第二章(花屋の向かい)5

五.

食材倉庫の部屋のドアを開けると、突然、店の厨房が現れる。この時、僕は、いつも不思議な感覚に襲われる。食材倉庫として使っているけど、本来、この部屋は、居間と同じフローリングの部屋で、二間続きでリビングとして使える部屋なのである。でも、ドアを開けると、いきなり店の厨房が現れ、カウンターに座っている常連客の顔が見える。つまり、リビングと厨房が直結している不思議さを感じるのだ。それは、実際に、体験した人でないと分からないかもしれない。そして、この時も、その不思議な感覚に襲われながら、僕は、食材倉庫の部屋から厨房に出て、母と常連客に、

「プロとして素人の幸崎さんには負けられない。そして、このままでは、家族三人食べていけない。だから、やるしかない」

と先ほど、台所で父が僕に話した通りのことを話した。


常連客は喜んだ。

「了治さんも、ようやく、やる気になってくれたか」

と、カウンターにいた魚迅の大将も、イチハチ・デンキの店主も、和菓子屋の小竹さんも、岩太メガネの岩太さんも喜んだ。

でも母は、

「慎重にコントロールしないといけないわね。あの人、夢中になると時間も忘れるから」

と言った。

そして、母の言う通り、その日から、ちょうど十日間。父は、時間を忘れて台所で野菜を切り続けた。


キャベツが大きさからいって、父の左手の使い方の練習に最も適していたらしい。持ち応え、あるいは、持ち難さと言うべきか。とにかく、父は十日間、キャベツを切り続けた。傷んでいない部分は、夕飯にキャベツの千切りとして出された。十日間、山盛りのキャベツの千切りが台所のテーブルの上に置かれた。主に僕が食べることになり、僕は自分がウサギになった気がした。

最初は父が、せがみに野菜を分けてもらいに行っていたのだけれど、事情を知ったせがみのおかみさんが、毎朝、ダンボールいっぱいのキャベツを届けてくれた。

「了治さん。羽津恵さんと友弘君のために頑張ってね」

せがみのおかみさんは、毎朝、そう言ってダンボール箱を父に手渡した。

父は言葉が出なかった。


僕は父が探求心の強い人だということは知っていた。居間の壁一面にびっしりと並んでいるレコードを見れば分かる。父の自作の木製のレコード棚に収まったレコードは全部で五千枚あるのか六千枚あるのか。父に聞いても分からないと答えるほどの枚数のレコードを蒐集する人である。でも、今、キャベツを切り続けている父を見て、僕は、全く知らなかった父の一面を知った。それは、忍耐力の強い人だということだった。左指の二本が使えなくなり、失意の中、居間でレコードを聴いている父を、僕は決して怠惰な人だとは思わなかった。でも、寝転がってレコードを聴いている父を見て、忍耐力がある人だとも思えなかった。それが、台所でキャベツを切る父を見ていると、ずっと同じことを繰り返しているのだった。何回でも、同じ切り方を試し、何時間でも、台所のテーブルの前に立ち続けていた。父は、納得のいくまで延々と同じ動作を繰り返していた。例えば、キャベツに包丁をある角度から入れるとする。その際、キャベツを押さえる左手の場所を様々に変えて試すのだが、それが数パターンの場合もあれば、数十パターンの場合もあった。そして、父はこの試みを納得のいくまで繰り返した。それに、キャベツを千切りにする機械があるけれど、あの機械より速いと思われるスピードでキャベツを切ったかと思えば、急に動きを止め、今度は、緩慢とも思われるほどゆっくりとキャベツを切った。それはあたかも、アブストラクトなオブジェを制作する芸術家のようであった。でも、あくまでも切っているのはキャベツである。生まれるのは、オブジェではなく多量の千切りだった。そして、僕は夕飯にキャベツの千切りを食べ続けた。

そんな父を見ていて、時に、僕は不可解に感じたほどだった。けれど、僕はある時、気づいた。これが、父がプロのコックである証なのだと。父は趣味で料理を作っているのではなかった。父は仕事として料理を作っている。毎回、同じ味の料理が作れなければならない。気分次第で味が変わっていてはプロではない。ましてや、自分の腕に自信があり、プライドも高い料理人である父には、妥協はできないのだった。父に同情的な見方になってしまうが、妥協ができないから、料理を作るのをやめたのだとも言える。左手のハンディにより、100%の力を出せなくなった父は、料理を作るのを放棄せざるを得なかった。その父が、幸崎さんというライバルの登場により、再び料理人として復帰しようとしている。父は100%の復活を目指している。80%でも90%でもダメなのだ。その完全な復活を目指して、父は、キャベツを切り続けていた。たとえ、それが、僕の目から見て、抽象芸術を作り出すアーティストのように難解な動きに見えたとしても、父はプロの料理人としての復活をかけて模索しているのだった。そして、僕は母から言われた通り、夜の七時になると「父さん。今日は終わりだよ」と言って、作業の終了を告げた。母が言った通り、父は夢中になると時間を忘れた。僕が終了の時間を告げても作業を止めない時は、店に母を呼びに行った。

