第二章(露見)2

二.

八月十六日になると、それぞれの店が商売を始めて商店街が息を吹き返したようになる。僕は毎年、この日が訪れるのが楽しみだった。たった三日間だけど、お盆休みの商店街の静寂は、僕にはまるで商店街全体が喪に服してしまったかのように思われたからだった。

父と母は、三日ぶりとはいえ、入念に開店の準備をしていた。最近、サチザキ開店以来、スタックスから離れていた客が、ようやく店に戻って来ていた。でも、お盆で三日休みが入った。この三日間で、戻って来ていた客の流れが止まったのではないか? そのことを心配しながら開店の準備をしているのだった。


僕は、居間で一人考えごとをしていた。城跡公園で父から聞いた話が、強く印象に残っていたためか、昨夜、夢に出てきた。その夢とは、幸崎さんと数絵さんの二人が美味しい牛肉を求めて世界中の肉屋を探し回る夢だった。二人の不在の間、公矢君と美星ちゃんは、うちで預かっていた。そして、二人の世話は僕に任されていた。居間でレコードをかけても、二人から、こんな音楽は分からないと拒絶された。それから、美星ちゃんが、「お父さんとお母さんに会いたい」と泣き出した。僕が、両親を呼ぶため食材倉庫のドアを開けると、店は混雑していて、二人は手が離せなかった。僕は店が混雑しているのはいいことだと突然、笑い出して居間に戻って来ると、美星ちゃんはまだ泣き続けていた。床に手紙が落ちていた。拾ってみると、幸崎夫妻からの手紙だった。今、ブラジルにいますとあった。そんな遠くまで肉を探しに行っているのかと僕は茫然とした。そこで、目が覚めたのだった。僕は、夢のことを思い出しながら、ため息をついた。


それから、僕は居間を出て食材倉庫のドアを開けると、厨房に出た。

「まだ、アルバイトに行くには早いでしょ?」

テーブルを拭いている母が言った。

「友弘。上級肉の件だけど、まず、父さんが会長に相談に行く。だから、バイトの時、お前は、そのことは気にしなくていいから」

父が、床にモップをかけながら言った。二人とも、昨日も同じことをしていた。店はピカピカだった。

「ありがとう。でも、幸崎さんの店の様子が心配だから早めに行くよ」

僕はそう言って店を出て商店街を歩き始めた。僕は、とにかく外の空気を吸いたかった。だから、店を早めに出た。だが、外に出てみても、気分は変わらなかった。奇妙な夢を見たことに加えて、気が重いことがあった。商店街平和大使としての使命―幸崎夫妻と商店街の人たちとの交流を深めることが、全く上手くいっていないことだった。スタックスを早めに出て、今から長原のところに行くのは、そのためであった。父から言われたように、幸崎さんだけでなく、商店街住人のほうから幸崎さんに接近するようにできればと思うのだが、父ですら具体的な方法が思い浮かばないのに、僕に何かが浮かぶはずもなかった。


八月十六日は、いつも商店街を明るい気持ちで歩く僕だったが、この日は、そんな難問を抱えていたため、気が重かった。長原の店に着くと、長原は椅子に座っていた。

「ちょっと早いけど、サチザキに行こうか?」

「ああ。僕もそのつもりで、友弘がいつ来てもいいように待ってたんだ」

僕らは並んで歩き始めた。

「早速だけど、幸崎夫妻と商店街住人の交流のこと、どうする?」

「お盆休みの間、考えたんだけど何も思いつかなかった」

長原に聞かれ、僕はそう答えた。長原もため息をついて頷いた。


八月の後半に入って、残暑を感じさせる、焼けつくような陽射しがアーケードの向こうに見えた。僕らは、その陽射しを見ながら、途方に暮れたように歩いていた。すると、

「二人とも、ぼんやりして大丈夫?」

という声がした。江美香の声だった。

見ると、ジンダシューズの店の中から彼女が顔を出していた。

何故、江美香が店にいるのかと聞くと、逆に、何故、僕らがここにいるのかと聞かれた。バイトに行くのだと答えたら、まだ早いんじゃないかと言われた。江美香に時間を尋ねると、まだ九時半だった。十時までジンダシューズで待たせてもらうことにした。

