第一章(傘はいらない)4
四.
江美香の自宅でもある『ジンダシューズ』は、子どもの運動靴や上履き、それに、それほど高価でないスニーカーなどが置いてある庶民的な店だった。ジンダシューズは、江美香の父がやっている。江美香の父は、甚田のばあさんの次男だ。長男がいるらしいのだが、僕はその人に会ったことがない。商店街の住人も、その長男のことを話題にしない。だから、聞いてはいけない感じがして、僕は、誰にも聞いたことがない。江美香には兄がいるが、都会の大学に進学している。この商店街には帰って来るつもりはないようだ。江美香も、いずれ遠くの大学に進学するつもりだから、ジンダシューズは跡取りがいないため彼女の父の代で終わりになる。少なくとも、今のところ、そうなる以外ない。元々は和服を着る人が減り、履物屋の商売が先細りになってきたために、履甚の三軒隣の空き店舗を借りて、運動靴を扱うジンダシューズを始めた。でも、結局、後継者がいないということで、ジンダシューズも廃業することになると、これまでの努力が水の泡と消えてしまう気がする。それは僕だけでなく、商店街の誰もが感じていることで、同時に、大夢町アーケード商店街のこれからを予感させることだった。
僕らは、彦次郎そばが入っていた空き店舗を離れ、ジンダシューズに向かっていた。
「もう六時か。江美香の家も忙しいだろうから、明日、学校で話さないか?」
「商店街での情報共有が上手くいっていない話だぜ。人の多い学校では話せないよ。大夢町アーケード商店街の信用に関わる。それに、江美香も、友弘と一緒で店の机で勉強してるから、別に家の人の迷惑にはならないよ」
「まあ、そうだな」
江美香は、何故か、僕と同じで、いつも店の机で勉強していた。僕は喫茶店のテーブル、江美香は事務机だったけど、やっていることは同じだった。
ちなみに、店の位置関係は、商店街の真ん中に長原の米屋があって、その手前に、ジンダシューズと履甚があった。うちの喫茶店は、長原の米屋の奥にあった。米屋からの距離は、ジンダシューズもスタックスもちょうど同じぐらいだった。でも、喫茶店は裏通りに近い側だったので、立地条件としては、一番良くなかった。しかし、後から商店街に入ってきたのだから仕方がなかった。
ジンダシューズにはすぐに着いた。店の入り口近くに、ノーブランドのスニーカーが積んであった。ワゴンセールだった。悪くないデザインだったので、一足手に取ってみるとサイズが大きすぎた。他のを見ると小さすぎた。ちょうどいいサイズだけ、もう売れて無かった。ワゴンセールらしい現象だと僕は思った。長原は、そんなことを考えている僕には気づかず、引き戸を引いて中に入った。僕も後から中に入った。店内には、上履きと運動靴の入った箱が積み重ねられていた。この店は、地元の公立小中学校が指定した上履きと体育の授業で使う運動靴の取り扱い専門店に選ばれていた。専門店に選ばれることは安定した売り上げと収入が得られることを意味し、ジンダシューズの強みだった。他に専門店は街に数店しかなかった。店内には、積み重ねられた新品の上履きの匂いがした。僕は学校にいるような気がした。
江美香が奥の机で勉強していた。店番も兼ねているようで、
「いらっしゃいませ」
とこっちを見た。そして、
「友弘君と長原君か。長原君。また法被着て見回りしてるの? 恥ずかしいから、もうやめなよ。友弘君も何で一緒に見回りしてるのよ? だいたい、見回りって言っても、商店街をただ見て歩いているだけじゃない」
江美香は、はっきりものを言う。しかも、的確な指摘が多いから、反論できないことがほとんどだった。
だから、僕ら二人は、黙って立っているしかなかった。
