第34話:それはパイではなくて……
「あらら? リア様、お好みではなかったですか?」と、侍女長が言った。
「いいえ、あの、味は全然おいしいと思うのですが、わたしが知ってるパイと違っていて、頭が混乱しています」
「まあ……。パイとは、こういう物ではないのですか? わたくしは初めて頂いたのですが」
「わたしの国だと、パリパリ、サクサクしていますねぇ。香ばしいバターの香りで……」
いつも食べているアレの感覚で口にすると結構なギャップがあり、脳がぐちゃっとした。
冷蔵庫からラベルのないペットボトル飲料を取り出し、麦茶だと思って飲んだら麺つゆだった(ゴバーッ!)という悲劇に比べたらインパクトは控えめだけれど、それに似たような感覚を味わえるのは間違いない。まず混乱が先に来て、味わうのが後回しになる。
「パイ」という同じ名前が付いているだけで、実は全く別の食べ物だと気づくのに、だいぶ時間がかかってしまった。
誰もが知っている某有名店の、「あのパイ」が食べたいですね……(ぼそ)
「あのパイ」は最寄りの駅ビルで売っていた。
たまに給料日に買って帰り、家族で食べた。たまの贅沢が幸せなのだ。
嗚呼、わたしは一生「あのパイ」どころか、同じ駅ビルで買っていた「あのどら焼き」とか「あの店のプリン」等々、慣れ親しんだ「あれ」を口にできないのだ。
これは看過できない。由々しき問題だ。
やはり異世界転移は、人生における重大なインシデントだった。
あれもないこれもないと考え始めた途端、突如行きつけのカフェのチリドッグが食べたくなった。しかし、それも一生無理だと分かって発狂しそうになる。
「あのカフェのチリドッグ」がない人生なんて、想像もしたことがないのだ。そのカフェ専用の電子マネーは、当たり前のようにオートチャージ設定にしていた。
あああー、ノーチリドッグ・ノーライフ(泣)もう、もう……生きて行けない、耐えられない。
「これはサクサクというよりは、ホロホロですわねぇ?」
「バターの味もしませんわね?」
「言われてみると、これは何の油なのでしょう?」
侍女がモグモグしながら首をかしげていたので、「ラードだと思います。豚の脂ですね」と答えた。頭の中はチリドッグで一杯だ。いつか自分で作って食べてやる。
そう、これはラードだ。
そう考えると、わたしの手の中にあるパイであってパイでない食べ物の生地は、かつて台湾で買った台中名物「太陽餅」の外側の皮だけにそっくりだった。
あの皮にナッツと砂糖をまぶし、ムニュッとさせたら(どうやって?)このパイになりそうな予感がする。食感はさておき、生地の味は似ている。
マズイというわけではないのだけれども、これを台湾の人が食べたなら、「中身を入れた方が美味しいのでは?」と言いそうだ。
んん~~、
侍女トリオが日本のアーモンドパイに興味を持ったので、味と食感のイメージを詳しく伝えると、それは喜ばれそうだと目を輝かせた。
そうでしょう?
あれを知らない人生は勿体ないと思いますよ。
ああ、ダメだ。
もうチリドッグとアーモンドパイしか食べたくない(泣)
こうなってくると、否が応でも考えが「お転婆方面」へとシフトして行く。
だって、パイなら自分で焼けるのですよ……。
お恥ずかしながら料理教室の製菓コースで「ガチ勢」と呼ばれていたものですから。
材料と道具と時間と情熱さえあれば、大抵のお菓子は作れるのだけど、またもや「厨房には立たないで下さい」というお貴族様のルールが邪魔をする。
しかし、パイを諦められるのかと言われると無理だし、チリドッグへの足掛かりも作りたい。
もう、わたしの口はパイの口になっている。
……やっちゃいますか?
やって、しまいますか?
今、わたしが踏み出す第一歩は、人類にとって実にどうでも良い一歩ではあるけれども、わたしにとっては大いなる第一歩である。
「リア様、またワルい顔をなさってますわ」
「お怪我が治ったばかりですのに」
「今度は何が必要なのですか?」
あっ……
侍女に秒でバレました。
自分で作ると仮定して考えてみた。
パイの材料は意外と少ない。しかも入手が簡単なものばかり。難易度は環境と技術の方にある。
こちらに来る前に作っていたので、レシピも頭に入っているから問題ない。当然ながら、技術も習得済みである。
問題は環境なのですよ。
厨房での調理はずっと反対されっぱなしだ。そういうことにうるさいイケ仏様と執事長の二人を、どうにかしなくてはならない。
「やはりあの二人が壁ですよねぇ」と呟くと、侍女が色めき立った。
「リア様、それならわたくし達も特別な態勢で挑みますわ」
「身代わり役は、わたくしにお任せくださいませっ」
「わたくしが台本をご用意いたしますのでっ」
あら? あららっ?
どうしました?
圧が凄いのですけれど、台本って何ですか?
彼女たちは今までわたしが何度となく「料理をしたい」と訴えては玉砕する現場を見ているので、同調してしまったのかも知れない。
四人での悪巧みが始まった。
やはりわたしは、ヴィルさんの言う通りお転婆なのかも知れない。
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