第三章(夏日の照り返し)3

三.

特別進学コースの講師は早口で説明した。これぐらいの内容は分かっていて当然だということだろう。僕は、昨日、コーヒーショップで江美香の話を聞いてから、ずっと頭が冴えたままだった。そして、夜も、よく眠れないまま今朝起きて、再び、進学塾に来た。そこに、講師の早口があったものだから、僕は、つい眠ってしまった。学校ではないから怒られない。ただ、周りの生徒が、「こいつは早くも脱落したか」と思っただけだった。


講義が終わり、昨日と同じコーヒーショップの同じ窓際の席に僕らは座った。

「友弘君。講義の間、寝てたけど、私の昨日の話に驚いて、夜、眠れなかったんじゃない?」

江美香が僕にそう尋ねた。

図星だったが、「そうだよ」とは言えなかったので、「講師が早口で講義の内容が分からなくてさ。いつの間にか寝てしまっただけだよ」と僕は答えた。

彼女は、昨日と同じアイスティーを注文した。僕は、昨日とは違いホットコーヒーを注文した。クーラーのきいた教室でうたた寝していて、体が冷えたのだった。今日は昨日とは違い空が曇っていた。気温も昨日ほどは高くない。窓の外を眺めても、暑さで風景が揺らぐようなことはなかった。今日は“蜃気楼”は見えなかった。

僕はホットコーヒーを飲んだ。体が温まるのを感じた。江美香に昨日の話の続きをしてくれるように頼んだ。

江美香は頷いて、話し始めた。


江美香の伯父甚田功造は、アーケード改修に関する書面運動の問題を起こして以降、さすがに同種の問題は起こさないようになった。だが、彼には常に焦燥感がつきまとっていた。店を継いで数年が過ぎ、弟の越造は大学に進学していた。経済的な負担の少ない地元の大学に進学すると言ったのを、以前から行きたいと言っていた遠方の大学に進学するよう功造は説得した。千津も賛成した。越造は二人の勧めに従い、遠方の大学に進んだ。下宿生活をしながら大学に通っている。学費に加え生活費を負担しているが功造は満足していた。自分が進学を諦めたのは弟を大学に行かせるためだった。だから、これで良かったと思えた。だが、これで良かったと思えるのは、このことだけだった。後は、何一つ上手くいかなかった。何よりも商店街に自分が受け入れられないことに焦りを覚えていた。自分が生まれ育った商店街だけに、余計に焦った。軽視していた年中行事にも参加した。豆まきの時には鬼の役も買って出た。だが、空しさを感じるだけで、商店主との距離は埋まらなかった。独立志向が強く協調性に欠ける功造と、集団の協調を大事にするものが多い商店主とは、性格的に合わなかった。どうしようもないことではあったが、功造は悔しかった。功造は商店街の中で孤立するようになった。そして、店が終わると、よく高校の頃の友人たちと酒を飲みに行くようになった。


夏の終わりのある日のことだった。

友人の行きつけのバーのテーブルで酒を飲んでいると、そのうちの一人が、

「お前は、商店街に固執しすぎだ。どうでもいいだろう。お前はお前の店のことだけを考えろ」

と言った。エンゾというあだ名の男だった。

「色々とあるんだよ」

功造が答えると、もう一人の友人が、

「何もないだろ? どうせ日本中の商店街が、そのうち消えてなくなるぜ。それなのに他の店と仲良くしてて意味があると思うか? お前だけ生き残ればいいんだよ」

そう言った。レジバというあだ名の男だった。

「そうだよ。特に、俺は、お前の店のある商店街の馴れ合いみたいな雰囲気が嫌いなんだ。結局、足の引っ張り合いだろ?」

「そう。足の引っ張り合いだ。群れから抜け出さないと生きていけないぜ」

エンゾとレジバは、当時流行していたパンクロックムーブメントの強い影響を受けていた。エンゾはイギー・ポップのTシャツを着て、レジバはニューヨークドールズのTシャツを着ていた。二人とも口ひげを生やして、髪はモヒカンだった。二人で組んで商売をしていた。衣料品から雑貨まで幅広く扱っている店で、海外に直接、品物を買いつけに行くこともあった。二人の容貌から、海外に買いつけに行く際、税関は通れるのだろうかと功造は思うことがあった。儲かっているのかいないのかも分からない危なっかしい商売だったが、二人は、それを楽しんでいるところがあった。二人は山っ気が強かった。そんな二人から見ると、大夢町アーケード商店街は、馴れ合いにしか見えないだろうと功造は思った。


