第一章(商店街平和大使)3

三.

僕らの通う中学校はアルバイトを許可していたのかというと、そんなことはなかった。普通の公立中学校として、当たり前に禁止だった。でも、例外的に学校が黙認するケースがあった。例えば、ある生徒のクラスメイトの家が商売をしていて、その店の手伝いをした結果、お礼として小遣いをもらう。この場合、学校はそれをアルバイトとは見做さなかった。たとえ、一日、二日ではなく夏休み中ずっと働いたとしても、アルバイトにはならなかった。あくまでも、手伝いなのだった。昔からの慣習だった。学校側も面倒だからそこまでは立ち入りたくなかったのだろう。また、商店街に住む生徒が、同じ商店街にある店で働くのも、手伝いと見做され何も言われることはなかった。


商店街平和大使として、長原と僕が、幸崎さんの店でアルバイトができるのも、そのためだった。そして、初日に僕らは、白のTシャツに真っ赤なエプロンをつけて、幸崎夫妻の前に並んで立った。四月に開店した時、長原と江美香と僕の三人でハンバーグを食べに来た時以来だった。

「どうぞよろしくお願いします」

幸崎さんが頭を下げた。

「それは僕らが言うことですよ」

長原が笑って言った。


僕は、商店街の人たちと顔を合わせたくない時だったので、サチザキでバイトをするのもいいかもしれないと思った。幸崎夫妻は商店街に移り住んだばかりで、江美香の伯父のこととは全く無関係な人たちだ。だから、サチザキは、僕が何も気にせずにいられる場所だった。


数絵さんの隣に子どもが二人いた。上が小学四年生の公矢君、下が小学二年生の美星ちゃん。二人とも好奇心いっぱいの目で僕らを見ていた。

「うちの子たちなんですけど、時々、遊んでやってくれますか? まだ友だちもいなくて」

僕も長原も、江美香の祖母に遊んでもらっている二人のことを知っていた。僕らは了解した。気の毒で断れなかった。


十一時半までの間、開店の準備をした。開店が近づくにつれて、幸崎夫妻が無口になっていった。サチザキのように流行っている店は、それだけプレッシャーがあるのだろうと僕らは思った。

公矢君と美星ちゃんは、奥の居間で夏休みの宿題をしていた。

その時、十一時半になった。

数絵さんが、祈るように店の入り口を開けた。待っていた客がどっと入ってきた。数絵さんの祈るような様子を見て、僕も長原も、仕事は毎日のことなのに、ここまで緊張している二人に、何となく不自然なものを感じた。


それから、怒涛のようなランチタイムが始まった。僕と長原は動きっ放しだった。客が来店したら、席に案内して注文を聞き、厨房の幸崎さんにオーダーをする。料理が出来たら、すぐに客に出す。客が食べ終わったら、会計は数絵さんがするので、僕らが食器を片づける。食器がある程度たまったら洗う。仕事の流れはこんな感じで、特に複雑ではない。むしろ、他の飲食店よりシンプルかもしれない。その理由は、サチザキは、メインメニューがハンバーグステーキ一つだからだった。そして、一つのメニューだけだと作るのが速い。あらかじめ、業務用冷蔵庫に入れてある形成済みのハンバーグを次々と焼いていく。幸崎さんのその姿は、ハンバーグを焼くために作られたマシーンのようにさえ僕には見えた。そして、次々と焼かれたハンバーグを僕らが、次々と客に運ぶ。客が多いから、幸崎さんのハンバーグを焼くスピードが速いのか? 幸崎さんのハンバーグを焼くスピードが速いから、客が多いのか? とにかく、僕らは、厨房に置いてある出来上がった料理と客の待つテーブルの間を行き来した。僕は、体力テストの反復横跳びを延々と続けているような気がした。


二時から休憩になった。数絵さんは入り口の掛札を準備中にした。

奥の居間から公矢君と美星ちゃんが出てきた。二人とも弁当箱を持っていた。僕らにそれを見せた。一緒に食べようということだった。この弁当は、数絵さんが、朝、作ったものだった。昨日までは、幸崎さん家族四人分を作っていたのだが、今日から、それに僕と長原の分も加えて作ってくれた。子ども二人は、昼に食べ終えて、両親は二時からの休憩時間に食べるようにしていた。でも、今日は、公矢君と美星ちゃんは、僕らがいるので、昼に半分だけ食べて、残りを僕らと一緒に食べようと待っていたのだった。


