第二章(花屋の向かい)

一.

開店からちょうど一カ月が過ぎた五月下旬、日曜日の昼下がりのことだった。長原と江美香と僕は、『ハンバーグステーキ サチザキ』の向かいにある花屋『四季花』の前にいた。爽やかな風が、店先にあるカーネーションの花びらを小さく揺らしていた。僕らは、少し離れたところから、サチザキの様子を見ていた。江美香はマッシュルームカットにオレンジと白のボーダーのTシャツを着ていた。僕はチェックの半袖シャツ、長原は紺のTシャツを着ていた。今日は、法被は着ていなかった。


開店以来、サチザキは繁盛していた。昼も夜も、店は混んでいた。商店街の住人は、多くの不安を抱えたまま開店したサチザキのことを案じていた。もしかしたら、開店後、一人の客も訪れない状態が続くのではないかとまで考えるものもいた。それだけに、今の状況にほっとしていた。それと同時に、皆、こんな疑問を抱いた。素人同然の幸崎さんが作ったハンバーグが、一カ月もの間、店を混雑させるほど旨いのかという疑問であった。僕たち三人も、同じ疑問を抱いていた。そして、それを確かめるべく、サチザキに来たのであった。要するに、ハンバーグステーキを食べに来たのだ。商店街の住人は、まだ誰もサチザキのハンバーグを食べていない。理由は、開店以来、毎日忙しい店に商店街の人間が入ると、幸崎夫妻に気を使わせてしまい、商売の邪魔をしてしまうと考えたからであった。そのため、皆、遠慮しているのだった。でも、僕ら三人は、中学生だった。中学生の僕らが、店に入っても、幸崎さんも数絵さんも、大人ほどには気を使わないだろう。という、かなり安易な考えに基づいて僕らは、これから店に入る。時刻は、一時半だった。この時間になると、さすがに店も空いているのが分かった。二時に休憩のため店は準備中になる。それまで三十分ある。それだけあれば十分だ。「では行こう」という長原のかけ声とともに僕らは、四季花を離れサチザキに向かった。


店に入ると、まず真っ白な壁が目に入り、次に改装中に見たコンクリートの上に薄緑の床が敷かれていることに気づいた。清潔感のある配色だった。店の左手に厨房があり、その前にカウンター席が並び、四人掛けのテーブルが八つ置かれていた。これは彦次郎そばの時と全く同じで、うちの店ともほぼ同じだった。うちの店はカウンター席が、この店より一つだけ多くて六つだった。入り口側の壁には大きな窓ガラスが埋め込まれていた。八つのテーブルのうち二つが、窓際に置かれていた。商店街の店舗の広さは、長原の米屋以外は同じだった。だから、特に飲食店の場合、店内の作りが自ずと同じようになるのだった。店に客はいなかった。

「いらっしゃいませ」と幸崎さん夫妻が僕らを見ると、すぐに誰だか気づいた。

「あの日はどうも、お騒がせしました。商店街の皆さんにご心配をおかけしました」

そう言って、幸崎さんと数絵さんが頭を下げた。

あの日とは、勿論、改装中のこの店に集まった商店主が、開店直前の幸崎さんへの不安を散々述べた日のことだった。そこに僕らもいたのだ。忘れられなくて当然だと僕は申し訳なく思った。

「幸崎さん。こちらこそ何とお詫びを申し上げれば……」

と長原が幸崎さんに頭を下げた。それから、幾つか会話を交わし、僕と江美香に代わって大人の挨拶を済ませてくれた。長原は、こういう時に、有り難い存在だった。


そして、僕らはハンバーグステーキを食べるため、テーブルについた。ちょうど店の真ん中にある厨房に近いテーブルだった。江美香と長原が並んで座った。僕は店の入り口を背にして江美香の向かいに座った。

幸崎さんと数絵さんが、改めて「いらっしゃいませ」と言ってメニューを僕らに渡した。二人とも白いTシャツに真っ赤なエプロンを掛けていた。

渡されたメニューは、厚手の紙が一枚だけだった。僕らはメニューを見て、その理由が分かった。メニューは「ハンバーグステーキ」一つしかなかった。その下に、ライス、ガーリックライス、パン、それから、サラダと飲み物が載っているだけだった。

僕は、ハンバーグステーキとライス、長原も僕と同じハンバーグステーキとライス、江美香はハンバーグステーキとパンを選んだ。丸いパンが二つお皿の上にある写真がメニューに載っていた。サラダと飲み物は注文しなかった。

そして、数絵さんに注文すると、「はい。かしこまりました」と手書きで伝票に注文を書いて、笑顔で頭を下げると、すぐに幸崎さんのいる厨房に伝票を持って行った。すると、幸崎さんが、「ハンバーグステーキ3ライス2パン1了解しました」と注文を読み上げ、調理にかかった。


