第三章(夏日の照り返し)4

四.

大夢町アーケード商店街の自治会規約には、それほど細かな規則はなかった。戦争の傷跡もまだ残る中、急ごしらえで作られた規約だった。その後、規約の改定は行われていない。そこに、功造とエンゾとレジバは目をつけた。会長選に関する規則や罰則が大まかであるため、無いに等しいことを悪用したのだ。

会長選の立候補者が、選挙前に商店街に高額の寄附をすることが、何を意味するかは誰にでも分かるが、規則にないことを利用し、功造は桁の違う額の寄附をした。商店主は皆、選挙の票目当ての寄附だとすぐに気づいたが、規約違反ではないため受け取った。受け取った当初は、功造を批判していた商店主も、次第に金の力になびいた。

「あの若さで、これだけの寄附ができるなんて、甚田の跡取りは頼もしい」「金は要る。アーケードの改修工事をやっと来年にできるが、時間がかかった。金が無いからだ。商才のある功造君は期待できる」

商店主は、長原会長のいないところで、囁き合った。その間、長原会長は特に何もしなかった。選挙運動もせず、功造とすれ違う時も、いつも通り、にこやかに挨拶をするだけだった。


功造は、商店街の老朽化した箇所も、自腹を切って直した。ペンキの剥げた柱を塗り直し、空き店舗の錆びて劣化したシャッターを取り替えた。それだけでも、商店街は随分、きれいになった。功造を応援する住人は、更に増えた。

エンゾとレジバが、功造に言った。

「やり過だぜ。 長原会長を怒らせるんじゃねえか?」

「大丈夫。あの人は、これぐらいのことで怒るような小さな人じゃない」

功造がここまでするのには訳があった。長原天の支持が、それだけ大きいのだった。今、エンゾとレジバからさえ、やり過ぎだと言われるほどの選挙運動をしているが、それでも、人によっては功造が劣勢のままだと言う。中には両者が拮抗しているというものもいるが、功造が優勢だと言い切るものはいなかった。功造は一見、威勢よくふる舞っていたが、内心は焦っていた。


功造の母千津は、ジンダシューズの商売については、全て功造に任せて何も言わないようにし、自分は履甚の商売に専念してきた。また、商店街で孤立していることも、時間が解決することだと思い黙ってきた。だが、今回の突然の出馬表明には反対した。

ある日のことだった。履甚の奥で二人は話をした。

「功造。長原会長あっての、この商店街で、お前のような若造が、出馬するなんて、会長のことが嫌いなのかい?」

「会長さんにはかばってもらうことも多いし、感謝している。でも、この商店街を変えることができるのは、俺のような新しい時代の人間なんだ。変えないと、この商店街は生き残っていけない。だから、母さん。俺の出馬はこの商店街のためだと分かって、許して欲しい」

千津は、功造の話を聞いて、嘘を言っているのではないと分かった。だが、高額の寄附のことや、年中行事の備品を、次々に自分の金で新しいものに買い替えていることも知っていた。あまりにも、やり方が汚い。そのことも問い質した。

「それは母さんの誤解だよ。それに、商店街の人たちも誤解している。寄附も備品の買い替えも、前から考えていたことなんだ。それが、店が忙しくてできなくて、偶然、この時期に重なっただけなんだ」

全くの嘘だと千津にもすぐに分かった。だが、親は子どもに弱い。嘘までつき、汚い方法を使ってまで、会長になりたいと訴える功造を見ていたら、千津は切なくなった。夫が死んで、弟のために大学進学を諦めてまで履物屋の跡を継いだ功造だったが、ずっと上手くいかなかった。それが、今、やり方に多少の問題はあっても、会長選に出馬できるまでになったことを、親としては、褒めてやりたい気持ちになった。

だから、千津は功造に言った。

「功造。これまでよく頑張った。選挙も頑張りなさい。母さんも応援するよ」


この会長選には、大きな争点になる可能性のものがあった。だが、それは、長原天の力により、抑えられていた。商店街のすぐ近くにスーパーマーケットの建設が予定されていた。そして、商店街の住民の多くが反対の意志を持っていた。スーパーマーケットとは、現在、肉辰のおかみがリサーチに行くスーパーのことである。選挙戦から半年後に工事着工の予定だった。一時は商店街住民による反対運動も起こったが、盛り上がらないまま終わった。それは、長原会長から、対立より共存を目指すよう説得があったからだった。


