第二章(花屋の向かい)4

四.

僕は、居間でステイプルシンガーズを聴きながら、宿題をしていた。でも、音楽に集中してしまって、勉強が手につかなかった。レコードをアイザック・ヘイズに替えてみても、ジョニー・テイラーに替えてみても同じだった。だからといって、何も音のない部屋で勉強をするのも落ち着かなかった。僕は、ずっと店の窓際の席で宿題をしているうちに、常連客の世間話をBGMにする習慣がついていたのだった。でも、そのことはいい。そのうち、静かな部屋で勉強をするのにも慣れるだろうから。それより重要なことは、いつも居間で寝転がってレコードを聴いている父がいないことであった。父がいないから、僕はこの部屋で勉強ができている。では、父はどこにいるのか? 驚くべきことに父は厨房で料理を作っているのだった。だが、それが必ずしも喜ばしいことではないことが問題だった。


父が厨房に立ち、僕が居間で宿題をするようになったのは、スタックスの売り上げが急に落ちたからだった。そして、その原因は、『ハンバーグステーキ サチザキ』に客が流れたからだった。僕が、長原と江美香と一緒にサチザキにハンバーグを食べに行ってから、一カ月ほどが過ぎた。つまり、サチザキ開店から、二カ月ほどが過ぎたということだけど、その間、サチザキにハンバーグを食べに訪れる客の数は増える一方だった。そのことは商店街でも話題になっていたし、僕も知っていた。僕の場合、スタックスを訪れる客の数が目に見えて減っていることから、より切実にそのことを知った。一週間前のことだった。母は居間で寝転がっている父のところに行き、何も言わず、店の帳簿を見せた。父は急激な売り上げの減少を知った。そして、その日から、父は厨房に立つようになった。その日の夕方、帰宅した僕は、厨房に父がいるのを見て事情を理解した。そして、居間のローテーブルに座って宿題をするようになった。スタックスの危機に、呑気に店の窓際の席で宿題をしていてはいけないと思ったからだった。


六月の下旬になり梅雨に入っていた。居間で宿題をし始めてから数日して、僕は法被姿の長原と二人で、いつもと同じく、商店街の見回りをしていた。暗い雨空がアーケード商店街の入り口からも見え、アーケードを叩く雨音も聞こえた。商店街には灯がともされ、その光の中を、傘をささずに人々は歩いていた。雨の日に傘がいらない喜びは、アーケード商店街の住人の僕にとって特別なものだった。でも、その日の僕は、いつもとは違う特別な気持ちだった。

「友弘。そんなに落ち込むなよ。商売には、波があるからさ」

長原が、スタックスのことを心配して、そう言ってくれた。

「ありがとう。でも、そんなに落ち込んでいる訳じゃないんだよ。それより、今の状況のままのほうがいいんじゃないかって、ふと思うことがあるぐらいなんだ。それは、父が厨房で料理を作っている姿を見る時なんだ。考えてみると、幸崎さんの店に客が流れたお陰で、父が厨房で真面目に仕事をしているとも言える。母も、いつもより元気がある。だから、僕は心の中で幸崎さんに感謝しているぐらいなんだ」

僕の話を聞いた長原は、

「友弘。お前、偉いな。でも、内心、僕も思っているんだ。これが、お前のお父さんの立ち直るきっかけかもしれないって」

と言った。

僕は、長原に「ありがとう」と言った。今日、雨の降る中、アーケード商店街を歩く僕の特別な気持ちは、淡いけれど、希望だった。


それから僕らは、ジンダシューズの前を通った。店の中を覗くと、江美香はいなかった。机の上に参考書も問題集もなかった。すると、三軒隣りの履甚から、「こっちよ」という声がした。見ると、江美香が履甚から顔を出していた。僕らは履甚まで行って、彼女に何をしているのか尋ねた。

「おばあちゃんが、膝が痛いからって、整形外科の受診に行ってね。その間、店番をしているの」

僕らが、店の中を覗くと、履甚の奥にある机の上に彼女の参考書と問題集があった。

「江美香は二つの店の店番があるのか。大変だな。それと、店の中で勉強するの好きだな」

長原が言った。

すると、江美香が言った。

「私のことはいいから、幸崎さんの店にいってみなよ。驚くから」

と言った。

「驚く?」

僕らは、彼女に「驚くから」と言われて、すぐにサチザキに向かった。


しばらく歩くと、『ハンバーグステーキ サチザキ』の看板が見えてきた。すると、店の前に十人ぐらい人が並んでいた。そして、ちょうど五時になった。店の中から数絵さんが出てきた。掛札をひっくり返し、サチザキが、準備中から営業中になった。店の前に並んでいた客がいっせいに店の中に入って行った。

「友弘。サチザキの前に人が並んでいたよ」

「僕、生まれて初めて、ああいう光景を自分の目で見た」

思わず、そう呟いた僕らは、以降、お互い何も言わず見回りを終えた。ショックが大きくて何も言えなかったのだった。長原が米屋に帰った後、僕は一人で商店街を歩き、スタックスに戻った。スタックスは空いていた。この時間は、いつも空いているのだけれど、サチザキを見た後なので気になった。

『この状況のままでいいなんて、さっき長原に言ったけど、僕は楽天的すぎるのだろうか』と思いつつ、店に入り、その日の見回りを終えた。


数日後のことだった。父が、ランチタイムが終わると、住居部分の台所にこもっていた。僕が学校から帰ると、母もカウンターに座る常連客も、父についての話をしているのが分かった。でも、具体的に何の話をしているのか分からなかった。僕は、疑問に思いながら、習慣で窓際の席に座った。すると、アルバイト学生の竹野さんが僕の向かいに座った。竹野さんはアルバイトの中で一番の古株だった。しばらく、大学の勉強が忙しくて休んでいたが、最近、またアルバイトに入るようになった。