いつも通り、事務机に丸椅子を置いて僕らは座った。

「それにしても、江美香。塾は?」

長原が聞いた。

「友弘君。特別進学コースの講師、覚えてるでしょ? あの先生、早口で何を言ってるのか分からないから、もうお盆で塾に行くのは終わりにした。テキストもあるし、大事なところは勉強できたからね。後は、自分で勉強しようと思って」

江美香はそう言った。

「江美香でも、あの講師の言ってることが分からなかったのか。じゃあ、僕に分かるはずがない。ちょっと安心したよ」

僕は笑ったのだが、江美香は、

「友弘君。ちょっと顔色が悪くない?」

と僕の顔をじっと見た。

長原も、僕を見て言った。

「そういえば、顔色が良くないな。友弘。体調が悪いのか?」

「暑くて、ちょっと寝不足気味なんだ。大丈夫だよ」

僕は慌てて、そう答えたが、あの奇妙な夢のせいだと思った。


「今、アルバイトはどう?」

僕らは、幸崎夫妻と商店街住人の交流が上手くいかないこと、その代わりに、毎日一緒に散歩に行く公矢君と美星ちゃんが商店街の人気者になっていることを話した。

「私も知ってる。会長のお孫さんも安森さんのお孫さんも、毎日よく頑張っているよって、おばあちゃんが褒めていたから」

江美香が笑顔で言った。

「いやあ、この商店街の住人として当たり前のことをしているだけだよ」

長原は照れながら、そう答えた。

僕は、彼女の言葉に意外な気がした。子ども二人を散歩に連れて行く際、履甚の前も通る。その時、江美香の祖母がいれば僕にも笑顔で挨拶をしてくれる。でも、それは、公矢君と美星ちゃんの手前、そうしているのだと思っていからだ。僕の何かが変わったのか? それとも、江美香の祖母に何か変化があったのか? 思いつく変化と言えば、僕の父が立ち直ったことだが、そのことと江美香の祖母に何か関係があるのか? あるとしても、彼女の祖母はずっと父を敵視してきた。それが、急に変わることはないだろう。それよりも、僕はこう思った。江美香の祖母は幸崎さんの子どもの面倒まで見て、一番身近で幸崎さんを見てきた。それだけに、幸崎さんに協力しない商店街住人に言いたいことが沢山あったはずだ。それが、ここにきて、長原と僕、そして、父も含めて、僅かだが、商店街の人間が、幸崎さんのために動き始めた。江美香の祖母はそのことが嬉しかったのではないか? つまり、甚田功造さんの時とは違う商店街の人々の動きが嬉しかった。 僕はそう思った。


いつの間にか、十時前になっていた。僕と長原は、ジンダシューズを出た。すると、江美香は、また事務机で勉強を始めた。塾の講師に問題があったとはいえ、せっかく勉強に適した環境を放棄して、またここで勉強するのかと僕は思った。そして、僕は、何故、店の中で勉強をするのか、その時こそ、江美香に聞こうと思った。でも、時間がなかった。僕らはサチザキに向かった。


サチザキに入ると、目の前に幸崎さんが立っていたのだが、僕も長原も、その真っ青な顔色に驚いた。僕の顔色の悪さなど比ではなかった。

「幸崎さん。夏風邪でも引いたんですか?」

長原が聞くと、

「いえ。風邪なんか引いてません。大丈夫です」

と幸崎さんは答えた。

実際に、風邪を引いているわけではなく、声にも張りがあり、体調が悪いようではなかった。

数絵さんは曖昧な笑顔を見せているだけだった。

何があったのだろうと僕が思っていると、後ろから、僕のTシャツの裾を引っ張る小さな手があった。振り返ると公矢君だった。隣には美星ちゃんがいた。僕は公矢君にTシャツの裾を引っ張られ、そのまま店の外に出た。

