第三章(夏日の照り返し)
一.
陸橋を通過した電車の窓からは、真夏の青空が見えた。雲一つない大きな夏空は、碧い海を思い起こさせた。梅雨が明け、学校は夏休みに入っていた。僕は夏空を眺めながら、あの日のことを思い出していた。父の復活の日である。そんな言い方をすると大袈裟かもしれないけれど、母と僕にとっては、それだけ大きな意味のある日だった。もちろん、父自身にとっても。
父は復活したのだ。毎日、居間に寝転がってレコードを聴いていた日々に終止符を打ち、厨房で料理を作るようになった。しかも、とらわれ続けていた何かから解き放たれ自由になった。ただ、父の復活が、すぐにスタックスの復活に繋がるほど現実は甘くなかった。
それでも、僕は両親に言った。
「父さんが左手の上手な使い方を見つけたんだから、お客さんが、すぐに戻ってくると思ってた」
「お客さんには、そんなこと関係ないよ。それに、一度、離れた客を呼び戻すのはそんなに簡単なことじゃない。飲食業に限らず商売は難しい」
父はそう言った。
僕がその言葉を聞いて、よけいに落胆したのを見て、
「真面目にやっていれば、必ず、みんなに伝わるから。そんなに落ち込まなくても大丈夫」
と母が言った。
僕は、母の言葉が気休めのように思えて、本当は不服だったが、一応、頷いた。
「友弘君。ずっと空を見上げて何を考えてるの?」
あの日以来のことを考えていた僕に江美香が声をかけた。
彼女の声を聞いて僕は現実に引き戻された。
僕と江美香は、並んで電車の椅子に座っていた。
僕らは電車に乗って隣街に向かっていた。隣街にある進学塾に朝から夏期講習を受けに行くのだった。隣街には十五分ほどで着く。夏休み前に、長原も誘ったのだが、「僕は進学より仕事を取る。この夏休みで僕は社会人になる」と言って店の手伝いをしている。だから、江美香と僕の二人で通っているのだった。僕が彼女の質問に答えようとしたら、電車が駅に着いた。僕らは電車を降りて、ホームを歩くと改札を出た。夏休みに入ってから、一週間を過ぎたばかりだ。そのためもあるのだろうけど、僕らは改札を出るたび、目の前に広がる風景に驚かされた。
以前は、タクシー乗り場で客が来ないため、タクシーを降りて立ち話をするタクシー運転手の姿と、その向こうに、駅前商店街があるだけの風景だった。僕らの街の駅前と概ね同じだった。でも、今はその風景が一変していた。改札を出てまず正面に見えるのは、真新しい高級分譲マンションだった。地下の駐車場から、スポーツタイプのメルセデスベンツが出てきて、街の中に走り抜けて行くのが見えた。同じようなマンションが幾つか建っていて、その右手には、オフィスビルが建ち並ぶオフィス街があった。街路樹にはイチョウが植えられていた。また左手には、大きなショッピングモールがあり、その向こうには新興の住宅街が広がっていた。
「この街って、いつの間に、こんなに変わったんだろう?」
僕は江美香と並んでオフィス街を歩きながら、呟いた。
進学塾はオフィスビルの一階にあった。
「世の中に変わらないものなんてない。だから、変わらない街もないんじゃないかな」
江美香の答えは、僕の質問に対する答えではない気がした。
「僕も世の中に変わらないものはないと思うけど、江美香の言いたいのはどういうこと?」
「別に深い意味はないよ。それにしても、この街の変わり方は早いわね。僅か数年で、こんなに変わるなんて」
やはり、江美香は、僕の質問には答えなかったが、彼女の言う通りなのだ。この街は数年で全く変わったのだ。その理由は、この街が、以前から行政の提案していた街の再開発を受け入れたからなのだった。
江美香と僕は、ビルの一階にある進学塾で講義を受けていた。このビルは、オフィスビルというより、雑居ビルだった。二階には輸入家具専門の取扱店が入っていて、三階にはジャズダンス教室が入っていた。そこから上の階も統一性はなかった。僕らは、特別進学コースという一番難しいコースを選んだ。勉強のできる江美香にとっては、ちょうど良いレベルのコースだったが、平均より少し上なだけの僕には難しかった。江美香が選んだので安易に同じコースを選んだ僕の失敗だった。僕は地元の公立高校の普通科を目指している。今の学力を維持すれば合格できるから、夏期講習も標準進学コースを選べば良かったと思った。江美香の目標は、私立の進学高校だということは知っている。でも、その先の目標は知らない。将来の目標について、彼女が話すのを聞いたことがないからだ。だが、将来の目標がなくて、これだけ努力できるとは僕には思えない。江美香の成績は学年で常に一番なのである。漠然とした目標だけで、一番を維持することはできないと僕は思うのだ。ただ、彼女は意識的に自分のことを話さないようにしているので、それを無理に聞くこともできなかった。
