第二章(露見)3

三.

お盆休み明けの今日、サチザキの昼間の来客数が、僅か二人だった。その衝撃的な事実を父に伝えるため、僕は、商店街をスタックスに向けて走った。そして、店の入り口を開けると、僕は、サチザキとは別の衝撃を受けた。驚くべきことに、店内は満席だった。もう二時を過ぎている。いつもなら、この時間は、のんびりと父と母が休憩している時間なのだ。それが、まだ忙しく働いていた。この日は、アルバイトが竹野さんではなく、まだバイトに入ったばかりの大学生だったので、その分、両親の負担が増していた。

でも、テーブルの上の食器を片づけながら、

「お盆休みが明けるのを待って来てくださったお客さんでいっぱいなの。こんなに嬉しいことはないわ」

と母が笑顔で僕に言った。

父も厨房の中から僕のほうに笑顔を見せた。

僕は店内の様子を見ながら、昨夜、見たあの夢を思い出していた。あの夢の中で、スタックスは混雑していた。僕は、思わず、あれは予知夢だったのかと思った。あの夢の中で、幸崎さんと数絵さんは、世界中の肉屋を回る旅に出ていた。それが今後のサチザキの行方を暗示しているかのようで僕は、恐ろしくなった。そして、厨房の中に入り、父にサチザキのことを小声で話した。

父は僕の話に、思わず、オムライスにデミグラスソースをかけている手を止めた。

「三時には、店は落ち着いているはずだから、サチザキに行く」

父はそう言って、再び、調理を続けた。

僕がサチザキに戻るため、店を出ようとすると、母が近づいて来て、

「お父さんが、コック服を着るようになったご利益かしらね」

と言った。

お盆休み明けの今日から、父は、Tシャツ姿からコック服に替えた。スタックス開店当初は、コック服を着ていた。その時の気持ちに帰って頑張ろうという母の提案だった。父も、「もう一度、本気を出してやるんだから、コック服にしようか」と言った。そして、今日からコック服を着始めたのだった。

「そうだね。ご利益だよ」

僕は母にそう言った。だが、落ち着かない様子に、母は何かあったのかと尋ねた。僕はサチザキの状況を伝えた。

母は、「それは大変。早く戻って様子を見てきてあげて」と言った。そして、「神様。幸崎さんご家族をお守りください」と祈った。母は特に信仰している宗教はない。だが、祈らずにはいられなかったのだ。

僕は、再び商店街をサチザキに向かって走った。

若者の少ない商店街を背の高い僕が走ると目立った。商店街の皆が見ていた。魚迅の前を通ると、「友弘君。どうしたんだ?」と大将が飛び出してきた。仕事は奥さんと息子さんに任せて、僕と一緒にサチザキに向かった。


サチザキに戻ると、長原が先に戻っていた。会長の長原天の姿があった。幸崎さんと会長がテーブルに向かい合って話をしていた。

「あと三日、営業させてください」

「いや、今日からしばらく休んだほうがいい。あなた、色んなことで無理をしているでしょう」

「お盆にしっかり休みました」

「その顔色を見て休んだと思えるはずがない」

会長が、少し店を休んで、ゆっくり考えたほうがいいと言っていた。それに対して、幸崎さんは、あと三日だけ店を開けて、様子を見たいと言っているのだった。

「お盆は、ずっとハンバーグの作り方を改良するために、研究を続けていたと、公矢君から聞きました。公矢君も美星ちゃんも心配しています。幸崎さん、二人の気持ちも考えてあげてください」

僕が幸崎さんに向かってそう言うと、

「その通りだ。幸崎さん。体を壊してしまっては、元も子もない。家族のことも考えろ」

魚迅の大将もそう言った。

数絵さんと二人の子どもは、少し離れたところに座っていた。長原もそっちにいた。

だが、幸崎さんは、

「今日の夜になれば、お客さんが来るかもしれません。それが、無理でも、明日になれば。それが無理でも、明後日になれば……」

と言って店を休むことを拒んだ。

「商売というのは、そこの見極めをすることなのです。残酷なことを言いますが、お盆明けの開店時に二人しか客が来なかったのなら、時日が経つにつれ、更に、その数は減ります。所謂、開店休業の状態が続くことになります。サチザキは、オープンしたばかりの店ではありません。客は、お盆明けの開店日を知らなくて来なかったのではなくて、知っていて来なかったのです」