「どうしたの?」

僕が公矢君に尋ねると、

「お父さんの顏色が悪いのね、寝てないからなんだ。お盆休みの三日間、ずっと、ハンバーグを作る研究をしてたから、休んでないんだ」

そう言った。隣にいた美星ちゃんも頷いた。

「そうなのか。二人とも、お父さんが心配だね」

僕はそう言うと、わざわざ、両親に聞かれないように、僕を店の外にまで引っ張ってきて話をする公矢君と、その隣りで心配そうな顔をしている美星ちゃんが可哀そうになった。

「お父さんは頑張り屋さんだからね。お兄ちゃんから、少し休んだほうがいいですよって後で言っておくよ。だから、お店に戻ろうか」

と二人を連れて店に戻った。

その間、幸崎夫妻は一生懸命にテーブルを拭いたり、カウンター席の椅子を並べ直したりして、開店前の準備をしていた。僕の両親と同じだった。お盆休み明けの客の入り具合が心配なのだった。

僕は、牛肉を中級から上級肉に上げてまで、客数を維持している幸崎さんを痛々しく感じた。いや、上級肉にランクを上げたために、客の回転数を上げなければならなくなり、より自分で自分を苦しいほうに追い込んでいる幸崎さんに、「もうそんなことは、よしましょう」と言いたかった。でも、「だったら、この子たちはどうするんですか?」と言われた時のことを考えたら、僕は何も言えなかった。ただ、お盆休みに、父が言ったように、幸崎さんのやり方は、根本的なところで間違っていると僕も思った。


十一時半になった。

数絵さんが、並んでいる客を店に入れ、掛札を営業中にかえるため、入り口を開け外に出て行った。僕も長原も、昼は特に忙しくなるぞと覚悟した。幸崎さんに至っては殺気立っているように見えた。

そして、空いた引き戸から、いつも通り、どっと客が入ってくるはずだと、僕らは待ち構えていたのだが、誰も入って来ない。僕も長原も、今日は、遠慮する珍しいタイプのお客さんなのだろうかと思い、入り口に向かった。そして、外を見ると誰もいなかった。僕らは見間違いかと思って、入り口付近を何度見まわしても、誰もいなかった。そこには、掛札を持って茫然と立っている数絵さんしかいなかった。


「嘘だ! 客がいないなんて。四月に開店してから、今まで一度もなかったことだ。もしかしたら、今日もまだ、お盆休みだと、みんな、思っているのかもしれない。そうだ。勘違いしているんだ」

幸崎さんはそう叫んで、入り口から外に飛び出した。そして、サチザキが、今日も、まだお盆休みだなどとは、誰も勘違いしていない証拠を見つけた。アーケード商店街の入り口にある幸崎さんの店は、表通りにも建物が面しているので、そこに、幸崎さんが自分で、「お盆休みは、8月13日から15日までです。16日から営業始めます」と貼った紙が、今、風に吹かれて、商店街の通りに飛んで来たのであった。幸崎さんは、足下に落ちている、その貼り紙を拾うと、「勘違いしてくれていたほうが良かったのに……」と呟いた。


僕と長原は、この事態をどうしていいか分からなかったが、二人で相談して、まず二時まで様子を見ようと決めた。そして、二時になった時点で、長原は会長に、僕はスタックスにいる両親に状況を伝えることにした。そして、二時まで様子を見た。

結果、午前十一時半から午後二時までの間の来客数は二人だった。その二人は、常連の大きな体をしたサラリーマン二人組だった。

「あれ? バイトさん。今日、お店空いてるね。まだ、お盆休みと間違えているのかな? じゃあ、いつもと同じでハンバーグステーキセットのライス大盛りで。急ぎでお願いします。そっか。今日は空いてるから、急がなくても、すぐに出来るね」

何の悪意もない常連サラリーマンの言葉が、僕らの胸に突き刺さった。


そして、長原は、会長のところに向かい、僕はスタックスに向かった。僕は商店街をスタックスに向かって走りながら、公矢君の言葉を思い出した。幸崎さんは、お盆休みの三日間、寝ずにハンバーグの作り方を研究していた。幸崎さんの中にも、今日の日が訪れる危機感が十分にあったのだ。肉のランクを上げるだけでは限界が来ると分かっていたから、ハンバーグの作り方を改善しようと努力していた。僕は、一刻も早く父にこのことを伝えなければと商店街を走り抜けた。幸崎さんが自分の限界に気づいていたことは分かったが、その限界を幸崎さん一人で乗り越えることは、もはや不可能だと思ったからだった。


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