的に立ち上がっていた。彼女の興味なさげな視線が俺を見上げている。それだけじゃなく、会議室全員の目が俺に集まっていた。
何だ? 何の話だ!? スライドから情報を読み取ろうとするが、ぎっしり詰まった文字はそそり立つ壁のように俺を寄せ付けない。居眠りしてたはずの田井中部長すら目を覚まして「期待してるぜ!」って顔で俺を見上げてる。
まずい、まさか美人OLについて考えていたなんて言えない。とにかく必死でスライドから情報を拾う。単語は拾えるがそれが意味を成す文章につながらない。「アイドルと」「TikTok展開」「踊りと音楽」「若い刺激」……
「ええと、何かいいアイデア無いですかね?」
司会進行の社員が微笑む。それが軽蔑の笑みなのか、社交辞令なのか、単に困っているだけなのかわからない。
とにかく時間がないことだけがわかった。
「ぷ……」
思わず口に出してから「しまった」と気がつくが遅すぎる。
「ぷ」まで言ってしまったらもう引き返せない。
ああ、クソ、神様。
「プラム・ダンサーというのは……その……どうでしょうか……?」
会議室に沈黙が降りた。
終わった、と思った。「辞表の書き方 検索」というアナウンスが脳内で踊る。
よろよろと椅子にへたり込んだ――が
「うん、いいんじゃないか」
「ちょっと刺激的すぎないかね?」
「いやあ若者向けだったらこれくらいでいいんでしょう」
「じゃあプラム・ダンサー・プロジェクトだな。PDPでタスクきっといて」
「議事録まとめたらまわしてもらえる? 俺次あるから」
「おつかれっすー」
いつの間にか和やかな解散ムードになっている会議室。
一人また一人と消えていき、そこにはあの美人OLの後ろ姿もあった。
それからふと、とんでもないセクハラをしたんじゃないかと肝が冷える。
いや、プラム・ダンサーは俺が適当に考えたルビだし、そもそも官能小説とは限らない。出ていく彼女と目が合う。
「お疲れ様でした。いいテーマ名が決まってよかったですね。いきなり質問されたのにあんなすぐ思いついたんですか? 感心しちゃいました」
「あ、はい、どうも……」
とても官能小説のタイトルを暴かれたとは思えない表情。それは最初に想像した、あのアンニュイで知的な姿そのものだった。
ていうかこれ、セクハラどころか結構好感触得た……?
「待って、名前――」
慌てて立ち上がった俺の肩を、何かガッシリとしたものがつかむ。
何だよ今忙しいのに! と振り返ると、田井中部長の汗ばんだハゲ頭が目に入った。
「に、西之川君……」
部長の手が震えている。しかも顔が……赤い?
それは部下の俺がいいアイデアを出して誇らしいせいだと思った。最初は。
だが俺は気がついてしまったんだ。あの美人OLのクラッチバッグをなぜだか部長がもっていることに。
そういえば部長の席は彼女の隣だった……バッグは二人の間に置かれていた。
――人類の三大禁忌が何かご存知だろうか?
それは「無駄な会議」「職場に官能小説をもってくる上司」「官能小説のタイトルを妄想する部下」、この三つである。
(了)
会議室のプラム・ダンサー くらげもてま @hakuagawasirasu
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