功造が千津と話をしてから少し日が過ぎた九月半ばのことだった。ジンダシューズは定休日だった。功造は一人で店の掃除をしていた。そこに、魚迅が現れた。魚迅は、名前を大嘉幸助といった。昔からお喋りで人づき合いのいい男だった。それが、この時は深刻な顔をして店に入ってきた。相談があると言った。

「功造さん。実は、俺は、会長選はあんたに賭けてる。何故なら、長原会長は、新しいスーパーの建設に反対しない。共存なんて言ってる。でも、スーパーが建って、この商店街が無事だと俺は思わない。だから、あんたに、この会長選でスーパー建設反対の声をぶち上げて欲しいんだ」

魚迅の突然の話に功造は驚いた。

「でも、今更、反対運動を再開しても、もうスーパーは建設されます。だから、徒労に終わってしまいます」

「あんな中途半端な反対運動だけで終わったら、スーパーの奴らに、商店街の住人が全員喜んで迎える気でいますって思われる。スーパーが建つとしても、それまでに本気で反対運動をもう一度やって、商店街は、お前たちには負けないぞっていう意志を見せないとダメだ。俺はそれができるのは、功造さん。あんたしかいないと思ってる」

功造は、魚迅の話を聞いて筋が通っていると感心した。だが、一つ疑問があった。

「大賀さん。話はよく分かりました。ただ、大賀さんは、長原会長と兄弟のように仲がいいはずです。ですから、いくらスーパー建設反対の立場とはいえ、私を応援することができるんでしょうか? 商店街の人たちとの関係がマズくなるかもしれませんよ」

「功造さんの言う通り、会長も俺も兄弟がいないから、子どもの頃から弟のように可愛がってもらってきた。でも、大夢町アーケード商店街の生き死にのかかったこの時に、そんなことは言っていられない」

魚迅は本気だった。彼の商店街への愛情は深い。仲のいい長原会長であっても、スーパーの件は許せないのだろう。それから、彼はこんな話をした。

「それと、あんたの足元を見るようで申し訳ないが、功造さんが、この会長選で落ちたら、また商店街で孤立した運動靴屋に逆戻りだ。長原会長の天下はこれからも続く。そして、息子の則政さんが後継者になるだろう。そうなったら、あんたは一生、商店街で孤立して生きなければならない。今は、選挙期間中だから立候補したあんたをみんな注目している。それに、あんたは、寄付をしたり、商店街の修理をしたり、一生懸命、商店街のために動いている。だから、商店街の奴らも、あんたを持ち上げているが、あいつらは、すぐに裏切るぜ。そのことは、あんたが身に染みて知っているだろ?」

功造は、魚迅があまりにも自分の苦悩を知っていることに身構えた。

「何故、そんなことが、大賀さんに分かるんです?」

魚迅は苦笑いしながら、こう言った。

「商店街の人間だったら、みんな知ってるよ。あんた、みんなから陰で何て呼ばれてるか知ってるか? みんな、あんたのことを、『一人商店街』って呼んでるぜ。今は、変わった髪型の二人が一緒に働いてるから、『三人商店街』って呼ぶ奴もいる。どうだ? 今はチヤホヤしてるけど、奴らはこんなもんだぜ」

功造は、カッと頭に血がのぼった。そして、

「誰だ、そんなことを言っている奴は?」と言いかけた時、急に怒りよりも恐怖心に襲われた。商店街の人間の言う通りだと思った。エンゾとレジバも、いついなくなるか分からない。俺は、ずっと一人だ。商店街の店主なのに商店主の仲間がいない。一人商店街には、二度と戻りたくない。

功造の表情から、心の揺れを読み取った魚迅は、

「功造さん。あんたは、どのみち勝つしかない。それなら、選挙運動に反対運動を加えて、思いっ切り盛り上げて勝つ。これしかない。あんたが会長になれば、みんなは従う。露骨なことを言うが、人間は権力に弱い」

