第一章 (傘はいらない)5

五.

ジンダシューズで、江美香と長原と話をしてから数日が過ぎた。僕は、三階の教室で六限目の授業を受けていた。社会の授業だった。地理でインドについて学んだのだけれど、人口の多さに驚いた以外、ほとんど何も頭に入らないまま授業が終わった。授業が終わると僕はすぐ教室を出ようとした。すると、隣の席の仲石が、ごつんと机に額をぶつけて、そのまま突っ伏してしまった。仲石は陸上部の長距離の選手だった。放課後の練習が辛いと、授業が始まる前に言っていた。この四月から陸上部の顧問が替わって、練習量がこれまでの1.5倍近くに増えたということだった。だから、これから練習に行くのが憂うつで突っ伏してしまったのだ。僕は、彼に声をかけようかと思った。でも、今日は、申し訳ないけれど、このまま急いで帰宅しなければならないから、心の中で、仲石に謝って、そっと教室を出て中学校を後にした。


学校からの帰り道を普段は歩いて帰っている僕だったが、その日は走って帰った。中学校から商店街までは、徒歩で十分ぐらいだった。街の中を流れる小さな川にかかる橋を越えれば、商店街が見えてくる。僕はいつもなら、そこから右に曲がって裏通りに向かうのだけれど、この日は左に曲がって表通りに向かった。表通りを小走りに進むとすぐに商店街の入り口に着いた。そして、かつて商店街の顔だった彦次郎そばが入っていた空き店舗を見た。新しい店の看板がかかっていた。『ハンバーグステーキ サチザキ』と白地の看板に黒で描かれていた。看板を見ながら、僕は、朝のホームルーム前に、長原と江美香が僕の教室まで来て、「新しい店が入るぞ。準備が始まった。今、学校に来る時、建築業者が店舗に入るところを見たんだ」と長原が教えてくれたことを思い出していた。そして、「店の名前は?」と尋ねたら、「看板はまだつけてなかったから分からない。学校が終わってから見に行ったら、ついてるかもしれない」と江美香が言っていたことも思い出していた。二人は表通りの入り口が近いから、そちらから出て、学校に向かう。僕は裏通りの入り口が近いからそちらから出て学校に向かう。その違いにより、僕は、今朝、工事が始まったことを見落とした。そのことで、僕は二人に後れを取ったと思ったのかもしれない。でも、実際に、『ハンバーグステーキ サチザキ』の看板を見て、別に焦るようなことではなかったと思った。そして、僕が看板を見て抱いた率直な感想は、店名にメリハリがないということと、店主のサチザキさんに申し訳ないけれど、ちょっと言いにくいということだった。それと、インパクトがあればいいという訳ではないけれど、店名には、不特定多数の人に記憶してもらわなければならないための“何か”がなければならないのだ。ということを前に祖父が話していたのを思い出した。祖父母の骨董屋の店名は、『大鳳凰』だった。中華料理屋のようだと僕は思った。他の人も同じだった。でも、結局、そのズレがきっかけで多くの人が店名を覚えた。

僕は、そんなことを考えながら看板を見上げていた。

すると、

「友弘。帰るの早かったなあ」

と後ろから声がするので、振り返ると長原だった。

横には江美香も立っていて、彼女も看板を見ていた。

それから、僕のほうに視線を移して、

「長原君と一緒に友弘君の教室に迎えに行ったら、先に帰ってたから、ビックリした。よっぽど、このお店のことに関心があるのね」

と言った。そして、

「どう? 今の感想は?」

と聞いてきた。

僕は、江美香は意地悪なことを聞くと思った。二人も僕と同じで制服姿だった。学校から帰って来たばかりだった。

そうやって三人で、店の前にいると、

「どうも。商店街の方たちですね。今度、この商店街で店をやることになりました。幸崎広史と申します」

と店の中から男が出てきて笑顔で挨拶をした。

僕らは、それぞれ挨拶をしてから、まず「サチザキ」が「幸崎」と漢字で書くことを教えてもらった。

幸崎さんは、三十代半ばぐらいだった。初々しさと不安が混じったような、元気なんだけど、それが少し空回りしているような、いかにも脱サラをした感じの人だった。それと、僕の勝手なイメージで、元証券マンと聞いて痩せた人だろうと思っていた。細身のスーツを着て、顧客に投資先の情報を澱みなく説明しているようなイメージだった。でも、店内の改装をしている工事業者とともに、Tシャツ姿で開店の準備をしていた幸崎さんは、よく肉のついた人だった。髪の毛も新しい仕事のために短くしたらしく、その姿だけ見ると、腕の良いコックに見えなくもなかった。


その後、長原が、大夢町アーケード商店街の将来の会長としての自負を持って、商店街の歴史や現状について話をしていると、「幸崎さん。お店の準備はどうですか?」という声がした。

僕らが声のほうを振り返ると、肉辰のおかみさんが立っていた。それだけではない。商店街の人たちが、幸崎さんの様子を見に集まって来ていた。その中には、魚迅の大将、せがみのおかみさん、それから、僕の家族を嫌っている金物屋の一金や宝石店サファイアの店主もいた。そして、甚田のばあさんも。

