第一章(商店街平和大使)2

二.

食材倉庫のドアを少し開けて店内の様子を見ると、カウンターには常連客が並んでいた。今日は魚迅の大将がいないので、全員許せない人たちだった。イチハチ・デンキ、岩太メガネ、八峰。みんな仕事はしているのだろうか? いつもうちの店で休憩しているけど、休憩が多すぎないか? 僕は常連客を見ながら、そんなことを考えていた。僕は、江美香の伯父の話を聞いたことから、より物事を前向きに捉えるようになった長原のように大人ではなかった。ごく一部の例外を除いて商店街の住人は嫌悪の対象のままであった。時刻は昼過ぎだった。客の数が増えていることに気づいた。僕が夏休みに入ってからしばらく塾に通っていた間に状況が変化したようだ。そういえば、夜も客の数が増えている気がする。苛立ちを感じていた僕の気持ちが、少し和らいだ。そして、僕はスタックスの復活を願い、静かにドアを閉めた。


スタックスを出て長原米穀店に着くと、既に長原は会議室で僕を待っていた。この前と同じ席で、同じように背もたれに両腕を乗せていた。僕も会議室に入った。そして、僕もこの前と同じ席に座ると長原に尋ねた。

「長原。住民へのリサーチをするんだろ? だったら、早速、見回りをしてみんなの話を聞こう」

この前、会議室で話し合った時、サチザキを商店街の住人が、どう思っているかをまず知る必要がある。そのために、リサーチが必要だという話になった。でも、時間がなかったので、そこで終わっていた。

「ああ。僕もあの時、見回りをして商店街の人に話を聞こうと思った。でも、考えてみたら、中学生の僕らから、あなたは幸崎さんの店をどう思いますかって尋ねられて、嫌いですって答える人はいないって気づいたんだ」

「そう言えば、そうだな」

「それに、もし、江美香のおじさんの時と同じことになる可能性があるとしたら、僕らだけで解決するには問題が大きすぎる。更に、今、そのことで、友弘は商店街の人たちが嫌いになっているんだろ? リサーチをして、グロテスクな住民の意見ばかり出てきたら、友弘は、もっと商店街が嫌いになる。この商店街の会長の孫として、それは避けなければならないと思ったんだ」

「ありがとう。確かに、今、そういう意見を聞いたら、僕の住民への負の感情に追い打ちをかけることになる。精神衛生上も良くない。避けるべきだな。でも、だったら、どうする? 何か手はあるのか?」

僕の問いかけに、長原は一瞬ためらった後、言った。

「僕の祖父長原天に手伝ってもらおうと思うんだ」

僕は驚いて言った。

「それは性急じゃないかな? もし、以前のようなことになる可能性があるとしたら、会長に頼むべきだけど、今の段階では、はっきり言ってしまうけど、僕ら二人の空想みたいなもんだぜ? 何の根拠もない。会長になんか頼めないよ」

「分かってる。でも、僕は父さんからこの話を聞いた時から、商店街のタブーは無くさなければならないとずっと思ってきたんだ。それと、祖父もずっと後悔したままここまで来てしまったと思う。祖父自身のためにも、僕はこのことを話そうと思う。今がその時だと思うんだ」

僕は長原の強い思いを知った。そこで、

「相談する場合、具体的に何をどうするのか、もう考えているの?」

と尋ねた。

「うん。今日、ここで自治会の会合があるだろ? お前のお父さんも来るはずだけど、その場で、祖父から商店主のみんなに聞いてもらおうと思う。幸崎さんは忙しいためか、会合には出て来ない。リサーチするにはちょうどいい機会だと思うんだ」

僕は、長原の話を聞きながら、別のことを考えていた。それは、ついこの前までは、いつも会合には、母が出ていた。それが、父が仕事に復帰して以降、母に代わって父が会合に出るようになったことだった。母は安堵した。会合そのものは疲れるものではないが、店主である父の代わりに毎回会合に出るのは辛かったのだ。父も内心、後ろめたく感じていただけに、今、自分が会合に出られることを誇らしく感じていた。