レジバが、功造の前に雑誌を放り投げた。

「読んでみろよ」

功造は目の前にある雑誌をテーブルから取り上げた。

「日本でもこれから流行間違いなしのスニーカー大特集」

タイトルにそう書かれたファッション誌だった。

功造はページをめくった。知っているスニーカーもあれば、知らないスニーカーもあった。功造は、ファッションにそれほど興味が無かった。だが、商売人の勘として、『これは売れる』と直感した。

雑誌を食い入るように見る功造に、エンゾが言った。

「功造はやっぱり群れから抜け出せる男だな。功造、スニーカーショップやれよ」

「ああ。草履屋からスニーカーショップへ。華麗なる転身だぜ」

レジバが言った。

二人は、店を継いで以降の功造を見かねて、スニーカーショップの話を持って来てくれたのだった。


功造は、二人の友人が見せたファッション誌を見ただけで、スニーカーショップの開店に心が動いた訳ではなかった。彼と母の千津は、履物屋だけで、これからも商売を続けることには限界を感じていたため、日頃から、靴屋をやる話はしていた。店の場所も、ジンダシューズを開店したのと同じ履甚から三軒隣りの空き店舗と考えていた。でも、紳士婦人用の革靴を売る店はどこにでもある。今更、この商店街に開店しても、新鮮味がないということで話が途絶えていた。そこに、ファッション誌に載っているスニーカーが現れたのだった。功造は、越造が高校生の時、わざわざ電車に乗って遠い街までスニーカーを買いに行って帰って来たことを思い出した。「この辺りには、スニーカーを売っている店がない。靴屋に売っているけど、数が少ないから、欲しいスニーカーがない」と越造は言っていた。それと、雑誌を見て改めて感じたのが、デザインに加え、価格も魅力的だということだった。決して、安くはない。でも、中学高校生でも、少し無理をすれば買える価格だった。実際には、親にねだることになるが、その際も、買ってもらえる範囲内の金額だった。スニーカーショップこそ、今、この街が必要としている店である。功造は、やるしかないと思った。だが、自分で商売を始めたことのない彼は、一瞬、ためらった。

その時、エンゾが言った。

「商店街の奴らを見返してやれよ。ずっと、邪魔者扱いされてんだろ」

そのひと言を聞き、功造に闘志が湧いた。

功造は雑誌から顔を上げた。そして、

「やるよ。あいつらを見返すために」

とかすれた声で呟いた。

エンゾとレジバは、煙草を指にはさんだまま右手を上げた。親指を突き出しグッドとサインした。

その時、店内には、ストゥージズの曲が大音量で流れていた。

功造が、スニーカーショップを開くことを決意したのは、エンゾの最後のひと言だった。


それから、僅か一カ月で甚田功造は、ジンダシューズを開店した。そして、予想を超える大きな成功を収めた。この時、功造は成功の喜びとは何かを初めて知った。成功の喜びとは勝利の喜びだ。何に勝ったのか? 自分を疎んじてきた商店主に勝った。そして、それだけにとどまらず、自分は人生の勝者なのだと思った。

店の棚には、ナイキ、アディダス、コンバース、プーマ、サッカニーなどの真新しいスニーカーが並んでいた。当時、これだけのブランドを取り揃えている店はまず無かった。それらのスニーカーを見渡しながら、「俺は選ばれた人間だと分かっていた。でも、何故、不遇なのかと疑問に思ってきたが、やはり、神様は俺を忘れていなかった。いよいよ俺の勝利の人生がスタートした」と功造は呟いた。この日は定休日で、店には誰もいなかった。功造の呟きは静かな店内に響いた。功造には信仰心はない。だが、彼は神を口にした。そして、微笑んだ。