すると、母が台所まで来て、「過度な練習はかえって逆効果になる。一流のスポーツ選手は適度な練習量を守れる。あなたも一流のコックなのだから、分かるでしょ」と父に言った。

その言葉を聞いて、「そうだな。今日はここまでにしよう」とようやく父は包丁を置いた。

この時、華奢な母は、優秀なスポーツトレーナーのように見えた。そして、父は練習にのめり込みすぎる試合前のボクサーのように見えた。


そして、ついに十日目の夕方、僕がいつも不思議な感覚に襲われる食材倉庫の部屋のドアを開けて、父は厨房に出てきた。父はげっそりやつれて目だけが大きく見えた。でも、厨房に立つ父は台所にいた時の父とは違った。試合前のボクサーではなく、安堵の色が浮かぶ試合後のボクサーに見えた。

父は厨房に立って、十日間キャベツを切り続けて得た答えを述べようとした。その時、母は厨房にいた。カウンターには魚迅の大将、和菓子屋の小竹さん、岩太メガネの岩太さん、八峰の店主がいた。そして、僕は窓際の席にいた。ちょうど長原と商店街の見回りに行こうとしていたところだった。

皆、父の答えを待った。

父は言った。

「左手に負担のかからない技はないかと、左手の使い方と右手の包丁の使い方を研究しました。今日で、ちょうど十日目になりました。でも、特別な技は見つかりませんでした」

それを聞いた魚迅の大将が、

「無かったか。了治さんも、一生懸命やったんだけどなあ。でも、そうなると、幸崎さんの店には勝てないんじゃないのかい?」

と尋ねた。

「いや。魚迅さん。そうじゃないんです。特別な技はありませんでした。そして、特別な技なんていらないことを俺は見つけたんです。つまり、こういうことなんです」

と父は話した。

「あなた。何か分かったのね?」

落胆していた母の顔が輝いた。

常連客も僕も父を見た。

父は、厨房の奥のドアに向かった。そして、再び台所からダンボール箱を持って来た。今朝、せがみのおかみさんが持ってきてくれたキャベツがまだ二つ残っていた。父は二つのキャベツを取り出すと、調理台の上のまな板に乗せた。調理台は、厨房の真ん中にある。仕切り板があるが、上体を伸ばせばカウンター席から見える。

常連客は、カウンター席から、母と僕は厨房で父がキャベツを切る様子を見た。

父は二つのキャベツを続けて切った。緩急をつけて包丁で切る様は、僕が台所で見たように抽象芸術家のようだった。けれども、大事なのは、左手だった。僕らは父の左手に注目した。真っ直ぐなままの人差し指と中指は、これまでと違い、軽く反らしているだけなのが分かった。何故、分かったかというと、軽くしか反らしていないため、キャベツを切る包丁に触れるほど距離が近いからであった。あんまり近いので本当に指を切り落とすのではないかと、僕らは不安を感じた。だが、父は、全く気にせずキャベツを切る手を止めなかった。力まなくなったことで、余裕が生まれているのが分かった。逆に言えば、これまでは、左指を包丁で切らないようにと力み過ぎて、全ての動作がぎこちなくなっていたのだった。当然、左手もつるし、すぐに疲れて長時間の調理が出来なかった。それが今は、力みが無くなり、左指を包丁に触れるほど近づけられるようになった。そして、包丁に触れるほどの距離に左指を維持できるようになったのも、十日間の訓練の成果だった。それにより、左指の二本を反らす力が最小限で済むようになった。実際、全ての動作があまりにも自然なため、僕は、思わず、真っ直ぐな左指二本の存在を忘れてしまうほどだった。


父は、あっという間に、二つのキャベツを切り終えた。

キャベツを切り終えた父の姿を見て、カウンター席の皆も、そして、母も僕も、父が、この十日間で何を得たかを理解した。

具体的には、ハンディのある左手を使った上手な包丁さばきの体得だった。でも、父が本当に得たものは、自由なのだと僕らは思った。これまで、父は、左指を切ってはいけないという思いに捉われすぎて、かえって、上手く包丁が使えなかった。その捉われから解き放たれた今、父は包丁を自由に使えるようになった。それと同時に、長い間、何かに捉われ続けていた父の心も解き放たれた。父は自由になれたのだった。僕は、自由になれた父を見て、サチザキに勝つとか負けるとかそんなことはどうでもいいと思った。そして、誰よりもそのことを感じているのは僕の隣にいる母だった。

母は、父にこの日が訪れるのをずっと信じて待っていた。

僕は、この時、立ち直った父以上に隣にいる母を誇りに思ったのだった。




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