彼女は、服装はいつも僕らと同じような格好をしていた。特におしゃれはしていなかった。この日も、グリーンのパーカーにジーンズ姿だった。特徴的なのは、江美香は、子どもの頃から、ずっとマッシュルームカットであることだった。理由を聞くと、僕の父がきっかけだと言った。彼女と長原と僕の三人で、幼い頃、僕の家の居間にいて、父が僕たちのために、ビートルズのアルバムを何枚かかけてくれたということだった。『ラバーソウル』や『サージェントペパーズ』だったらしい。その時に、ビートルズの音楽の革新性に衝撃を受けて、以来、ずっとマッシュルームカットにしていると彼女は言った。ただ、僕にはそんな記憶はなかった。でも、三人に父がレコードを聴かせてくれたことは、確かにあった。だから、本当かもしれなかった。だが、江美香は頭がいい分、真偽の分からない嘘をついたり、冗談を言ったりすることがあるから、何とも言えなかった。
江美香はぼんやり立っている僕らの様子を見ながら言った。
「二人が、見回り中に、わざわざ、私のところに来た理由は一つ。彦次郎そばの後に誰があの店舗を借りるか知りたいからでしょ?」
「父さんに聞いても、教えてくれないんだ。じいさんは、最近、外出ばかりで話をする時間もない。多分、新しい店の受け入れ準備をしているんだと思う。それで、さっき、ようやく肉辰のおかみさんが教えてくれて知ったんだ。ハンバーグステーキの店が入るって。それから、もっと詳しいことが知りたかったら、甚田のお孫さんに聞けば分かるって言われてさ」
長原がそう言った。
それを聞いて、江美香は、僕らのために丸椅子を二つ用意してくれた。
僕らは彼女が勉強している机のところに行って座った。
彼女は数学の参考書と問題集を閉じた。そして、僕らにこう言った。
「長原君の曾祖父さんが決めたルールから大きく外れた人があの店舗を借りるのよ。二人が、肉辰のおかみさんから、教えてもらったように、ハンバーグステーキ専門店が入る。でも、そのお店をやる人は、脱サラをした男の人で、商売の経験もない、料理の腕前も分からない、ついこの前まで、大きな証券会社で働いていた人なんだって」
それを聞いた長原が、思わず大きな声を出した。
「ルールを大きく外れたなんてもんじゃないよ。その話、本当なのかなあ? 江美香は、どこから、そんな詳細な情報を入手したんだ?」
「うちのお父さんが知り合いから頼まれて、その人のことを商店街の会長、つまり、長原君のおじいさんのところに相談に行ったのが始まりなのよ。だから、私もお父さんから聞いて知ってるの」
「だとすると、本当の話だな。でも、僕が父さんに聞いても、教えてくれないことをあんまり喋るのは良くないよ。秘密にする理由があるのかもしれないから」
長原が江美香に言った。長原の父は、大夢町アーケード商店街自治会で書記をしていた。
「だって、みんな知ってることなのよ。それに、もうすぐお店を始めるのよ。それまでに、新しく入る人のことをみんなで話し合ったほうが、迎え入れるための心の準備もできるじゃない。それに何か手伝えることもあるかもしれないし」
江美香の話を聞いて、長原はすぐ自説を撤回し、こう言った。
「言われてみれば、確かに、そうだな。江美香の言う通りだ。逆に、何で父さんは、江美香の言うようにしないんだろう? 今から帰って、父さんにそう言うよ」
そして、江美香に止められた。
「今さら、言わなくていいよ。どうせ、もうすぐ開店するんだから。それに、そんなこと言ったら、長原君のお父さんに対して、私が批判的だと思われる。やめてよね。ただでさえ、商店街の人間関係は難しいんだから」
江美香と長原のやり取りを聞きながら、僕は、その元証券マンの無謀さに、あ然としていた。どう考えても、失敗するとしか思えなかったからだ。それから、もっと大きな疑問が湧いていた。長原の曾祖父のルールがなかったとしても、それだけ、ハイリスクな人物に何故、商店街は、あの店舗を貸すことにしたのだろうか? あの店舗は、彦次郎そばが長年営業してきた商店街の顔だ。失敗したら、商店街の大きなイメージダウンにも繋がりかねない。しかも、誰も話題にせず、江美香の言うような事前の動きもない。全てに対して、僕はこの商店街らしくないと思った。
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