第二章(花屋の向かい)2
二.
長原の祖父は、長原天というスケールの大きい名前の人だった。その名に相応しく、実際に、なかなか大きい人物だった。僕の祖父と同年代だが、対照的な気がした。僕の祖父は、この街の人間だが、不動産業を営んでいる影響なのか、物事の変化に敏感であり、執着心がない。具体的には、古い街並みが消えていくことに対して、時の流れの中でやむを得ないことだと割り切っている。生まれつきの性格もあるだろうが、そういうことに対して感傷的にはならない人だった。それに対して、長原の祖父は、大夢町アーケード商店街を一身に背負ったような人だった。消えゆくものへの過度な感傷と、時の流れへの抗いが、長原の祖父そのものだった。いつも時代おくれの背広を着ているのも、意識的なことだと僕は思っていた。
長原の祖父は、店に入って来ると空いている僕の隣に座った。孫の長原の正面である。長原の祖父は真っ白な髪をきれいに櫛でなでつけていた。遠くから歩いて来ても、その白髪を見れば、長原の祖父だとすぐに分かった。背も高く、何事につけ目立つ人だった。
長原の祖父は、幸崎夫妻に、
「もう準備中の看板を出してもいい時間ではないですか?」
と言った。
みんなが、店の時計を見ると、二時を過ぎていた。数絵さんが入り口に向かい、引き戸を開けて掛札を裏返して準備中にした。幸崎さんは、僕らの食器を片づけた。そして、幸崎夫妻も、僕らの隣のテーブルに並んで座った。
それから、長原の祖父は、
「君たちが美味しいハンバーグステーキを食べたところで、幸崎さんに少し話をしてもらいましょう。それは、三月に入ってすぐに、幸崎さんが初めてこの商店街を訪れた時に、私にしてくれた話です。商店主の皆が、私の独断で幸崎さんに店舗を貸すと決めたと言っていることは私も知っています。確かに、私の一存で決めたことは事実です。でも、独断とかそんなことじゃない。これは運命的な出会いだったんだ。そのことを君たちに知って欲しいのです」
と僕らに言った。
その言葉を聞いた僕らは、長原天が、また大袈裟なことを言っていると思った。長原天は、何事につけスケールの大きいことを好む傾向にあるからだった。
でも、幸崎さんは、
「初めて、この商店街を訪れた日、長原会長が私の話を聞いた後、私の作るハンバーグの試食もしないまま契約しようとしました。それだけ、私の話に共感してくださったのですが、内心驚きました。則政さんに言われて、ようやく会長も気づきました。それで、お二人に試食をしてもらいました。それから改めて契約をしました。則勝さんは、学校に行っている時間だったから、会えませんでしたが、急遽、長原米穀店の台所をお借りして作ったんです。でも、私も、長原さんの台所でハンバーグを作りながら、この商店街しかないと決めていました」
と言った。
その話を聞いた長原が、「運命的な出会い?」と呟いた。
幸崎さんは更に話を続けた。
「私は、この商店街を訪れてすぐに、私のハンバーグステーキ店は、この大夢町アーケード商店街でしかできない、そう思ったんです。私は三月いっぱいで証券会社を退職することが決まっていたんですが、店舗が決まりませんでした。何十軒も見ました。良い物件もありました。それでも、どうしても、違う気がして決められませんでした。決定的な何かが欠けている気がしたんです」
「二月も下旬に入って、私は焦りました。これまで、不動産会社を頼りに物件を探していましたが、それでは見つからないと思って、知り合いに片っ端から電話をしました。後一カ月で会社を辞めて店を出すつもりだが、肝心の店舗が見つからない。だから、ハンバーグステーキの店をやるのに適当な物件を知らないか? それと、そういう物件を知っている人を探してくれないか? こう頼みました。すると、三月に入る直前に、電話で頼んだ一人から連絡がありました。大学の同級生でした。その男が、電話でこう言いました」
「幸崎。俺の故郷に、大夢町アーケード商店街っていう古い商店街があって、そこの表通りの入り口のところに空き店舗があるんだ。ずっと老舗の有名そば屋が入ってたんだけど、店主が高齢で亡くなって廃業したそうなんだ。この前、実家に電話をしたら、兄貴が出て、そう言ってた。俺も、故郷に住んでいた頃、よく食べに行ってたから知っているけど、良い場所だよ。ただ、お前の知らない土地だから、無理かな。奥さんと子どもさんもいるからなあ」
