第二部 第一章 (商店街平和大使)

一.

江美香の伯父の話を聞いた翌日、僕は熱が出た。知恵熱だった。彼女の伯父の話にそれだけ衝撃を受けたのだろう。僕の部屋は住居部分の奥にあるので、店から遠い。両親が様子を見るのに不便なので、居間に布団を敷いて僕をそこに寝かせた。仕事の合間に父と母が交代で様子を見に来た。夕方に江美香が様子を見に来た。塾の帰りだった。僕は寝ていたので、店で父と母が僕の様子を伝えた。江美香は、僕に何か話したいことがあったようだと、母が目を覚ました僕に言った。


江美香が話したかったことは、僕が熱を出して寝込んだ理由についてだろう。昨日の彼女の話にショックを受けたからなのかを確かめたかったのだ。僕は江美香の話を聞いて、この商店街の人たちを信じられなくなった。僕が生まれ育った商店街の人たちは、色んな人がいるけど、本質的にはとても優しい人たちだと信じてきた。その人たちが、昔、江美香の伯父を商店街から永久追放にした事実を知った。僕は商店街の人たちの別の顔を見てしまった気がした。僕は恐怖を覚えた。そして、憎しみを覚えた。


次の日の夕方も、塾の帰りに江美香が、僕の様子を見に来た。僕はもう熱は下がって、店のテーブルでオレンジジュースを飲んでいた。向かいに江美香が座った。

「熱が出たのは私の伯父の話が原因よね。話さなければ良かった」

「話した江美香が悪いんじゃない。亡くなったおじさんが悪い訳でもない。悪いのは商店街の人たちだ。みんな偽善者だ……」

「言い過ぎよ。みんな普通の人たちよ」

僕はそのことには答えず、唐突に言った。

「ところで、江美香。僕はもう塾に行くのをやめる。難しくて、ついていけないし、何より、塾に行く意味も勉強する意味も分からなくなった」

客のいない店内に僕の声は響いた。

カウンターの中にいる両親にも聞こえた。

江美香は塾のことには答えず、「また来る」とだけ言って帰った。

母はうろたえた。厨房から出て来ようとした。

すると隣にいた父が母を制した。

「羽津恵。しばらく様子を見よう」


僕はそのまま本当に塾に行かなくなった。父は僕に何か考えがあるのだと思って、母に様子を見ようと言ったのだろうけど、実は、僕は何も考えてはいなかった。というより何も考えられなかった。頭の中は商店街の住人に裏切られたということしかなかった。江美香の伯父は心の拠り所を無くしたと言った。僕も同じだったが、彼女の伯父と違い、僕は追放されず、そのまま商店街にいる。僕は商店街のどこにも居場所を見つけられない状況に陥った。そして、全ての住人に嫌悪を感じた。ただ、僕なりの基準に従って何人かの例外があった。僕の両親、江美香の両親、江美香の祖母、長原会長、魚甚の大将、長原の両親、そして、長原と江美香だ。

江美香の伯父が追放になった時、僕の両親は、この街にいなかった。同じホテルで働いていた。だから、無関係だ。江美香の両親も同じく無関係だ。彼女の父は、兄である功造は失踪したと思っていたぐらいだ。江美香の祖母は、功造から追放の話を聞かされ絶句した。全く知らなかった上に被害者だ。僕は、もう江美香の祖母を甚田のばあさんとは呼ばない。長原会長は、難しい立場だが、住人の総意という圧力に屈したと魚迅の大将に後悔の念を述べている。だから、敵視しないことにした。魚迅の大将は江美香の伯父と一緒に処分を受けた人だ。長原の両親は長原会長と同じ立場だったはずだ。そして、長原は何も知らないだろうし、江美香は被害者だ。これが例外的な人たちだった。


居場所のない僕は街に出た。でも、いくら背が高くて高校生と見間違えられる僕でも、所詮は中学生だ。行くところがない。街をうろついていると補導される危険もある。ゲームセンターにいると不良の中学生にカツアゲされる危険もある。結局、僕が行ける所といえば、城跡公園ぐらいだった。子どもたちが元気に遊んでいた。ブランコが空いていたので、ぼんやりしながら座っていると、子どもたちに邪魔だと言われた。彼らに譲って家に帰った。もう八月に入っていた。