長原会長が言った。

「理屈では分かります。でも、会長の言う理屈がサチザキに当てはまるという証拠はありますか? もし、証拠があるなら、私も納得して今から店を休みにします」

幸崎さんは意地になっていた。僕と並んで立っていた魚迅の大将が、「見苦しいなあ」と呟いた。僕は、さっき自分で書いた貼り紙を拾って見たじゃないかと思った。

会長は、ため息をついてから、こう話した。

「本当はここまで言いたくなかったんですが、仕方がありません。証拠は、スタックスです。今日からお盆休み明けの営業を再開したスタックスは満席です。おそらく、この時間もまだお客さんがいるでしょう。私は、昼頃に様子を見て来ました。つまり、サチザキ開店以来、サチザキに流れていた客が全部スタックスに戻ったのです。今日の夜も、明日からも、ずっとこの状況が続きます。幸崎さん。分かりましたね」

店の中に気まずい沈黙が広がった。長原が離れた場所から、僕をちらりと見た。僕は目を伏せた。魚迅の大将が咳払いをした。数絵さんがうつむいた。二人の子どもにも、何が起こったのかは分からなかったが、店内にある気まずい空気は伝わった。

「幸崎さん。あなたは疲れています。そして、商売はやみくもに頑張ればいいというものではありません。客が来なくても、店を開けていれば、食材を仕入れなければなりません。光熱費もかかります。分かりますね? そういう現実があることを」

会長がゆっくりと諭した。

幸崎さんはようやく、

「分かりました。しばらく店を休みにします」

と言った。


幸崎さんの店が、これからどうすればいいかについて、皆で話し合っていると、そこに、江美香が現れた。

「みんな、集まってどうしたんですか?」

彼女が尋ねるので、今日のサチザキのランチタイムのことを話した。

「お客さんが二人……」と呟いたきり、彼女は何も言えなかった。

僕が慌てて尋ねた。

「江美香は、どうしたの? 幸崎さんに用事があって来たの?」

「おばあちゃんが、二時を過ぎても、今日は公矢君と美星ちゃんが散歩に来ないって言ってたから、見てきてあげるって来たんだけど……」

江美香の祖母が、二人をいつも楽しみに待っていることを僕は思い出した。大袈裟に言えば、その平穏な日々が今日、崩れた。

「この前、話した肉辰さんの件も話してるんだ。江美香ちゃんも、話に加わりな。幸崎さん。いいですよね?」

魚迅の大将が言った。

「もちろんです。甚田さんのお陰で、私はこの商店街に来られたんですから」

幸崎さんがそう言って、江美香も話し合いに加わった。


しばらく、皆で話し合っていると、入り口のところに父が現れた。時計を見ると、三時を過ぎていた。会長が、父のところに行って、これまでの経緯を話した。そして、父も一緒に話し合いに加わるように促した。だが父はこう言った。

「サチザキのこれからを決める大事な話し合いに、今の俺は、参加できません。何故なら、俺は、この店のハンバーグを一度も食べたことがないからです」

「じゃあ、了治さんはどうするつもりなんだい?」

魚迅の大将が聞いた。

「幸崎さん。ハンバーグを焼いてください。そのハンバーグをスタックスに持って帰ります。夕方からまた仕事があります。仕事が終わってから、じっくり食べさせてもらいます」

父の言葉に、幸崎さんは緊張した。同時に、料理のことで唯一頼れる父が真剣になったことを頼もしく思った。


早速、幸崎さんが厨房でハンバーグを焼き始めた。バイトの初日に、僕が、幸崎さんはハンバーグを焼くためのマシーンだと思っただけあって、さすがに手慣れていた。父も何も言わなかった。幸崎さんは、父と母の分を合わせて二個ハンバーグを焼いた。父は、幸崎さんから、ハンバーグを入れた容器を受け取った。