「その同級生の言う通り、普通なら、私は断っている話でした。私は、この街のことを知らないどころか、これまでに一度も、この地方に訪れたことがなかったからです。私の生まれ故郷ともあまりにも離れていて、全く接点がありませんでした。家族のこともそうですが、商売をやっていく上で全く知らない土地というのは、かなり不利なのではないかと、普通なら、私は、そう考えるはずでした。でも、その時の私は、普通とは違いました。同級生の話を聞いてすぐ、『どうすればその商店街の店舗を見せてもらえるだろう?』と彼に尋ねました」
幸崎さんの同級生が、この街の人だと聞いて、僕らは、知り合いだろうかと思い、長原が、念のため、その人のことを尋ねたが知らない人だった。
次に江美香が、
「私、父が幸崎さんを会長に紹介した時からしか、今回のことを知らなかったので、幸崎さんがそんな遠方から来たなんて知りませんでした。幸崎さんを父に紹介したのは幸崎さんの同級生のお兄さんだと思うんですが、その方は父の友人ですか?」
と尋ねた。
「同級生のお兄さんは、小学校の教師で、上履きとか運動靴の購入のことで、年に一、二回だけど、あなたのお父さんに会うことがあるそうです。仕事関係の人ですね」
その話を聞いて、僕は、人は不思議なところで繋がっているものだと思ったけれど、江美香に至っては、その教師のことを聞いて、僅かだが面識があることを思い出した。だから、僕以上に、人の繋がりの不思議さに驚いていた。
そして、三月初めの晴れた日に、幸崎さんは長く電車に揺られ、この街を初めて訪れた。幸崎さんの同級生の兄から連絡を受けていた江美香の父が、駅前まで車で迎えに来ていた。実直な江美香の父に好感を持った幸崎さんは、まだ見ぬ店舗に対しても期待をした。車はすぐに商店街に着いた。裏通りにある駐車場に車を停めて、二人は表通りの入り口の空き店舗に向かって歩いた。商店街を裏通りから表通りに向かって、謂わば、逆方向に歩いた。
スタックスの前を通り、長原米穀店の前を通り、それから、ジンダシューズ、履甚の前も通って、表通りの入り口の空き店舗の前まで来た。幸崎さんは振り返って、今、歩いてきた商店街を見た。そして、その時、何故、自分が何十軒回っても、店舗が見つからなかったのかについて気づいた。
「私がハンバーグステーキ専門店をやろうと思ったきっかけは、父の死です。昨年の三月のことでした。父は、私の知らない街のアパートの一室で、肺炎をこじらせて死んでいるのを管理人に発見されました。父は私が小学三年生の時、蒸発しました。私の父は安森さんのお父さんと同じコックでした。安森さんのように一流のホテルに勤めた経験はありませんでしたが、腕のいいコックでした。父は蒸発する前の日に私のために、ハンバーグを作ってくれました。父が、私のために残してくれた最後の思い出でした。私は父がいなくなってからも、心の中で、父は必ず、帰って来てくれる。そして、あのハンバーグをもう一度、私のために作ってくれると信じていました。大人になってからも、ずっとそう信じてきました。でも、昨年の三月に、父は知らない街で、一人で死んでいました。私は絶望しました。その絶望の中、私はこう考えるようになりました。私は自分の手で、父の作ってくれたハンバーグを作ろうと思いました。父の作ってくれたハンバーグを私の手で再現できた時、父が蒸発して以降の長い歳月を埋めることができるのではないかと思ったからです。父が死んでから、私は、父に再会できると信じてきた、心の支えを失いました。でも、父との失われた長い歳月を埋められたなら、私はもう一度、生きることが信じられるようになるのではないかと思ったのです」
僕は話を聞いて、亡くなったお父さんのハンバーグの再現に、今後の自分の人生をかける幸崎さんの考えは正直なところ理解できなかった。でも、お父さんが蒸発した幸崎さんの心の傷の深さも、僕には理解できなかった。だから、そのことについて、僕は何も言えなかった。それから、何故、ハンバーグステーキの店をやるのが、このアーケード商店街でなければならなかったのかという疑問が強く湧いた。僕は、幸崎さんの話の続きを待つことにした。
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