テーブルに幸崎夫妻と向かい合って座っていた僕らは、二人の様子を見た。疲れ切っていた。僕らは、違うテーブルに移って公矢君と美星ちゃんと四人で弁当を食べた。

「お兄ちゃん達は、どこから来たの?」

「この商店街だよ。うちは長原米穀店でこのお兄ちゃんはスタックスっていう喫茶店なんだ。知ってる?」

「知らない。僕と美星は履甚のおばあちゃんしか知らないから」

その会話を聞きながら、二人の子どもが、履甚しか知らないことに、僕は驚いた。これでは幸崎夫妻が、商店主から、強い不満を抱かれていることもやむを得ないと思った。平和大使を任命された僕らは、果たして、この状況を改善できるのだろうかと僕は、幸崎夫妻のほうを見た。二人とも、黙って弁当を食べていた。


夜は昼ほど混んでいないし、初日なので七時前で終わった。

まだ明るい夏の夕方の商店街を歩きながら、長原と僕は話をした。

「儲かっているのに何であんなに深刻なんだ?」

「忙しすぎて辛いのかな?」

「だったら、誰か雇えばいいのに。それがダメなのか。夫婦だけでやる主義だから。でも、それも何故なんだ?」

「それが分からないから、長原のおじいさんの提案で僕たちがバイトをすることになった。でも、僕らが働いて何か解決すると思うか? 商店街との交流に繋がると思う?」

「一日しか働いていないけど、正直なところ、できる気がしない」

「そうだよな。分からないことが多すぎる。でも、あの子たち、何だか可哀そうだな」

僕は特に子どもが好きな訳ではない。でも、幸崎さんの子ども達が気になった。僕が子どもの頃、父のことで辛い思いをしたからだろうか。自分と重ね合わせてしまう。


そんなことを考えながら、長原と僕は、履甚の前を通った。見ると店内は薄暗くて、ひっそりとしていた。棚に並べられている履物は、いつからそこに置かれているのか分からないようで、売れることを諦めてしまっているみたいに見えた。そして、その諦めは、店そのものにも感じられた。

それから、ジンダシューズの前を通った。蛍光灯がついていたので店の中がよく見えた。店には誰もいなかった。江美香は、どうしているだろうと思った。あの日以来、会っていない。気になったが、どうしようもないので、長原と並んでそのまま店を通り過ぎた。

長原米穀店に着いた。

「じゃあ、また明日」

長原と僕がそのまま別れようとした時、店の中から、

「則勝。友弘君。ちょっとこっちへ」

と長原会長が呼んでいた。人目を気にしているようだったので、僕らは急いで店の中に入った。


会議室で話をした。長原会長は僕ら二人を前のほうの席に座らせて、会合でいつも話をする場所に立った。そして、「幸崎さんの店はどうだった?」と深刻な表情で聞いた。そこには、父の話にあった、笑顔で商店街平和大使を命名した会長の姿はなかった。その様子を見た長原が、「どうしたの? 何かあったの?」と逆に聞き返した。

会長が答えた。

「則勝。お前に言われた通りなんだ。あの時は、言えなかったが、甚田功造さんのことが私の生涯での一番の過ちだと今も、後悔している。だから、お前から幸崎さんが甚田さんと同じことになる気がすると言われた時、すぐに二人を平和大使と称して幸崎さんの店にアルバイトに行かせることにしたんだ。何故なら、私も幸崎さんに疑問を感じていたからだ」

「会長の感じていた疑問とは何ですか?」

僕は尋ねた。

「幸崎さんの店が開店して少ししてから、変だなと思うようになった。会合に出て来なくなった。商店街の住人ともつき合わない。それどころか、商店街にもほとんど出て来ない。幸崎さんは店を借りる時、私にこう言った。私の父の思い出のハンバーグは父と歩いた商店街と一つになっています。その思い出の商店街とこのアーケード商店街は同じです。だから、ここでしか商売ができませんと」

「僕と友弘と江美香の三人で初めて幸崎さんのハンバーグを食べに行った日にも、幸崎さんはその話をした」

「そうだ。私も一緒だった。でも、それなら、幸崎さんは頻繁に商店街に顔を出すんじゃないだろうか? 仕事で疲れた時の気分転換に、商店街の住人とお喋りをするはずじゃないか。それなのに、店から出て来ないのは矛盾していると思うんだ」

「そうですね。懇願するようして入った商店街なのに、入ったら、出歩くこともないなんて。何故だろう?」

「狭い商店街で、会長の私が、自分で具体的に何かを調べることは難しい。すぐに幸崎さんは会長ににらまれているとか、そんな噂が広まるからだ。だから、詳しくは分からない。けれど、幸崎さんには幾つも矛盾がある」