「明後日、スタックスは定休日です。だから、改めて、ここに来ます。それまでに、このハンバーグを食べて何か出来ることがないか考えてみます」

「スタックスの客を奪った私に、どうしてそんなに親切にしてくれるんですか?」

「客を奪われたのは、私の怠慢です。でも、客を奪われたからこそ、私は立ち直れました。これは、私から幸崎さんへの恩返しです」

そう言い残して、父はスタックスに戻って行った。

幸崎さんには、よく分からないようだった。だが、僕には、父の気持ちが分かった。

父の助けを借りられることが決まって、皆、ほっとした。でも、実際に父から指導を受ける幸崎さんは緊張していた。

「友弘君のお父さんて、ホテルでどんな修業をして来たんだろう? 僕には厳しい人に見えてしまって、ちょっと恐いです」

「別に恐い人じゃないから安心してください。ただ、ホテル時代の話は一切しないんです。触れられたくないのかもしれないので、こちらからは聞かないほうがいいと思います」


会長と魚迅の大将と幸崎さんは、それからもサチザキの今後について話し合っていた。僕と長原と江美香は先に帰った。

「臨時休業になったから、商店街平和大使の使命も果たせないまま、バイトがストップした」

「僕たちのせいじゃないから仕方ない。まさか、急に休みになるなんて誰も思わなかったよ」

長原と僕が話していると、江美香が言った。

「それはそうと、友弘君のお父さんは何をするつもりだろう? 幸崎さんに一から料理の修業をさせるのかな?」

「そんなことしてたら、十年はかかるよ」

「それより、友弘のお父さんの修業を受けたら、幸崎さんは、友弘のお父さんの弟子になるんじゃないか?」

「父さんが幸崎さんにハンバーグ作りへのアドバイスをするだけだよ。修業とか弟子とか、大袈裟だよ」

二人の話に僕は笑った。それを聞いた江美香と長原も笑った。


大人も僕らも、サチザキが臨時休業に追い込まれたにもかかわらず、何故か、活気づいていた。それは、決して、幸崎さんの不幸を喜んでいたのではなくて、初めて、幸崎さんと深く関わりを持てたことが、皆、嬉しかったからだ。幸崎さん自身も、会長や魚迅の大将と熱心に話をしていた。僕は、ふと江美香の伯父のことを思い出した。鋭敏な甚田功造と違い、幸崎さんは穏和な人だ。ミスもする。商店街には、この度の来客数二人という”事件”も瞬く間に広がっている。きっと、商店街の人たちは、ほっとしていることだろう。甚田さんにはなかった幸崎さんの人徳だ。そう考えると、商店街平和大使は、僕と長原ではなく、失敗した幸崎さん自身ということになるかもしれない。

僕は並んで歩く江美香に言った。

「江美香のおじさんは、何でも出来てしまう人だったんだろうね。スキがないっていうのかな。商店街の人たちには、それが恐かったのかもしれない」

江美香は頷いた。

「私も同じことを考えていた。伯父自身には、そんなつもりはなかったんだろうけど、目の前で伯父の働きぶりやスニーカーの売れ行きを見せつけられた商店街の人たちは、自分が悲しくなったんだと思う」

すると、長原が言った。

「仕方がなかったんだよ。おじさんだってジンダシューズを立ち上げて、必死だったんだ。他人の気持ちに配慮してる余裕なんてなかったさ」

「ありがとう。でも、幸崎さんは、自分から商店街の人たちと付き合わないようにしていたのに、どうして、今、みんなに助けてもらえるんだろう?」

長原は、はっとした。何も言えなかった。そして、僕の顔を見た。

僕も、江美香の問いに答えられなかった。でも、だからといって、江美香の伯父が、悪かったと思っている訳ではなかった。強いて言えば、甚田功造は、運が悪かったということになるのかもしれない。他者に好感を抱かれる人間に生まれるか否かなんて誰にも決められない。運の良し悪しとしか言いようがないからだ。だが、僕はそのことは口にせず黙って二人と並んで商店街を歩いた。そして、僕らは、それぞれの店に帰ったのだった。


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