「今朝は急に店の準備を始めて、失礼しました。改装業者から昨日の夜、電話があって、工事の日程を今日からに早めて欲しいと言われまして」

幸崎さんが、皆に頭を下げながらそう言った。

「その話は、今朝、もう聞いたからいいわよ。それに工事が早くなるのはいいことじゃない。それだけ、早くお店が始められるんだから」

肉辰のおかみさんがそう言った。そして、魚迅の大将も、

「そうだよ。一日も早く商売を始められるに越したことはない。工事はどれぐらいでできそうかね?」

と言った。

「壁紙と床を張り替えて、新しいテーブルと椅子を入れて、厨房を少し直すだけなんで、明後日には工事が完了するそうです」

幸崎さんはそう答えた。そして、緊張した表情になった。明後日に自分の店が誕生するという実感が湧いたのだ。そのことが、見ている僕らにも分かった。

「緊張しなくてもいいわよ。分からないことがあったら、何でも私たち商店街の人間に聞いてちょうだい」

肉辰のおかみさんの言葉に、

「はい。ありがとうございます」

と幸崎さんは笑顔になった。

そこで突然、長原がこう言った。

「肉辰さんの言葉に少し訂正を加えます。幸崎さんも、もう商店街の一員です。ですから、私たち商店街の仲間に聞いて、というべきだと思います」

それを聞いた肉辰さんのおかみさんが笑い、

「あら。そうね。もう幸崎さんも商店街の一員、商店街の仲間ね」

と言った。

商店街の人たちも、「そうだな。仲間だな」と言った。

その言葉を聞いた幸崎さんは、

「僕もこの商店街の一員。そして、皆さんと仲間なんですね」

と感激した。

幸崎さんを囲むように大夢町アーケード商店街の住人は輪になっていた。笑い声があり、笑顔があり、その暖かさは、アーケード商店街にしかない独特のものであり、僕はその暖かさをそれ以後の人生の中で経験したことはない。それは、大きなぬくもりの中に包まれている幸せだった。


それから、商店街の皆は、幸崎さんのことはほったらかしで世間話を始めた。肉辰のおかみさんは、リサーチしているスーパーの精肉について語っていた。幸崎さんには、僕ら三人が話しかけた。

僕は、元証券マンの幸崎さんに、「逆ザヤって何ですか?」という質問をした。

幸崎さんは、「よくそんな言葉を知ってるねえ」と驚いていた。

前に、うちの常連客の一人が株について話していたのを聞いたのだ。その時、この言葉の語感が印象的で記憶に残っていたのだった。話していたのは、『八峰』という漢方薬の店の主人だった。


そこに、僕の父が現れた。

父はいつもズボンのポケットに左手を突っ込んでいた。この時も、そうしていた。父が来たことに皆、驚いた。何故なら、父は商店街の会合にも出ないし、商店街の人と話をするのも避けているからだ。その父が、自分から、商店街の人たちが集まっている場所に来たのだから、驚かれて当然だった。

父もそのことが分かっているから、気まずい表情をして、

「妻に新しい店の様子を見て来いって言われて」

と釈明するように言った。

それに対し、

「羽津恵さんに、みんなが集まっているところに、たまには顔を出して来なさいって言われたのね」

と、せがみのおかみさんが言った。

そこにいたみんなが笑った。

甚田のばあさんは笑わなかった。でも、孫の江美香がいる手前、何も言わなかった。それに、息子である江美香の父もいた。一金とサファイアの店主も甚田のばあさんに追随した。

父は動揺していた。商店街の人の集まった場所に慣れないため、せがみのおかみさんに言われたことに笑って答える余裕もなかった。でも、父なりに何か言わなければならないと思ったらしく、こんなことを言った。

「俺のことは勘弁してください。それより、新しく店を開く幸崎さんは、この商店街の人に親戚がいるとか、何か強い繋がりがあるのでしょうか? 幸崎さんが全く違う仕事をしていたことは聞いたのですが、妻は、詳しくは話さなかったので。ふと今、疑問に思って」

すると、それを聞いた商店街の人たちから笑顔が消え、

「色々大変だったんだよ」

と、魚迅の大将が言った。


その時、長原の父が現れた。幸崎さんの様子を見に来たのだった。長原の父は、僕の父より少し年上で、四十過ぎだったが、年齢以上に落ち着いていた。それは、商店街会長の長原の祖父の下、自分より年上の商店主を取りまとめる役割を若い頃から担ってきたからだった。

魚迅の大将が、長原の父に気づくと、

「ちょうどいいところに来てくれました。長原さんから、新しい店が幸崎さんの店に決まるまでの経緯を安森さんにも説明してあげてください」

と言った。

長原の父は、それを聞いて、

「分かりました。安森さんも商店街の一員です。是非、お聞きください」

と僕の父を見た。

父は、自分が苦しまぎれに言ったことが、より自分を追い詰めた気がして、これは藪蛇だったと思ったようだった。でも、僕らにとっては、江美香ですら知らない詳しい話が聞けることになったのだから、父の問いに感謝した。それに、商店街の人たちからも、「安森さん。いよいよ新しい店も開店します。ともに商店街を盛り上げていきましょう」という声が上がった。イチハチ・デンキの店主だった。仏壇屋からも乾物屋の店主からも同じ声が上がった。


僕は、父にとっては失言のはずが、逆に、商店街の人たちから共感をもって受け止められたことが、とても嬉しかった。背が高くて顔だってなかなか良い、そして、何より料理の上手い父のことを僕は内心、誇りに思っていた。ただ、日頃、居間で寝転がってレコードばかり聴いている父のことを、商店街の人たちに自慢することはできなかったし、商店街の人たちから疎んじられるのも仕方がないと思っていた。だからこそ、このことが、父が商店街の人たちと親しくなるためのきっかけになればいいと思った。


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