最後の言葉が、エンゾが前に言った言葉と重なったと気づいた瞬間、

「はい。大賀さん。一緒に戦いましょう」

と功造は言った。そして、無意識に右手を差しだしていた。魚迅は、その手をがっちりと握って二人は握手をした。


会長選挙の投票日は、十月の第二日曜日だった。投票は長原米穀店にある会議室で厳正に行われる。いつも自治会の会合が行われている場所だ。残り一カ月弱だった。

魚迅は、「会長選には、スーパーマーケット建設断固反対である甚田功造に皆様の清き一票を」と、店舗一軒一軒を隈なく訴えた。

功造も一緒に店舗を回りながら、各店主の反応を見た。

反応は悪かった。この前まで、功造を応援していた店主も、スーパーマーケット建設反対の話が出ると、笑顔が消えた。店の奥に引っ込んでしまうものもいた。話をしてくれる店主もいたので聞いた。

「スーパーマーケット建設反対の話を出されると困るなあ。功造さんをこのまま応援すると、長原会長に楯突くことになる。報復するような人じゃないけど、長原会長が当選したら、その後、気まずい。それに、スーパーは建つ。今更、反対しても仕方ない」

この話が、商店街住人の声を代弁していた。


「大賀さん。やはり、スーパー建設反対の件は出さないほうが? かえって、票が減っている気がします」

「じゃあ、何か他に起爆剤はあるか? あんたは、会長選挙に携わるのが初めてだ。だから、情勢を知らない。今、長原会長のやや優勢だ」

「会長のやや優勢ですか?」

「そうだ。長原会長には実績、人脈、人望があり、このままではひっくり返せない。だが、あと一つ何かがあれば勝てる。だから、スーパー建設反対運動に火をつけるんだ。住人の本音はスーパー反対だ。それに火がつけば、功造さんが勝つ」

魚迅の言葉は確信に満ちていた。だから、功造もその言葉をもう一度信じることにした。


だが、実際には、それ以降も、何も変わらず、いたずらに日々が過ぎていくだけだった。商店主と話をしても、長原なのか甚田なのか、どっちを応援しているのかもはっきりしない。スーパー建設に反対なのかどうかもはっきりしない。意図的に曖昧な返事をするばかりだった。そんな商店主の答えのない答えを聞き続けた。常に明確な意志を持ち、明確な発言をする功造の最も苦手な答えだった。焦りは魚迅にも出てきた。普段は黒のジャンパーを着ている魚迅が、少しでも目立つようにと、商店街の祭りの時にだけ着る丈の短い法被を着て商店街を歩き始めた。それに、以前、スーパー建設反対運動をした時の「スーパー建設断固反対」と書かれたのぼりも持ち出した。更に、ジンダシューズが休みの日は、エンゾとレジバも加わった。地味な姿の功造を囲んで、法被姿の魚迅、のぼりを持たされたモヒカンのエンゾとレジバが商店街を練り歩いたのである。それは珍奇な光景だった。

「甚田様の大名行列だ」「魚迅は一心太助のつもりかね?」と商店街の住人は囁いた。


そんな声を聞きながら、功造は、魚迅の見込み違いを痛感していた。魚迅は決して間違っていた訳ではない。功造が、長原天に勝つためには起爆剤が必要だった。そして、商店街を一致団結させる起爆剤はスーパー建設反対しかなかった。ただ、魚迅のようにもう一度、主体的に反対運動を起こそうなどと考えるような人間は商店街にはいなかった。スーパー建設の計画が明らかになった時は、驚きもあって、運動を起こしたが、それも、会長の長原に諭されてすぐに、やめてしまった。商店街の人間は、万事において事なかれ主義なのだ。だからこそ、常に変革を求める自分は疎んじられている。その住人に対して、一大変革を訴えて会長選に出馬した自分は、魚迅など比較にならない見込み違いをしたのではないか? それは、ジンダシューズの成功により、万能感を得ていた自分のただの勘違いだったのではないか? 功造はそう気づくと、長袖シャツの下にびっしょりと汗をかいた。秋に入り日中でも気温は下がってきた。ましてや、ここはアーケード商店街である。陽ざしもアーケードが防ぎ、暑さなど感じない。功造がびっしょりとかいている汗は、後悔の汗だった。

『でも、今更、引けない。何かやらなければ。この敗北の局面を覆す何かをやらなければ』

功造はふとアーケードを見上げた。来年から改修工事が始まる。きれいになったアーケードを見たいと彼は思った。そして、自分ほどこの商店街を愛しているものはいないのに、何故だろうと思った。


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