第三章(夏日の照り返し)2
二.
江美香は、レボリューションと彼女の出会いから話した。
「小学校の低学年の時、長原君と一緒に友弘君のところに遊びに行ったら、居間で友弘君のお父さんが、ビートルズの『ホワイトアルバム』を聴かせてくれたの。その時、初めて、レボリューションを聴いた」
やはり、僕は思い出せなかったが、とにかく、彼女が聴いたのは、『ラバーソウル』でも『サージェントペパーズ』でもなく『ホワイトアルバム』だった。
「ジョン・レノンが皮肉っぽい感じで歌っているから、どういう歌詞なんだろうと思って歌詞カードを見た。革命っていう言葉も含めて、この曲をどう捉えるかは、人によって違うと思うけど、私は、性急に物事を変えようとしても無理だ。変わるべきものは自ずと変わっていく。だから、今、やるべきことをやればいい。こんな風に捉えたの。そうしたら、ほっとした」
江美香の話自体はよく理解できた。ただ、長原も江美香も僕も、早熟であり、それは商店街で大人に囲まれて育った影響だとはいえ、彼女は、小学校の低学年の時期に、既にこんな難しいことで悩んでいたのかと驚いた。
「確かに、革命という言葉をそのまま受け止めることはないと思う。でも、小学校低学年の頃に、性急に物事を変えようとして悩んでいたなんて。あの頃、江美香は、何か大きな問題でも抱えていたの?」
僕の疑問に対して、江美香はこう言った。
「ごめんなさい。大事なことを言うのを忘れていた。この曲を聴いて、思い浮かべたのは、私の伯父のことなの。だから、その頃の私に何か大きな問題があった訳じゃない」
そして、彼女は、そこまで話して、一度、話すのをやめた。
それから、右手できれいに切り揃えたマッシュルームカットに触れた。掌でぽんぽんと頭を叩くような仕草をした。彼女が考え事をする時の癖だった。
しばらくして、彼女は、
「これから、私は今まで誰にも話したことのないことを話す。私の伯父のことよ。同時に、大夢町アーケード商店街について、友弘君が知らないことを話す。それは明るい話じゃない。友弘君を酷く傷つけるかもしれない。それでも、話していいかな?」
と言って僕を見た。いつも少し醒めた感じの彼女の目ではなかった。
「一体どんな話なのかは分からないけど、ここまで聞いて、今更、やめる訳にはいかないよ。それと、知らなければ良かったと思う話にこそ真実があるんだろ? 僕の生まれ育った商店街の真実を知りたい」
僕は江美香にそう言った。
江美香は、「ありがとう」と言って頷いた。
まず最も基本的なことを、僕から、彼女に尋ねた。それは、江美香の伯父とはどんな人物なのかということであった。何故なら、僕は江美香の伯父のことを全く知らない。それは、商店街では彼女の伯父のことを話すのはタブーのようになっているからだが、それ以前の問題として、僕は江美香の伯父に一度も会ったことがないからだ。そのことについて、僕が尋ねると、江美香がこう答えた。
「友弘君が伯父に会ったことがないのは、友弘君のお父さんとお母さんが、この商店街に訪れる少し前に、伯父はこの商店街を去ったから。入れ違いになったって言えばいいのかな」
「そうなのか。だとすると、十五年以上前の話になるんだ。かなり前のことだけど、それなら、江美香も、おじさんのことを知らないんじゃないの? だって僕らが生まれる前のことだから」
「私は小学生になってから、父に連れられて伯父に会いに行ったことがあってね。その時、初めて伯父に会った。伯父は、父とは違って、やせて背の高い人だった。少し話してみて優しい人だって分かった」
「おじさんは、今は、どこにいるの?」
「死んだの。病気で。父に連れられて伯父に会いに行ったのも、入院先の病院に見舞いに行った時のことなの。その時は元気だった。でも、その後、すぐに死んでしまったから、一度しか会えなかった」
江美香の伯父が、既に死んだという話が出て、しばらく沈黙が続いた。僕は沈黙を破るべく、ずっと疑問だったことを思い切って江美香に尋ねた。
「ねえ。江美香のおじさんのことに触れるのが、どうして、商店街ではタブーみたいになっているの?」
僕の疑問を聞いて、江美香は自分が黙っていることに気づいた。そして、