街に出ても居場所がない。商店街にも居場所がない。居間で寝転がってレコードを聴き始めたけど、父の真似をしているようだから、すぐにやめた。僕は江美香のことを考えた。今、彼女は隣街の塾で勉強をしている。江美香は何故、あんなに一生懸命に勉強をしているのだろう? 彼女は何を目指しているのだろう? 夏休みに一緒に塾に通っている間に聞いてみるつもりだった。でも、僕は塾に行かなくなった。江美香に塾には行かないと宣言しておいて、自分だけ取り残された気持ちになっていた。その時、ふと長原の顔が浮かんだ。

「僕は進学より仕事を取る。この夏休みで僕は社会人になる」

僕は立ち上がると、食材倉庫まで行きドアを少しだけ開けた。こっちを向いて座っているカウンター席の客の顔が見えた。魚迅の大将が笑顔で喋っていた。魚迅さんは許せる。だが、その他に並んでいる客は全員許せない。イチハチ・デンキも、八峰も、岩太メガネの店主も全員許せない。僕はドアを閉めた。そして、いつもは使わない店舗の横の暗くて細長いコンクリートの通路を歩いてドアを開けて外に出た。本来、このドアが住居部分の玄関なのだが、自転車一台も置けない狭くて暗い通路は使い勝手が悪い。だから、両親も僕も、出入りには、店の入り口と厨房奥のドアを使っているのだった。それなのに、僕は、嫌悪している常連客と顔を合わせたくないため、わざわざ、このドアから外に出た。


もし、商店街の風景がポジからネガに反転したらと、実際にはあるはずがないことを不安に思いながら、僕は長原米穀店に向かって走った。僕は自分で思っているより繊細だった。長原の米屋に着くと、長原の父が店の中から、十キロの米袋を三ついっぺんに担いで出てくるのが見えた。僕が挨拶をすると、長原の父は笑顔で返事をした。右肩に三つ乗せていた。長原の父は、中肉中背の人で特別に力があるようには見えない。コツがあるのだろう。軽々と米袋を担いで、配達用のワゴン車に米袋を乗せた。そして、すぐに配達に出かけた。その後、長原を探したが、店の中にも、倉庫にも彼はいなかった。僕がそうやって長原を探していると、彼の母が奥から出てきて、

「安森君。久しぶりね。則勝は居間で、マンガを読んでるわよ。呼んで来ようか?」

と言った。

「長原、この夏で社会人になるって言ってたんですが?」

「一日で、ダウンしたのよ。腰を痛めたって言って。それから、ずっと何もしてないのよ」

長原の母の話を聞いて、僕は、長原に期待を裏切られたような気もしたが、期待通りだったような気もして、ほっとした。

「友弘。久しぶり。今日も塾じゃないのか?」

僕の声が聞こえたので、長原が出てきた。

長原は夏休み前より少し太っていた。彼が本当に何もしていなかったのが分かった。僕が大事な話があるのだと言うと、長原は、店の奥にある会議室で話そうと言った。長原と僕は店の奥にある会議室に入った。会議室は簡素な作りの部屋で、そこに長机と椅子が並べてあった。僕も、子どもの頃、この部屋に入って長原と遊んだ記憶がある。でも、江美香の話を聞いた今、この部屋は僕にとって忌まわしいものに思われた。魚迅の大将と江美香の伯父甚田功造が裁かれた部屋である。そして、住民の圧力に屈した長原会長が、甚田功造を永久追放にした部屋である。僕は会議室に入ったまま、その場に立ち尽くしていた。

「友弘。座れよ」

長原に言われて、僕は椅子に座った。

二人とも会議室の中央に座り、前の席に座った長原が、椅子はそのままにして僕のほうを向いて座った。背もたれに両腕を乗せていた。

そして、

「大事な話って? 僕に相談するってことは商店街に関することだよな?」

と言った。

僕は「長原の顔が浮かんだから、とにかく慌てて来たんだけど、結局、そういうことだった」と言ってから、江美香の伯父の話を長原にした。住民の意志に屈した長原天が、江美香の伯父を追放する部分を聞いて動揺するかと思ったが、長原は黙って聞いていた。

