第六話(前編) 血の海の上
俺の意識が過去から今へと戻ってきた瞬間。
現状を整理する余裕はない。
俺はされるがままに、恋敵に手を引っ張られた――。
恋敵の片方の手には先客がいる……理々だ。
彼女も、理解しているとは言い難い表情だった。
現在、俺たちは逃げている……けど、しかし追ってくる者はいない……のだけど。
恋敵は一体、なにから逃げているのか……。
時間?
タイムリミット?
だとすれば、なんの――?
すると、恋敵が俺を見た。
「バツッ、ぼーっとしてんじゃねえ! 何度も声をかけたのに、一切反応しないなんてよ――気絶してたわけでもねえだろ! 説明してもらうからな……、おまえの意識はどこでなにをやっていたのか!!」
文句を言ったものの、きちんと現状の説明をしてくれた。
一から十まで。
ただし、恋敵が知る範囲内で、だ。
それは当然だ、と俺は思ったが、恋敵は自分の主観でしか説明できないところに不満があったらしい。悔しそうに歯噛みしている……いや、俺は充分だぞ?
説明がないよりマシだ。
「なるほどね……今、すぐ傍にいて姿が見えているわけじゃないけど、間違いなく追われているわけか……。しかも相手は銃を持っているから――。そして狙いは理々だと。――なるほどなるほど……そりゃあ、完全に俺たちの敵だな」
「ああ、そういうことだ。だから理々を逃がしたいんだが、しかし名案が浮ばねえ。隠れる場所なら大量にありそうだが、でも、ずっと隠れられるところとなると、ないだろ」
そりゃあそうだ。
一生隠れられるところなんて、どこにも――船に限らず、ないだろう。
転々とするしかない。
だが、移動する際に見つかってしまえば、全てが無駄になる。
見つからない場所か……部屋はダメだ。
食堂やトイレも同じく。
船員の部屋や厨房だって……探されて当然だ。
相手の手が届かない部屋なんてないだろう。
となると、隠れる場所がまったくない。
このままだとまずいな……今は距離があるが、しかし、じきに見えてくる。
拳銃を持つ黒スーツの男に、捕まってしまう……。
俺たちだけならいいが、理々が捕まってしまうのは……ッ。――クソ。
――どうする。
きょろきょろ、と俺は周りを見渡す。
正直なところ、俺も確信があったわけではない。
ダメ元だった……だから集中もしていない。ふと、見ただけだったのだが……。
でも、運が良かったのだ。
俺は、小さい体だからこそ入ることができる小さな穴を見つけた。
そこは空気の入れ替えをおこなうための隙間である――中を見れば、各部屋に繋がっているらしい。穴があるのは足下だが、進んでいけば、いずれ天井にも地下にもいくことができるだろう……そういう構造になっている。
どの部屋にでもいけるとするならば。
……理々の父親を探すこともできるはずだ。
それに、黒スーツたちの動向も調べられる。
迷う余地はなかった。
走り疲れ、体力の限界だった理々。彼女の息が整うのを待っている余裕はない。
俺と恋敵の二人で、理々の背中を押し、見つけた穴の中へ。
その時、やっと、と言うべきか――黒スーツの男が姿を見せた。
理々の姿を探しているようだが……残念ながら、もうそこにはいない。
俺たちは、大人には入れない穴の先にいる……、きちんと穴のカバーを戻しておいたので、気付いたとしても、もう少し時間を稼げるだろう。
俺たちは先へ進む。
恋敵を先行させ、その後ろに理々だ……で、その後ろを俺が続く。
中は暗かった。
が、各部屋に繋がっているので、漏れた光で視界は確保できている。
先の道も分かり、俺たちの互いの顔も確認し合える。
しかし、理々は前へ進もうとせず、途中で止まったままだった――。
「どうした?」
……理々は震えていた。
命を狙われている、という事実は、やはり汚雲家の一人娘でも――恐いか。
まあ、そりゃそうか。大衆とは違う、選ばれた権力者でも、女の子だ。
幼い女の子なら、まだ覚悟もできていない。
ランドセルを背負い、友達と楽しくお喋りをして、遊園地や動物園ではしゃぐ、どこにでもいる女の子なのだから。
「……うらぎ、られて……わたし、ひとりで……誰も、誰も……たすけて、くれない……っ。味方は、いないよ……いない、いない……わたしは、孤独で……ひとり、ぼっちで――」
今にも泣き出しそうな理々だ。
もしもスペースがあるなら、体育座りで体を丸めていただろう……そんな雰囲気だった。
理々の気持ちは、完全に閉じこもってしまっている。
……ボディーガード、か。
守ってくれることが当たり前であり、完全に信用していたボディーガードに裏切られるというのは、やはり精神的なダメージが大きいのだろう。
理々にとっては、父親……いや、兄貴に裏切られたようなものかもしれない……。
立ち直れなくても仕方のないことかもしれないが……でも、今は困る。
この状況で立ち止まってしまうと、逃げることができない。
今は空元気でもいいから……本当になんでもいい。
理由は任せる……だから顔を上げてほしいんだよ、理々――。
「理々、いくぞ、いつまでもめそめそしてんじゃねえ」
と、恋敵。
そんな言い方はないだろ、と思ったが、これくらいの刺激を与えないと、届かない気がした。……今の理々には、荒療治でちょうどいい。
「裏切られたからなんだよ、それが嫌なら最初から信じるんじゃねえ。信じるってことは、裏切られてもいいってことなんだよ……、おまえは信じたんだろ、あいつを。だったら裏切られたことにいつまでもうじうじと悩んでんじゃねえよ。おまえの命が懸かってんだ……こっちだって必死なんだ――理々」
甘やかしたくなる気持ちも分かる。
だけど今は、厳しく接するのが、きっと正解だ。
俺たちはダメダメな人間だから……、だから。
理々には、同じような道を歩んでほしくない。
厳しく接する。
俺たちは、甘やかされてきたから……。
「理々、いこう」
前進する恋敵を追う。
俺は理々の手を取り、引っ張った。
……理々の体は、脱力して全体重が乗っているせいか、重たかったけれど、だが、引っ張れないほどではない。ペンギンでも引っ張れるくらいには、俺には力がある。
理々も、引っ張れば……背中を押せば、動けるのだ。
俺たちが与えるべきは、きっかけで――。
理々も、まだ負けていない。
俯いた彼女の表情は、目は、絶望をしていてもまだ光がある。
気持ちに、抗っている。
展望は、闇ではなかった。
――勝負はまだ、終わっていない。
歩き始めて数分後、先行していた恋敵がなにかに気づき、俺たちに片手で合図を出した。
俺は当然気づいたが、俯きがちだった理々はその合図に気づくことができず――
それでも俺が支えたことで、恋敵と衝突することはなかった。
「え、なに」
「ちょっと待ってな、理々――」
恋敵の次の合図を待つが……しかし、嫌な予感だ。嫌な予感と言えばずっとしているのだが、これまでとは比べものにならないほどの、濃い嫌な予感だ。
そして、その予感は的中する――ふざけんなと言いたくなる。
俺たちにとって……なによりも理々にとって……最悪なものだった。
「理々、ちょっとおとなしくしててな」
一緒にいくと言う理々に、少し強めに「待て」と言い聞かせ……俺は恋敵の隣に並ぶ。
恋敵が見ていたのは真下だ……この通路は天井だったのだ。
だから部屋の中が見えている……、俺たちは寝転がるように体を低くして、覗き穴だらけの天井から部屋を覗いた……そこには。
見つける。
最悪の光景を――。
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