そうやって江美香のことを考えていたら、江美香が目の前に立っていた。既に講義が終わっていたのだった。ビルを出ると僕らは塾の近くにあるコーヒーショップに向かった。四時過ぎのオフィス街は、ビルと道路からの夏日の照り返しが厳しかった。僅か電車で十五分の隣町なのに、僕らの街とこんなに違うのかと思った。そして、僅か数年でこんなに変わったのかと思った。
ビルの一階にあるコーヒーショップに入ると向かい合わせに座って、僕はアイスコーヒーを、彼女はアイスティーを飲んだ。店は意外に空いていた。窓際の席からオフィス街が見えた。新しいビルに、新しい街路樹と、何もかもが新しく清潔だった。ただ、全てが人工的で、人の匂いはしなかった。
僕は、ふとさっき電車の中で答えようして途切れた話を思い出した。父のことと店のことだ。そこで、江美香に話すと彼女も、
「そんなに急にお客さんが戻って来るなんて無理よ。それよりも、お父さんが立ち直ったことが何よりも良かったと思う」
と言ってくれた。
「僕もそう思う。ところで、幸崎さんの店は、どんな感じなんだろう? 相変わらず混んでるんだろうな。気になるんだけど、見るのが怖くて見に行ってないんだ」
「私は店から近いから、すぐに見えるけど、相変わらずね。店の前にお客さんが並んでいる。でも、アルバイトを雇わず、ずっと夫婦二人でやっているみたいなの。大丈夫なのかな? 倒れないか、心配になる」
「スタックスは、今は暇だけど、それでも、たまにランチタイムにお客さんが集中する時があると、バイトの学生さんがいないと回らないけどなあ。夫婦二人でやる主義なのかな?」
「分からないけど、小学生の男の子と女の子がいるでしょ? お父さんとお母さんが忙しいから、かまってもらえなくて寂しいみたい。いつも、うちのおばあちゃんが店先で遊んでやってる。おばあちゃんに、すっかりなついちゃったけど、いいのかなって思う」
僕は、甚田のばあさんが、子ども達を遊んでやっていると聞いて驚いたが、江美香にとっても優しい祖母だった。何故か、僕の家族だけを嫌っているのだった。
すると、江美香が思い出したように、
「そういえば、この前、おばあちゃんが、私に、骨董屋の安森さんの息子が、仕事にやる気を出したんだって? でも、人って本当に変われるものなのかねって言ってたわよ」
と言った。
その話を聞いて、改めて、江美香の祖母が敵視してきたのは、主として僕の父なのだと思った。怠惰な生活をしていると嫌ってきたのだろうか? それにしては、憎悪の量が多いがした。
僕はそのことを江美香に尋ねようと思ったが、知らないだろうと思った。そして、知っていたとしても、彼女に聞くべきことではないと思った。江美香の祖母に直接聞くか、商店街の大人に聞くべきことだと思った。そんなことを考えながら、何となく江美香のTシャツを見ていると、胸元に小さく、ジョン・レノンの丸眼鏡が描かれていることに気づいた。ずっと無地の白いTシャツだと思っていたので、
「ジョン・レノンTシャツだったんだ」
と僕は彼女に言った。
「おしゃれは、さりげなくね」
と彼女は笑った。
そこで、僕は改めて尋ねた。
「僕は覚えていないんだけど、小さい頃、僕の家の居間で、父さんが聴かせてくれたレコードで影響を受けたのは、『ラバーソウル』だった? それとも『サージェントペパーズ』だった?」
「ホワイトアルバム」
「じゃあ、アルバムの中で特に影響を受けた曲はある?」
「レボリューション」
「それで、江美香は、マッシュルームカットにしたの?」
「そう」
彼女の返事が短い時は、質問に対して警戒している時だ。僕は、それ以上は質問しないことにした。
代わりに僕は言った。
「ビートルズとローリングストーンズの違いって何だろうって前から思っていたんだけど、この前、父さんの持っている音楽雑誌を読んだら、少し分かったんだ」
すると、江美香は「どう違うの?」と小さな声で聞いた。
