第二章(花屋の向かい)3

三.

「私が三年生の秋の日曜日のことでした。父は、当時、老舗のレストランで働いていたのですが、私のために休みを取りました。私は驚きました。父は仕事しかない人で、日曜日は特にレストランが忙しいので、私のために休みを取ることなどありませんでした。この日、母は朝から外出していました。遠方にいる親戚が病気で入院したため、見舞いに行くと数日前から言っていました。父と私、二人きりの日曜日になりました。私は、少し疑問を感じましたが、いざ父に連れられて動物園に行くと、そんなことも忘れてしまいました。キリンが首を伸ばして私の顔を舐めようとしたり、子象が母親の象にじゃれついたりするのを見て私は無邪気に喜んでいました。そんな風に、夢中になっていると、あっという間に夕方近くになりました。父は私を連れて動物園を出ました」


「それから、家の近くのアーケード商店街に行きました。父は野菜や肉を買いました。私はまた驚きました。父は、一切、家では料理をしない人でした。また、無口な人でした。でも、この時、父は笑顔を見せ、私に話しかけました。私はやはり疑問に思いましたが、それ以上に、嬉しく思いました。そうやって、父と並んでアーケード商店街を歩いていると、夕暮れ時になりました。秋の空が赤く染まり、アーケードが夕焼けに照らされた時、父が『この夕焼けを忘れない』と呟きました。私も、『僕も忘れない』と元気に言いました。でも、父と私では、その意味するところが違ったのでした。帰宅して、父はすぐに台所に立って料理を始めました。『ハンバーグを作ってやるぞ』と言いました。借りていたマンションの台所は狭くて使いにくいものでした。でも、父は手早く料理を作りました。私は、この手際の良さが、父がプロの料理人であることの証だと、子ども心に感心しました。父が楕円形に形成した肉をフライパンで焼き始めました。台所から私が座って待つ居間までハンバーグの焼ける匂いが漂ってきました」


「居間の座卓で座って待つ私の前に、ハンバーグとみそ汁と茶碗に盛ったご飯が並びました。まさに家で食べるハンバーグでした。私は真っ先にハンバーグを食べました。父のハンバーグは家にあるウスターソースとケチャップで味つけしただけなのに、驚くほど美味しかったのです。そして、私の中に、そのハンバーグの味が、今も消えることなく残っています。私も母も、父が働くレストランには行ったことがなかったのです。理由は、真剣勝負をしている場所に、家族が訪れると大きなミスをするかもしれないから来るなということでした。これは、家では一切、料理をしないことと通じることでした。父はレストランの仕事の疲労から、家では何もできないのでした。父はあまりにも真面目な人でした。だから、私は、父の料理をその時、生まれて初めて食べました。私は父に、『こんなに美味しいハンバーグを食べたのは生まれて初めてだよ』と言いました。すると、父は、『そうか。良かった。広史。この味をこれからもずっと忘れずにいてくれよ』と笑顔で言いました。私は元気に、『忘れない』と答えました。夕食を食べてから、昼間、動物園に行った疲れが出たのか、私は知らない間に眠っていました。朝になり目が覚めると私は自分の部屋の布団で寝ていました。起きていくと、母が、『広史。お父さんは、こんなに朝早くから仕事に行ったの?』と私に聞きました。私は、『昨日の夜、そんなことは言ってなかったよ』と答えました。私は、そう答えながら、父と二人きりだった昨日の日曜日は、やはり意図的に父が作り出したものだったのではないか? その疑問が再び頭に浮かびました。同時に、母も、『あの人。昨日の朝になって突然、広史のために休みを取るって言ったけど……』と不自然な父の行動に疑問が湧きました。そして、父が働くレストランに電話をしましたが、まだ、誰も出勤していませんでした。その後、時間をおいて、再びレストランに電話をすると、『幸崎さん。いつも一番早く出勤するのに、今日は、まだ来てないですよ。変ですね』と店員が言いました。それから、時間を追うごとに事態が深刻であることが明らかになりました。警察に行きました。そして、父は失踪したことが明らかになりました。父は母と私の前から姿を消しました。理由は、おそらく全てに疲れていたのでしょう」


「以来、二十数年、父の行方は分からなくなりました。母と私は母の実家に身を寄せました。そして、母が一生懸命に働き、伯父の援助もあり、私は大学まで進学し、証券会社に入ることができました。でも、いつも、父のことが頭にありました。消えた父はどこかで生きている。そして、どこかの街のレストランでハンバーグを焼いていると思っていました。それが、昨年の三月、父が知らない街のアパートの一室で孤独死のような形で死んでいたことを知り、私は、愕然としました。そして、その時からです。証券会社での仕事を終えて帰宅すると、毎晩、父のハンバーグを再現するために、自分でハンバーグを作り始めました。でも、父の味は再現できませんでした。そこで、私はこう思いました。昼間、証券会社で働いて、夜の僅かな時間をハンバーグ作りに充てているだけで、プロのコックの父の味が再現できるはずがない。再現するためには、私も、ハンバーグ作りを本業にしなければならない。だから、私は、会社を辞めて、ハンバーグステーキ専門店を開業する決意をしました」