僕は料理人の息子だけに、幸崎さんの料理の腕前が、他の二人より気になった。だから、厨房の幸崎さんの調理をするところを見たかったのだが、残念ながら、カウンター席と厨房の間にある仕切りが妨げになって見ることはできなかった。それでも、幸崎さんが業務用冷蔵庫から形成済みのハンバーグが載ったバットを取り出し、三個分を調理台に置くところは見えた。上手く形作られたハンバーグだということが分かった。その後、すぐにフライパンでハンバーグを焼き始めたけれど、これも仕切りが妨げになって見えなかった。それでも、フライパンを振る動作は、なかなか様になっていて、素人同然と僕らが考えていたのとは違った。サラリーマン時代から料理が好きで、よく作っていたのではないかと僕らは考えを改めた。ジュジューッという肉の焼ける音がして、いい匂いが、店内を満たした。家で昼ご飯を食べずに店に来た僕らには、その匂いはたまらないものだった。


そして、数絵さんが、手早く出来上がったハンバーグステーキをテーブルに運んだ。それから、僕と長原には、真っ白な皿にサービスで多めに盛られたライスが、江美香には、皿に載った二つのパンが運ばれた。僕らはナイフとフォークでハンバーグを切った。肉汁があふれ出た。僕ら三人は「いただきます」と慌て気味にハンバーグを食べ始めた。ハンバーグは、家庭で作るのと同じウスターソースとケチャップをかけただけの驚くほどシンプルなハンバーグだったけど、とても美味しかった。スタックスでは父の作る特製のデミグラスソースをかけている。僕らは、ハンバーグを食べながら、脱サラ、料理の腕前が分からないという情報だけで、幸崎さんは素人同然という予断を持っていたことをもう一度、反省した。

お腹が空いていたこともあって、僕らはあっという間に、ハンバーグを食べた。ライスもパンも残さず食べた。

しばらくして、僕らが満たされた気分でいるテーブルに、幸崎さんと数絵さんが来て、

「お味はいかがでしたか?」

と幸崎さんが尋ねた。

「美味しかったです。これで、このお店が開店以来、繁盛している理由が分かりました。彦次郎そばを継ぐ大夢町アーケード商店街の顔の誕生です」

長原が言った。

江美香は、

「私も、美味しかったです。ところで、素朴な疑問なんですが、ハンバーグとハンバーグステーキの違いって何ですか?」

と聞いた。

「鉄板に載せずに、お皿に載せて、にんじんとじゃがいものソテーを添えているから。それで、ハンバーグステーキです」

「えっ? 初めて聞きました。そういう定義が料理の世界にはあるんですか?」

「いやあ。僕が勝手に決めただけなんだ。ハンバーグよりハンバーグステーキのほうが、店名にするのに響きがいいかなって思って。それでハンバーグじゃなくて、ハンバーグステーキにしただけなんだ」

と言って、幸崎さんは恥ずかしそうに笑った。

数絵さんも、

「こんな風に、私たち料理の専門家じゃないから、お店を始める時に本当に不安だったんです。今も、不安です。でも、とにかく一カ月、無事にやれました。商店街の皆さんのお陰です」

と言った。目が少し赤くなっていた。

それから、幸崎さんが僕に、

「一流ホテルで働いていたプロの料理人の安森さんの息子さんが食べてみて、私のハンバーグステーキはどうでしたか? 率直に言ってください。ダメならダメと言ってください。そこを改善します」

と言った。

「お世辞でも何でもなく美味しかったです。シンプルな味つけなのに、こんなに美味しいなんて驚きです」

と僕は幸崎さんの真剣な目に応えるべく正直な感想を言った。

僕のその様子を見て、幸崎さんも数絵さんもほっとした。

「じゃあ。お父さんのハンバーグと幸崎さんのハンバーグ、どっちが美味しい?」

長原が聞いてきた。意地悪な質問だった。

僕は、どう答えていいか分からなかった。

すると、江美香が表情も変えず僕に言った。

「友弘君。こういう質問には、どちらも美味し過ぎて、僕には優劣を決めるなんてできませんって答えるの。これが優等生の答えよ」

それを聞いて、僕も、長原も、幸崎夫妻も笑った。


そして、みんなが笑っていると、入り口の引き戸が開いて、

「楽しそうな笑い声がする。今日も、店が上手くいっている何よりの証拠だ」

という声がした。

僕が振り返ると、入り口のところに大夢町アーケード商店街会長である長原の祖父が立っていた。

「おじいちゃん」と長原が言うと、祖父は、

「みんな、幸崎さんの店が商店街に入る時、反対しただろう。でも、私の目は間違っていなかった。則勝。今、このお店のハンバーグを食べて、そう思っただろ?」

と言って、嬉しそうに笑った。

その笑顔を見ながら、長原も江美香も僕も、確かに、長原の祖父の言う通りだと思った。江美香の祖母は、この前、長原の祖父を「深情け」と批判した。確かに、それが当てはまる失敗も過去にはあった。でも、今回のことに関しては、長原の祖父の目が確かだったと、僕は幸崎さんのハンバーグを実際に食べた後だからこそ思わざるを得なかった。




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