会長は言った。

「他にも何かあるんですか?」

僕の問いに、再び会長は答えた。

「この前の会合で、予想以上に流行って戸惑っていると彼は言った。でも、私が前に店を訪れた時、幸崎さんも数絵さんも随分疲れていたので、もう少しゆっくりやればいいとアドバイスしたんだ。すると幸崎さんが、ゆっくりなんてしていられませんって突然、大きな声で言ったんだ」

「忙しくて戸惑っているのに、ゆっくりしたくない。確かに、矛盾している」

長原の言葉を受けて、会長が言った。

「そうなんだ。幸崎さんは矛盾しているんだ。まず、幸崎さんは嘘は言っていない。家族四人で知らないこの街に移り住んで商売を始めた。嘘や冗談でやれるものじゃない。でも、行動が矛盾しているんだ。しかも、幸崎さんの矛盾には一貫したものがあると思う。だから、その矛盾の原因が分かれば、彼が本来この商店街に来て、やりたかったハンバーグステーキ店をやれるのではないかと私は思う」

僕らは会長の話を聞いて、筋道の通った話だと思ったが、では、幸崎さんの矛盾とは、具体的には何だろうと思った。しかし、会長自身が、直接調べられないため、それ以上のことは分からない。だから、会長に代わって僕と長原が、幸崎さんの抱えているもう一つの何かを調べるのだと思った。すると、長原が僕に言った。

「友弘。僕たち商店街平和大使っていうより、商店街潜入捜査員だな」

それを聞いて会長が言った。

「甚田さんの悲劇を繰り返さないためとはいえ、中学生の二人をこんなことに巻き込んでしまい、すまない」

会長は、僕らの座っている一つ手前の長机に手をついていた。うつむいているため顔は見えなかった。

「商店街のみんなのためだから、やるよ」

「そうです。会長ができないことを僕らがやる。長原の言った潜入捜査員なんて冗談です。ずっと会長が守ってくれている商店街のみんなが、これからも平和に暮らせるように、僕らも頑張ります」

僕は落ち込んでいる会長を励ますために少し無理をして、そう言った。

すると、会長が突然言った。

「安森君。私はそんなに立派な人間じゃないんだ。私は君にも謝らなければならない。君のお父さんとお母さんが、この商店街で店を始めた時、君のおじいさんに、二人のことは任せてくださいと私は言った。でも、君のお父さんが、料理をしなくなって以降の長い日々、私は何の役にも立たなかった。君のお父さんは、自分の力で立ち直った。立派な人だ。でも、それは、君のおじいさんとの約束を私が守らなかったことも意味している。少なくとも私はそう思っている。そして、過去には甚田さんのことが……。私は本当に会長として相応しい人間なのか? この歳になって、私は自信を持てなくなっている」

僕は会長に言った。

「父が立ち直るまでの長い間、いつも、会長が、父のことを心配してくれていました。そのことは父も知っています。今も大きな心の支えになっています。僕も同じです。それに、甚田功造さんのことは、どうしようもなかったのではないでしょうか? 僕が生まれる前のことだから、はっきりとは分かりません。でも、商店街の人は、みんな良い人です。父のことがあってよく分かるんです。父が厨房に立たない頃は、冷たい目で見ていた人も、父が復帰したら、僕のところに駆け寄って来て、『お父さん。良かったね』と言ってくれました。目に涙を浮かべている人もいました。だから、甚田さんの問題が、引き返せないところまで行ってしまったのだとすれば、幸崎さんの問題は、引き返せないところに行く前に解決すればいいと思うんです」

「ありがとう。友弘君。君は優しい青年に成長したね。それが分かっただけでも、私は、勇気が湧いてきたよ」

会長は、そう言って笑顔を見せた。


僕は、会長の笑顔を見ながら、自分の発言の矛盾に気づいた。僕は、商店街の人々を憎んでいるはずだったのに、違うことを言っていた。そこで、僕は月並みだけれど、大事なことを思い出した。良い人、悪い人なんて、はっきりと人は分けられない。冷たい目を向けていた人と涙を浮かべていた人は、同じ人であり、しかも、その気持ちに嘘はない。僕は会長を励ますつもりで話したことがきっかけで、子どもの頃から見てきたある事実に、また突き当たった。人は気まぐれである、ということだ。そのことに気づくと、憎しみに凝り固まっていた僕は、冷静な自分を取り戻した。人は優しくて意地悪だからこそ、厄介なんだ。そんなこと、子どもの頃から、嫌というほど、思い知らされてきたじゃないか……。僕は、江美香の伯父の話を聞いて以降の振る舞いを、自分にしてはナイーブだったと、この時、ようやく省みたのだった。




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