そして、僕の話が終わると、

「友弘。僕が何故、商店街の見回りを始めたと思う? 僕が商店街の見回りを始めた本当の理由は、江美香のおじさんのような悲劇を二度と繰り返さないためなんだ」

長原は静かにそう言った。

「この話を長原は知っていたのか?」

「当然だよ。僕の曾祖父はこの商店街の創設者だ。そして、現会長は祖父の長原天だ。この商店街のことなら何でも知っている」

「実際に、長原にこの話を教えたのは?」

「父さんだよ。僕が小学校を卒業する直前のことだった。僕は父さんに、おじいちゃんのような立派な会長さんになって、商店街のみんなのために役立ちたいって言ったんだ。そしたら、父さんが『会長は立派な仕事だ。でも、過ちを犯すこともある。人間は完璧じゃないからだ。則勝。これから話すことは小学生のお前には辛い話だと思う。でも、将来、現実に会長になる可能性のあるお前は、会長や商店街の本当の姿を知っておかなければならない。だから、この話をする』。そう言って、僕にこの話をしたんだ。商店街でタブーとされている話を」

長原はそう話しながら、悲しい顔をした。

僕は長原も、江美香の伯父の話に深く傷ついていたことを知った。

「そうだったのか。お父さんから聞いたのか。長原はその話を聞かされて商店街が嫌いにはならなかった? 僕は今、その話を知ったばかりだけど、商店街の人たちが嫌いになっている」

「僕も嫌いになったさ。それに情けなかった。僕は商店街のことも祖父のことも誇りに思ってきたから。でも、父から言われたことを考えたんだ。人間は完璧じゃない。つまり、過ちを犯すのが人間なんだ。そう思ったら、商店街のことも祖父のことも許せるようになった。そして、中学生になってから、見回りを始めたんだ。過ちを犯すのが人間なら、それを未然に防ぐしかない。どこかに争いの種はないか? どこかに不穏な空気はないか? そのことを察知するために」

僕は彼の話を聞き、江美香に続いて、それまで一番身近な存在だった長原からも取り残された気がした。

「友弘。何をうつむいているんだよ。ここからが、大事な話しなんだ」

「まだ続きがあるのか?」

「ある。見回りをしていて、最近、気になることがある」

「どんなこと?」

「ジンダシューズは成功しすぎたため、商店街の住民に嫉妬されていた。これは絶対にあったと思う」

「それは、僕もそう思う」

「甚田功造が商店街の和を乱したことが、商店街の人たちの怒りを買ったのは本当だと思う。でも、それだけだったのかな? 僕には成功への嫉妬も追放に繋がった要因だったと思うんだ。仮に、ジンダシューズが成功していなくて、江美香のおじさんが会長選に出ていたとしたら、ただ騒々しいだけの人だと皆、笑っていたと思う。だから、おじさんは追放されなかったはずだ」

僕はなるほどと頷いた。

「そして、僕は今、その教訓を基に見回りをしていて気になることがある。『ハンバーグステーキ サチザキ』の存在だ」

「サチザキ? 幸崎さんの店がジンダシューズと同じ目で住民に見られているのか?」

「いや、サチザキは、そこまで住民の感情を害していない。ただ、商店街に生まれ育った僕は思うんだ。商店街の住民の総意って、空気のように実体がない。それに、気まぐれだ。いつどう変わるか分からない」

「確かに、気まぐれだな。そのことは僕も身に染みて分かるよ」

「サチザキは嫌われてはいないけど、孤立しているのは分かる。商店街の中の一軒なのに商店街と交流がない。そして、忘れてならないこととして、サチザキは成功している。気になるんだ。悲しい過去を教訓にして何かが起こる前に回避したい。友弘。協力してくれるか?」

僕は、長原の話を聞いて、彼とは立場が違うから、サチザキに関して、彼と同じ危機感を共有することは正直なところできなかった。でも、その時、僕は何かに懸命に取り組みたかった。そして、拠り所を無くした状況を脱したかった。それと、幸崎さん夫妻がバイトも雇わず二人だけで店をやっているため、子どもたちが、いつも江美香の祖母に遊んでもらっているという彼女の話を思い出した。僕は、以前から、そのことが気になっていた。だから、長原に協力することにした。


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