僕は、その話を聞いて、幸崎さんの決意を悲愴なものと感じることしかできなかった。それと、父のハンバーグの味を再現することは、幸崎さんの心の喪失感を埋めるための、個人的な作業であり、現実に商売にするには、独りよがりな気がした。何よりも、妻の数絵さんと二人の子どもをそこに巻き込んでいいものだったのかと、僕は思い切って、そのことを数絵さんに聞いた。

「中学生の僕が聞くのは生意気ですが、数絵さんは、それで良かったんですか? 僕は喫茶店を経営する家に生まれた自営業者の息子だから分かるのですが、生活はとても不安定です。大きな会社を辞めて僕の家と同じ飲食店を始めた幸崎さんに、僕は応援する気持ちと同じぐらい、今、不安を感じています」

その問いには、長原も、江美香も深く頷いた。長原天も、頷かざるを得なかった。

数絵さんはしばらく考えてから答えた。

「私も本当に悩みました。アーケード商店街からお義父さんと二人で見た夕焼けの話と、お義父さんがハンバーグを作ってくれた話を、私も夫から聞いて知っていました。だから、お義父さんが亡くなってから、夫がどれだけ落ち込んでいるかも、よく分かりました。でも、ハンバーグステーキ店をやりたいと打ち明けられた時は、迷いました。何よりも子ども達の将来を考えました。プロの料理人の安森さんのお店でさえ不安定だということです。当然、全くの素人の夫が飲食店をやるなんて、とても無理だと思いました。ただ、私は、結婚する前から、広史さんが、お義父さんのことで悩んでいる姿をずっと見てきました。そして、突然の義父の死によって、この人が、どう生きていいのか分からなくなったと茫然とする姿を見た時、この人は生涯、蒸発した義父の影に振り回されなければならないのかと可哀そうになりました。そこで、私は、子ども達のことは何とかなる、それより、広史さんが、幸せになれるために一緒にお店をやろうと決心しました」


数絵さんの話を隣で、じっと聞いていた幸崎さんが言った。

「妻には感謝しています。だからこそ、妻のためにも子ども達のためにも、私は、この店を成功させなければならないと思っています。それから、この大夢町アーケード商店街でしか店ができないと思った理由ですが、この商店街を初めて歩いたあの日、いつも妻に話していた、父のハンバーグの思い出と、父と二人で夕焼けを見たアーケード商店街の思い出が、私の中で一つの思い出になっていることに気づいたからです。欠けていた大事な要素とは、アーケード商店街だったのです」


僕らは、幸崎さんと数絵さんの話を聞き、何も言えなかった。誰もが、幸崎さんの家族を応援するしかないと思った。現実に、もう開店してしまった今、応援する以外なかった。そして、大夢町アーケード商店街は、幸崎さんとお父さんとの思い出のアーケード商店街そのものだったのだと知った。それから、初めて幸崎さんの話を聞いた時、長原会長が思わず、幸崎さんのハンバーグの試食もしないで、契約をしようとした気持ちが僕らにも分かった。それは、アーケード商店街に住む人間にしか分からない思いだと僕は思った。長原会長は、幸崎さんの話の内容そのものにだけ心を惹かれたのではなかったのだ。つまり、こういうことだと思った。アーケード商店街で人生を終える大人の大半は、追憶の日々を生きているように僕は感じてしまう。時代の流れの中で消えつつある商店街に生きる全ての人の宿命なのかもしれない。そこに訪れた幸崎さんに、長原会長が、商店街の希望を見てしまったとしても仕方がなかった。幸崎さん自身の希望と商店街の希望は違う。父のハンバーグの再現と商店街の再生は違うということだ。でも、幸崎さんにはドラマがある。不安も含めて情熱がある。長原会長は、幸崎さんの情熱を商店街に欲したのだった。


僕らも長原会長も席を立ち、『ハンバーグステーキ サチザキ』を出た。これから夜の仕込みが始まる。邪魔をしないよう店を出た。代金を払おうと思ったら、長原会長が支払ってくれた。

そして、長原会長は言った。

「君たちは、繁盛する店の秘訣を知っているかな? 教えよう。繫盛する店は、必ず、生きることにひたむきな人がやっている。だから、この店も大丈夫」

長原会長は、そう言って、表通りに消えた。


商店街を三人で帰った。

「ひたむきさっていうより必死さ。あるいは、悲愴感とか」

江美香が呟いた。

僕と同じことを考えていると思った。

すると、長原が言った。

「幸崎さんに大いなる幸あれ」

僕は思わず、江美香を見た。

「何それ?」

とは江美香も言わなかった。黙って頷いた。

僕も、長原と同じように願った。

時刻は三時半だった。わくわくしながら店に入ったのが、一時半だった。あれから、まだ二時間しか経っていなかった。僕らは驚いた。それでも、商店街を見ると、夕方の買い物客の姿が、ちらほらだが、もう現れていた。僕らは、いつもの商店街の風景を見てほっとした。そして、その風景の中に戻って行った。





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