二年の歳月が流れた秋のことだった。ジンダシューズはずっと盛況だった。店には、エンゾとレジバがいた。二人の雑貨屋は上手くいかなかった。そこで、功造が、二人を呼び寄せて、ジンダシューズでアルバイトをさせていた。功造が、助言をくれた二人に恩返しをしているという意味もあったが、それよりも、信頼できる相談相手が欲しかったのだ。功造は、成功して二年経っても、商店街で孤立していた。エンゾとレジバが、「店が当たったんだから、こんな古ぼけた商店街を捨てて、さっさともっといい場所に店を移転させろ」と言っても、功造は、商店街に固執した。

「商店街で俺を認めさせる方法は何かないかな?」

ある日、店が終わってから、シャッターの降りた店内で蛍光灯の青白い光の下、功造が二人に尋ねた。

エンゾが言った。

「人間はなあ、金になびくんだ。それと、権力に弱い」

「それは分かる。でも、具体的には何のことだよ?」

「もうすぐ商店街の会長選があるだろ? 店の前を通った商店街の人間が話しているのを聞いたよ。功造、お前、会長選に立候補しろ。そして、会長になって権力を握れ。そうすれば商店街の人間は、みんな、お前に従う」

「俺の若さでか? 実績もない。相手は現会長の長原天だぞ。父親はこの商店街の創設者だ。無理だよ」

「そこを突くんだよ。世襲反対のスローガンを掲げるんだ。長原って会長の次は、会長の息子が継ぐような話まで出てるんだろ? そうなると商店街創設以来、ずっと世襲だ。この商店街は長原家の私物じゃない」

「確かにそうだな。でも、現実問題として、長原家の世襲であることで特に支障はない。俺が煽っても商店街の住人がノッテこない」

功造がそう言うと、今度は、レジバが、

「じゃあ、何でもいいから、お前の好きなスローガンを掲げろ。要は金だ。商店主に金をばらまく訳じゃないぜ。さすがに、それはマズい。その代わりに、商店街にジンダシューズから多額の寄附をするんだよ。それと、顏が消えて、のっぺらぼうみたいになってる男雛と女雛の人形があるだろ? ああいう備品を片っ端から買い替えるんだ。それで、商店主を買収するんだよ」

二人の答えを聞いて、功造は、

「いつの間に、そんなことを考えてたんだ?」

と驚いて尋ねた。

「お前にバイトに雇ってもらってから、二人で、この商店街を観察してたんだ。この商店街でお前が孤立しているのは、お前が悪いんじゃなくて、ここの住人が、つまらなすぎるからだって気づいてな。いっそ、会長をお前にすれば面白くなるって二人で話してたんだ」

功造は、エンゾとレジバの雑貨屋がダメになった時、すぐに彼らを呼び寄せて良かったと思った。

「そうだよな。俺が悪い訳じゃない。この商店街が悪いんだ。俺は会長選に出馬する。そして、俺が会長になって大夢町アーケード商店街に一大変革を起こす」

功造は、会長選に出馬すると二人の前で宣言した。

「お前ならやれる。スニーカーショップを大成功させた男だ。商店街の変革なんて簡単さ」

「パンクロックムーブメントから今、ニューウェーブに移っているけど、マンネリ化していたロックを大変革したのはパンクだ。だから、俺は永遠にパンクが好きだ。功造、お前にもパンクスピリットがある」

エンゾとレジバが功造を眩しそうな目で見ながらそう言った。

「ありがとう。俺は、絶対に勝つ」

功造は真剣な表情で言った。

その功造を見て、エンゾが尋ねた。

「お前が会長選に出るなら、全面的に協力する。ただ、最後に、もう一度だけ聞きたい。前から言っているように、お前は何故、この商店街にそんなにこだわるんだ? 本当は店を移転するのが一番の解決方法だと俺は思う。逆に、会長になることは、お前が、この商店街に根づくということだ。それでいいんだな?」

功造は答えた。

「パトリオティズムだけでなく、ナショナリズムでさえ、元々は、素朴な郷土愛から始まっているって、高校生の時に読んだ本に書いてあった。だから、理屈じゃない。俺は、この商店街を愛しているんだ」

「功造。お前の言うことは、時々、難しくて分からないぜ。まあ、それがお前のいいところだけどな」

そう言うと、エンゾがレジバを見て笑った。レジバも笑って、煙草に火をつけた。シャッターを降ろした店内には、蛍光灯の光に照らされた煙草の煙が白くうず巻いていた。



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