「父さんも会合に出るけど、幸崎さんへの感想なんて特にないと思う。ライバル視しているのは仕事の上のことだけだから。でも、良いアイデアだよ」

僕は、母さんではなく父さんと言えることに喜びを感じながら、そう言った。実際、良いアイデアだと思った。


その日の夜、父は会合に出かけた。会合は七時からだったから、父は店を途中で抜け出して行った。その後、客が来なかったので早めに店を閉めた。アルバイトの竹野さんも帰った。それから、母と僕の二人で父の帰りを待った。特別な行事の打ち合わせでもない限り、会合はいつも三十分ほどで終わる。この日もそのはずだった。でも、三十分を過ぎても、父が帰って来ないので、母は厨房の掃除を始め、僕は久しぶりに窓際のテーブルについて勉強をしながら父を待った。会合でちゃんと幸崎さんの話題は出ているのだろうかと考えながら、僕は数学の問題を解いた。


九時前に父は帰って来た。

「随分遅かったわねえ」と調理台を拭いていた母は言った。

父は真っ直ぐ僕のところに来て、

「友弘。大事な頼みがある」

と言った。

「何?」

「お前。商店街の平和大使になってくれ」

僕は父が冗談を言わない性格であることを知っていたので、一体何なのかは分からないけど、何かをやらされることだけは本当なのだと思った。


翌日から、僕は『ハンバーグステーキ サチザキ』でアルバイトをすることになった。夏休みいっぱいという予定だった。そして、これが商店街平和大使だった。平和大使はもう一人いた。長原だった。長原と僕は無言でテーブルを拭いていた。僕も長原も毎日、何もせず暇だったから、バイトをすることに不満はなかった。ただ、混雑しているサチザキで、果たしてちゃんとアルバイトができるのかと緊張していたのだった。

長原が呟いた。

「リサーチを頼んだら、まさか、アルバイトをすることになるとは……」


僕らがアルバイトをすることになった理由は、昨夜の会合にあった。会合は、緊迫したものになったと父は言っていた。理由は、長原が頼んだ通り会長が、幸崎さんについて、商店主の皆はどう思っているかを聞いている最中に、突然、幸崎さんが会合に現れたからだった。全く会合に出て来ない幸崎さんが現れるとは思わず、商店主は皆、本音を述べていた。本音というものは、概ね快いものではないにしても、幸崎さんに皆が抱いている感情は酷いものだった。そして、それは、長原が推測した通り、成功への嫉妬に基づくものだった。そこに幸崎さんが現れたのだ。

会合に遅れた父は会議室の後ろのほうの席に座った。隣には魚迅の大将がいた。魚迅さんも遅れて会合に来たらしい。

「何だか嫌な会合だよ」

魚迅の大将が、小声で父に言った。

前のほうで次々に意見が上がっていた。父はそれを聞いた。

「幸崎さんは、店をするなら、このアーケード商店街しかないって言ってましたよね。でも、商店街の人間と全然つき合いがありません。会合だって全然来ない。結局、立地条件のいいあの店舗が手に入れたかっただけじゃないですか? 蒸発したお父さんがどうのって話も疑わしい」

「ケチだよ。従業員を雇わず、夫婦二人だけで、あれだけの客を相手に商売をしてるから、二人ともやつれているぜ。この前、偶然、商店街の通りであった時、別人かと思った。そこまでして金を儲けて楽しいかねえ」

「とにかく、商店街の人間がどうでもいいっていうのは間違いない。元証券マンだけに、事前のリサーチっていうのか? そういうのをしっかりやってたんだよ。だから、あれだけ大当たりするのも分かってたんだ。それはいい。それも商才のうちだから。でも、さっき話に出た商店街の人間とつき合いがないっていうのは、俺たちをバカにしている証拠だ。相手にするような人種じゃないって思ってるんだよ」

父は話を聞いていて思わず、「みんな、言いすぎだよ」と言いった。その時、後ろのドアのところに、幸崎さんが立っていたのだった。

「みんな、謝れ。あんたら、幸崎さんの店が流行っているからって、嫉妬しているんだろうけど、いくらなんでも言いすぎだ」

魚迅の大将が慌てて、皆にそう言った。

「嫉妬って何だよ。魚迅さんこそ嫉妬してるんじゃないか?」

誰かが小さな声で言った。

すると幸崎さんが、

「私が皆さんとの交流を疎かにしてしまっていることは事実です。お詫び申し上げます。また、会合にもほとんど出席していません。ですから、皆さんが、そんな風に思われるのも、私の責任です。ただ、決して、皆さんを馬鹿にしたり、無視したりしている訳ではありません。そのことだけはご理解ください」