「ランチタイムが終わってから、店長が出かけたんだ。帰ってきたら、野菜のいっぱい入ったせがみのダンボール箱を抱えていたんだ。それで、そのまま自宅の台所に行ってしまったんだ」

竹野さんがそう言った。

「野菜の入ったダンボール箱を担いで?」

「そう。それから、みんなに、こう言ったんだ。ずっと怠けていたから、腕がなまっているんで、少し、包丁の使い方を練習しますって。野菜は、変色したキャベツとかだったから、売り物にならない野菜をせがみのおかみさんに分けてもらったんだと思う」

「そうなんだ。父さんが、自分から練習をするって言ったんですね。凄いことだ。でも、母もカウンターの人たちも何で嬉しそうじゃないんだろう?」

僕は、母と常連客のぽかんとした表情を見て思った。

「みんな、びっくりしているんだよ。だって、四季花に花を買いに行って来るって、出かけて、せがみのダンボール箱を担いで帰って来たんだから。友弘君。とにかく、お父さんのところへ直接行ってみればいい。百聞は一見にしかず。それに、お父さんに直接色々と話を聞いたらいいよ」

竹野さんに言われて僕もそう思った。

そして、僕は窓際の席を立つと厨房に向かった。それから、厨房の奥の住居部分と繋がるドアを開けて中に入った。その様子を母も常連客も、興味深げに見ていた。店舗の住居部分は縦に長い、所謂、うなぎの寝床式の建物だった。ドアを開けると食材倉庫の部屋があり、その奥に、居間があった。更に、その奥に、台所があり、僕の部屋があり、両親の寝室があった。一番奥にはトイレと洗面所と風呂があった。僕は食材倉庫の部屋を抜けて居間に入った。それから更に、奥の台所に入った。すると、父がテーブルの上にまな板を置いて包丁でキャベツを切っていた。竹野さんが言った通り、傷んで変色したキャベツだった。テーブルの上にはにんじんや、その他にも傷んだ野菜が置いてあった。父の足元には、青果店せがみのダンボール箱があった。


父は黙々とそれらの野菜を切っていた。ゆっくり切ったり、速く切ったりしていた。見ていると野菜を切ることよりも、何かを試しているようだった。僕は、しばらく様子を見ていて、父が何を試しているのかに気づいた。父はハンディのある左手を使って食材を上手く押さえる方法を探していたのだった。人差し指と中指が、真っ直ぐなままの状態の左手に、できるだけ無理な力がかからないようにするにはどうすればいいのか。食材を包丁で切る際には、必ず、人差し指と中指は、外側に反らさなければならない。そうしないと、包丁で指を切ってしまう危険がある。でも、長時間、二本の指を反らせていることは、指にも、手にも負担がかかる。父が調理を中断して、「手がつる」と左手を振っている姿を僕も見て知っている。そこで、父は、できるだけ負荷のかからない食材の持ち方、あるいは、食材の切り方を探しているのだった。

僕は小さい声で、

「父さん。何か分かった?」

と父に尋ねた。

父は答えた。

「まだ分からない。でも、やるしかない。サチザキの開店前に、商店街の人たちの前で、言ったのはきれいごとだ。あれは幸崎さんが、ここまでやると思っていなかったから言えたんだ。甘く見ていた。俺はプロだ。何があっても、素人の幸崎さんには負ける訳にはいかない。今、四季花に花を買いに行くついでに、幸崎さんの店を見てきた。客でいっぱいだった。店の前にも人が並んでいた。それを見て、俺は、負けられないと思った。それに、この売り上げでは家族三人食っていけない。だから、やるしかない」


父も、スタックスの建て直しのため、何かしなければと思っていたのだ。そして、今日、サチザキの繁盛ぶりを見て、とっさに思いついたのが、左手の使い方を見つけることだったのだ。このことが、すぐにサチザキに逃げた客をスタックスに奪い返すことに繋がるかどうかは分からない。でも、父は何かせずにはいられなかったのだ。僕は母から聞いたことがある。父は、本当はひどく負けず嫌いなのだ。ホテルに勤めている頃、同僚にも先輩にも常にライバル心を持って、料理に向かっていたそうである。そして、僕は母の話を思い出し、気づいたことがあった。それは、この商店街には、スタックス以外には洋食を食べさせる店がずっとなかったということであった。つまり、ライバル店がなかったのだ。そこにハンバーグステーキ専門店とはいえ洋食店が開店し、幸崎さんというライバルが現われた。そのことにより、負けず嫌いの父にやる気が出たのだ。それは、逆に言えば、父は左手の問題とは別に、ライバルのいないこの商店街に店を出して以降、平穏な日常に埋没していったということかもしれない。 そのために、母に大きな犠牲を強いて。僕は、父は母への罪滅ぼしのためにも、ここで立ち直らなければならないと思った。長原会長が商店街のために欲した幸崎さんの存在が、真っ先に僕の父を目覚めさせた。ひょっとしたら、長原会長は、そうなることを願っていたのかもしれない。会長は、いつも父のことを心配してくれている。僕は、サチザキを訪れた帰りに長原会長が言った「繁盛する店は、生きることにひたむきな人がやっている」という言葉を思い出した。父も、ひたむきに生きなければならない時が来たのだと思った。




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