「友弘君の疑問に答えることが、私が伯父について話したいことの全てになると思う。そして、これから話すことは伯父が亡くなった後、父が私に教えてくれた話なの。伯父について何も知らない私に、商店街の人が伯父の話をした時、それが正確な話じゃなくて、つまり、嘘だった場合を用心して教えたの」
僕は、その話を聞いて、彼女の伯父には、常に嘘やタブーという穏当でない言葉がつきまとうのだろうかと思った。だとすれば、確かに、かなり深刻な話になるのだろうと思った。
僕は緊張をほぐすため、コーヒーショップの窓の外を見た。夏の夕方の陽ざしが、更に、厳しくビル街を照らしていた。外壁が黒のビルがあり、他のビルに比べて殊更、陽ざしを吸収しているように思われた。そのビルから出てきた人の歩く姿は、路面の熱で揺らめいていた。他に道を歩く人の姿も、信号待ちをしている車も、建物も全てが揺らめいていた。それらが、僕には蜃気楼のように見えた。そして、僕はその光景に、幾らか安らぎを覚えた。
「友弘君。続きを話してもいいかな?」
窓の外を眺めている僕に、江美香が言った。
僕は黙って頷いた。
「最初で最後になった面会の時に私が会った伯父は、穏やかな人だった。でも、父は教えてくれた。以前の伯父は、いつも焦っていたって。それはレボリューションにある、革命を起こさなければっていうぐらいに」
江美香は伯父を思い出しながら、そう言った。
江美香の伯父は、甚田功造といい、弟の越造と歳の離れた兄弟だった。二人の父は功造が高校二年の時に亡くなった。功造は残された母とともに履甚をやっていく決意をした。母とは、僕らが甚田のばあさんと呼んでいる千津である。功造が、履物屋の跡を継ぐ決断をした時、同時に、彼は大学進学を諦めた。彼は知力体力ともに優秀で、その能力を大きな世界で試してみたいという思いがあった。そして、そうなると信じてきたし、それ以外の選択肢はないと思ってきた。現実に、亡くなった父は、二人の息子に、大学に進学して、それからの人生は自分の好きなように生きれば良いと日頃から言っていた。つまり、履物屋は自分の代で終わりにするつもりだった。功造は、その履甚を継ぐ決意をしたのだった。理由は、父の死により、経営が悪くなる危険のある履甚を自分が継いで、母とともに守っていけば、弟の越造だけでも、大学に行かせてやれるという思いからだった。功造は、本質的には、とても優しい人間だった。ただ、高校を卒業して履物屋の跡を継いでから、彼は現実に直面した。それは、自分の能力を試すための世界としては、大夢町アーケード商店街はあまりにも小さいということであった。高校二年の時に父が急死するまで、功造は、文字通り、世界を相手に自分の能力を試したいという、やや子どもじみてはいたが、それだけに、とても大きな夢を抱いていた。それが、高校を卒業して実際に、履甚の跡を継いでみると、目の前に広がる風景は物心ついた時から変わらない、古びたアーケード商店街だった。この時は、まだアーケードの全面改修も行われる前で、顔を上げると、傷んで黒ずんだアーケードしか見えず、それがより、功造の気持ちを沈ませた。そして、同時に、この状況を何とか変えなくてはならないという焦燥感に彼は襲われたのだった。
「そもそも、革命って何なのかも曖昧にしか知らない私だから、その言葉は控えるにしても、伯父が、性急に物事を変えようとしていたことは伝わるでしょ?」
「確かに、そうだね。でも、江美香のお父さんを進学させるために、お店を継いだなんて、とても優しいおじさんだと思う。それなのに何故、みんながタブーみたいに扱うの?」
「そうね。実際に、伯父のお陰で父は大学に進学できた。そして、卒業し就職もできた。それは、私が会った時の優しい伯父の印象とそのまま一致する。でも、商店街にいた時期の伯父は違ったの。とても焦っていたし、とても苛立っていた。それが、商店街の人たちから伯父がタブー視されることになったある結果を招いたの」
そして、江美香は、彼女の伯父の苛立ちが具体的には、まず、どういうものだったのかを説明した。