と言った。

その時の幸崎さんは、憤りのあまり真っ青な顔をしていた。父はその顔を見て、これはマズいと思った。魚迅の大将も同じことを思った。そして、会議室の一番前いた長原会長も同じことを思った。会長は、後ろに立っている幸崎さんのところまで慌てて走ってきた。息が上がっていた。

「幸崎さん。この商店街における不始末は、全て会長長原天の不徳の致すところです。どうかご勘弁ください。それに、商店主の皆さんも、どうかご勘弁ください」

会長は、幸崎さん、商店主の双方に頭を下げた。

気まずい沈黙が続いた後、魚迅の大将が立ち上がって、こう言った。

「幸崎さんも商店街のみんなも、お互いを知らないから良くないんだ。だから、みんなも、幸崎さんのことを悪い方へ悪い方へ考えてしまう。人間ってそういうもんだと思うんだが、どうだろう?」

その話を聞いて、幸崎さんも商店主も、少し落ち着いた。

そこで、長原会長が尋ねた。

「改めて、私から幸崎さんに質問なのですが、どうして、従業員を雇わないのですか? 実は、私も不思議に思っていたのです」

「夫婦二人でやると決めています」

「理由は?」

「理由は……、勘弁してください」

それを聞いて長原会長は言った。

「では、そのことは尋ねないことにします。ただ、幸崎さんと商店主との間のコミュニケーション不足の原因は、幸崎さんご夫妻が忙しすぎて、商店街の人間と話をする余裕もないからだと思います」

「確かに、それはあると思います。でも、こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、開店する前は、まさか、こんなに店が流行るとは思っていなかったんです。家族四人が何とか生活していけるぐらいお客さんが来てくれれば、そんな風に考えていました。だから、正直なところ、どうしていいのか……」

その話を聞いた商店主の中から、

「せっかく来てくれるお客さんに、これ以上は、無理だから帰ってくださいとも言えないし。それは難しいなあ」

という声がした。

その時、長原会長がこんな提案をした。

「幸崎さん。この案で妥協してくれませんか? 夫婦二人でやると決めていることを承知の上で、私の孫の則勝を夏休みの間、幸崎さんの店で働かせてやって欲しいんです。則勝はうちの店でこの夏しっかり働いて、夏休みが終わる時には大人になっているとか何とか言っていたのに、初日に米袋を担いで腰を痛めたからと、そのあと何にもせずにゴロゴロしています。でも、私にとってはたった一人の孫、息子夫婦にとっても大事な一人息子。どうしても厳しいことが言えません。だから、則勝を私や息子夫婦に代わって鍛えてやって欲しいのです。あいつは、高校を出たらすぐうちの店で働くと言っています。残り時間はありません。お願いします」

幸崎さんは苦笑いして言った。

「会長さん。ズルいですよ。私をこの商店街に入れてくださった会長さんから、そう頼まれて断れるはずがありません。分かりました。お引き受けします」

更にその時だった。

「幸崎さん。うちの友弘も一緒に働かせてやってくれませんか? あいつは、あいつなりに将来のこととか色々と悩んでいます。甚田さんの娘さんと一緒に通っていた塾も彼女のような学力がないため、すぐに挫折してしまいした。友弘は何も言いませんが、相当ショックを受けていると思います。今は何をしていいのかも分からないまま、ただ時間だけが過ぎていく毎日です。勉強じゃなくてもいい。この夏休みに何かに一生懸命に取り組ませてやりたいんです。お願いします」

父は幸崎さんに頭を下げた。

幸崎さんは黙って頷いた。

魚迅の大将が言った。

「了治さん。あんた本当に立ち直ったね」

そして、最後に会長が、

「この商店街で生まれ育った二人の優秀な若者が、幸崎さんの店を手伝います。これで、どんなに混雑していても、幸崎さんも、数絵さんも、ゆっくりできる時間が生まれるはずです。だから、その時間を使って商店街のみんなと仲良くなってください。則勝君と友弘君は、幸崎さんとこの商店街を繋ぐ平和大使です」

と笑顔で締めくくった。



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