「ビリー・プレストンっていう両方のバンドでプレイしたことのあるピアニストが言ってたんだけど、ビートルズは後期に向かうに従って、バンドというより、個々のメンバーが自分の楽曲を演奏しにスタジオに集まるようになっていったんだって。それに対して、ローリングストーンズは、あくまでもロックンロールバンド。夜遅くにメンバーが集まって、最後にキース・リチャーズが来てレコーディングが始まる。夜中の十二時が集合時間で、キース・リチャーズはいつも遅刻して、夜明けの三時に来たって言ってた。それは誇張があるにしても、キース・リチャーズが遅刻するのは、やっぱり、作曲家としのプレッシャーなんじゃないかって僕は思う。世界的なヒット曲を作らなければならない。クオリティも落とせない。そんな重圧をふり払ってスタジオに現れるまでには、相当な時間がかかるように思うんだ。たとえ、バーで気分転換にお酒を飲んでいたとしても、気分は晴れないだろうなって」
と僕の想像も交えて彼女に話をした。
江美香は興味深げに言った。
「確かに、そうね。キース・リチャーズがお酒を飲んでいたとしても、その時には、お酒の味ってしない気がする。レコーディング前の緊張感の中、ただ胃に液体を流し込んでいるだけなんじゃないかな。本人は絶対、他人にはそんなことは明かさないだろうけど」
そこで、更に僕は続けて話をした。
「ビートルズの『サージェントペパーズ』は、トータル・コンセプト・アルバムっていう評価があるけど、実際は、さっきの話のように、バンドの形態から離れるに伴って音楽的にも収拾がつかなくなってきたのを、ポール・マッカトニーが苦肉の策でトータル・コンセプト・アルバムとして発表したっていう説がある。この説そのものには否定的な見解も多いけど、それぐらい個々のメンバーの音楽性が際立ってきたっていうことをよく示していると思う。ビートルズが凄まじい音楽的成長を遂げた結果、バンドとして維持していけないところにまで至ったっていうのは、宿命としか言いようがない気がする」
大部分が、父が持っている音楽雑誌の受け売りだった。感想は僕自身のものだった。僕は、こういう話は、普段はしない。単純に相手に通じないからだ。それと、嫌味に感じるからだ。でも、江美香には時々、話すことがある。彼女は、勉強家であり知的好奇心が強い。そして、彼女のようなタイプに見られる傾向は、あまり知られていない情報にこそ、より強い関心を示すということだ。と僕は考えている。音楽も好きだけれど、音楽が作り上げられるまでの背景にある希少な事実により強い関心を示す。それが彼女にとって現実に役に立つかどうかということは関係ないのだ。僕はこれを知識に対する蒐集癖のように感じる。僕の父のレコード蒐集が、聴くためだけでなく、蒐集そのものに喜びを感じることに似ている。江美香は知識の蒐集に、より満足を得るところがある。しかも、レアな情報、希少性の高い情報を得るほど彼女の満足度は高い。ここも、父のレコード蒐集に似ている。だから、普段から、少々機嫌が悪い時でも、こういう話をすると彼女の機嫌は直ると僕は考えていた。
でも、江美香は僕がこういう話をする意図に既に気づいていた。にっこりと笑った彼女の笑顔を見て、それが分かった。
「ビートルズのメンバーは、みんな、大人になってしまったのね。結成した時は、友だちだったのに、もうそれぞれの人生を歩まなければならなくなったんだと私は思う」
そして、次に、彼女が本当に話したかったことを話した。
「知ってから、知らなかったほうが良かったって思うことって、誰にでもあると思う。ただ、私は、こうも思う。知らなかったほうが良かったと思うことの中には、少なからず、真実がある。問題はそのことを知ってしまった自分がどう対応していくかが大切だと思う。でも、私は一人で長くそのことを抱えすぎて、少し疲れたのかもしれない。友弘君。レボリューションにまつわる私の話を聞いてくれるかな? そうすれば、何かが変わるかもしれないと思えるから」
本来、自分の中だけで楽しむべき知識を人に披露することは、迷惑であると僕は思っている。でも、それが、江美香の心の奥にある何かを変えることのきっかけになったのならば、僕はあえて自分の主義を曲げたことを良かったと思った。そして、父のレコード棚にある、これも膨大な量の音楽雑誌に感謝したのだった。
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