ある日、商店街の会合で、甚田功造は、大夢町アーケード商店街の象徴である、アーケードの改修工事を長原会長に求めた。妥当な要求だった。老朽化による事故が懸念されていたからだ。但し、功造は、ただアーケードを改修するのではなく、自動開閉式のアーケードへの全面交換を提案した。気候の良い時、晴れた日には、スイッチ一つで商店街を覆っているアーケードが全開放となる特別注文の「オートメーション・アーケード」。会合の場で、功造は、会長の長原天にこれを迫った。
「それができれば、素晴らしいことだ。でも、功造君も知っての通り、私たちの商店街には、それだけの設備に換えるだけの金がない。先立つものがないんだよ。だから、アーケードについては、近いうちに現在のアーケードを改修するということで、既に会合でも合意を得ている。君にも分かって欲しい」
長原会長は、こう言った。
そして、功造もこう言われることを知っていた。ここからが、彼の狙いだった。
翌日から、功造は、商店街住民及び地域住民に対して、「アーケード改修におけるお願い」と題した署名活動を始めた。
「自動開閉式アーケードへの交換を私は求めます。是非、皆様にもご署名をお願いします」
仕事の合間に、功造はこう訴えて署名活動を行った。
商店街住民は、費用の問題から実現不可能だと署名しなかったが、地域住民は詳しい事情が分からないため、署名するものが少なからずいた。そして、地域で話題になった。
甚田功造の目的は、自動開閉式のアーケードへの交換ではなかった。費用的に無理なことは、商店主の一人である功造自身が分かっていた。功造の署名活動の目的は、地域で話題になることだった。日頃から、功造は、商店街の年中行事にうんざりしていた。新年大売り出しに始まり、鬼の面をつけた商売主に向けて子どもが豆を投げる節分の豆まき、三月は長原米穀店の倉庫から引っ張り出してきた大きな男雛と女雛の人形を商店街の真ん中に飾るひな祭り。ひな祭りといってもそれだけだった。それに、一体いつ備品として購入した人形なのだろう? 男雛も女雛も顔が消えかけている。一年中、この調子である。こんな催しで、商店街を訪れる客が増えるはずがない。そこで、功造は、客寄せのために署名活動をやったのだ。そして、彼の狙い通り、署名活動をきっかけにしばらく商店街を訪れる客が増えた。だが、この手法は、非常に悪質だった。一見、問題はない。だが、功造は最初から、自動開閉式のアーケード設置を求めて署名活動などしていなかった。目的は、客寄せのための話題作りだった。詐欺的行為である。そのことを知った会長の長原天は激怒した。温厚な長原天が激怒することなどないことだった。
長原会長は、履甚に怒鳴り込んできた。
「功造君。君のやったことは詐欺だ!」
さすがの功造も、青くなった。彼は手にしていた新品の草履を落とした。
奥から、母の千津が現れた。そして、
「会長。私からしっかりと言って聞かせますから、何卒お許しください」
と頭を下げた。
長原会長は、千津の亡き夫と親しかった。その顔が浮かんできた。
「千津さん。商売は真面目にやってこそだと息子さんに教えてあげてください」
それだけを言い残し会長は店を去っていった。
僕は江美香の話を聞いて、
「おじさんは、かなり危険なことを好んでやる人だったみたいだね。今の話を聞いて、おじさんが、タブーな存在になっている事実に、少し納得がいったよ。江美香にも、亡くなったおじさんにも申し訳ないけど」
と言った。
「私が、レボリューションの歌詞を読んで、ほっとした理由も少し分かってくれた?」
江美香の問いに、僕は答えた。
「申し訳ないけど、少し分かった」
時計を見ると五時を過ぎていた。窓の外を見ると夕立が降っていた。僕らは話に夢中で、雨音にも気づかなかったのだ。陽が翳り、オフィスビルもイチョウ並木もアスファルトも全てが雨に濡れて、黒みがかったように僕の目には映った。雨はもうすぐやむ。そうしたら、店を出ようと決めた。江美香の話の続きは、明日、もう一度、塾の帰りにこの店で聞くことにした。
しばらくして、雨がやんだ。急に雨音が消えて、街がしんと静かになったように感じた。僕らは席を立ち、店を出た。そして、朝と同じ電車に乗って僕らの街に帰った。
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