○✕問題
島丘
○✕問題
とある仕事に就いた。内容は至ってシンプルなもので、用紙を種類ごとに分けていく作業である。種類と言っても二つしかない。
右上に顔写真、その隣に住所と生年月日、下には学歴や職業歴に加えて、性格や特徴が書かれた用紙だ。つまるところ履歴書のようなものである。
しかしこの紙が履歴書でないことは、誰の目から見ても明らかだった。性格や特徴の欄には、自分では書かない丸裸の真実が並べられていたからだ。
例えばこちらの写真の男性は、一見真面目そうに見える。しかし性格の欄には『乱暴』、『短気』と書かれていて、彼がした数々の悪行がつづられているのだ。元彼女へのDV、後輩へのゆすり。そのようなことを、自分で書くはずもない。
この男の用紙、類似しているので仮に履歴書と呼ぼう。この履歴書には、赤いペンででかでかとバツ印が書かれている。
対してこちらの女性は、地味で暗そうな外見だ。しかし性格の欄には『友達想い』、『動物好き』と書かれていて、やはり同じように彼女の行いが並んでいた。
一つ違うのは、先ほどの男と違って、書かれた内容が善行であることだ。ボランティアとして動物愛護団体で働いている。困っている妊婦に席を譲った。そんな彼女の履歴書には、赤いペンで大きくマル印が書かれていた。
つまるところ、合格か不合格と言ったところではないだろうか。いい人はマル、悪い人はバツ。
最初はそう思っていたのだが、毎日毎日何百枚と分けていくにつれておかしなことに気が付いた。
とある粘着質なストーカーがマル、有名な慈善家がバツ、痴漢常習犯がマル、人気アイドルがバツなど、当初の考えとはまるで異なるパターンが次々と現れたのだ。
この仕事に就いてはや三ヶ月経つが、未だに法則は掴めていない。ただ、マルかバツかで履歴書を分けていくという作業だけは何も変わらないので、途中から深く考えないように努めた。
今日もまた、深いことを考えずに仕事に没頭する。
マル、バツ、バツ、マル、バツ、マル、マル……。こうして見ると、マルの方が多い気がする。
291枚目、顔の整った女優志望の女の子をバツのボックスに振り分けた後に、それは現れた。
「え」
そこに映っていたのは、紛れもなく自分だった。
名前も、住所も生年月日も、学歴や職業歴まで一致している。そして性格や特徴の欄には、こう綴られていた。
『自己愛が強く利己的。深く物事を考えない短慮な性格。』
さらにその下にはこう続いている。
『小学四年生のとき、親から一万円を盗む。後に怖くなり、一万円札を弟の机の中に隠す。弟に罪を押し付け、自白することもなし。』
いつのまにか、自分の息が浅くなっていることに気が付く。
どうしよう。どうすればいい。知られている。全部知られてしまっている。
俺の履歴書には、大きなバツ印が書かれていた。基準なんてわからないが、決していい意味でないことだけはわかる。
手が震える。このまま紙を破くか、捨ててしまいたくなった。けれどもそんなことをしたらいずれバレてしまう。
考えて、俺はとあることを思い付いた。この紙を、マルのボックスに入れるのだ。
もしかすれば奇跡的に、中身を確認することもなく、俺がバツ印の人間だと気付かれないまま処理されるかもしれない。
この振り分けが何を意味するかはわからないが、自分自身に何か大きく影響することは間違いないだろう。ならば一縷の望みにかけて、運に頼ってみるのもいいかもしれない。
俺は押し込むように、自分の履歴書をマルボックスに入れた。力が入って皺の寄ったそれを隠すように、次にあったマル印の履歴書を上に被せる。
バツ、バツ、マル、マル、マル、バツ、マル……。
そのあとのことはよく覚えていない。気が付けば、今日のノルマ分を三十分早く終えていた。
いつものように、マルとバツのボックスをまとめて両腕に抱える。入れ替わりに部屋に入った女性に軽く会釈をして、俺は事務所へ向かった。
運んでいる間も落ち着かなくて、気付けば視線は床にばかり向けられている。慣れた道を迷うこともなく歩き続け、一階の事務所へと辿り着いた。
ガラス扉になっているその部屋には、事務員の横井さんが一人いるだけだ。彼女は扉の向こうにいる俺の存在に気付くと、億劫そうに席から立ち上がり扉を開けてくれた。
「ありがとうございます」
会釈すれば、ひらりと右手を振り返される。横井さんはそれ以上俺に何か言うでもなく、亀のようにのろまな足取りで席に戻っていった。
二つのボックスは近くの机に置き、扉の横にかけられているホワイトボードに書き込んでいく。
名前と勤務時間、ノルマとなる枚数と実際の処理枚数を横一列に並べて書いた。反応の鈍いキャップをはめてからペンを置けば、あとはもう帰るだけだ。
「おや、田中くんじゃないか」
そのときだ。背後から快活な男性の声が聞こえてきた。その人は俺の上司に当たる人物で、名前を鈴木と言う。
鈴木課長は俺を見るや否やバシバシと背中を叩き、白い歯を見せてにっと笑うのだった。
「お、お疲れ様です」
「やぁお疲れ。仕事には慣れたかい?」
「お陰さまで」
仕事内容こそ曖昧模糊なものであるが、この会社の人間は朗らかな人が多い。横井さんのような無愛想な人の方が少ないくらいだ。
「まぁ今は単純作業でつまらないだろうが、あと一ヶ月もすればやり甲斐のある仕事に就けるさ」
ワハワハと笑う鈴木課長には愛想笑いを返し、背中にくすぶる後ろめたさから逃れるように部屋から出ようとした。
今にこの場で、バツ印がつけられた俺の履歴書がマルのボックスに入っていることを知られてしまうのではないか。
そう思うとじとりと嫌な汗が吹き出し、臆病な両足は爪先を扉へと向けるばかりである。
いずれはバレてしまう可能性が高かったが、思考を放棄したがる頭が逃げることだけをせっついていた。
「ああ、もしかしてこれが、今日仕分けを終えた分かい?」
そんなことは露とも知らない鈴木課長が、軽い調子でボックスに目をやる。
耳元で釘でも打ち付けられたときのような緊張感が走った。俺は泳ぐ視線を自由にさせたまま、なんとか声を絞り出す。
「はい、そうです。あの、今まではずっとこちらに置いていたんですけど、どこかに運んだ方がよいでしょうか」
なんとか鈴木課長からボックスを離したくて、そんな言葉が口をついて出た。
言った後にしまったと思いはしたが、鈴木課長はこちらの予想をいい意味で裏切る言葉を返してくれた。
「そうだね。じゃあ入れてもらおうかな」
そう言って事務所の奥を指差す。この部屋には窓はなく、四方を壁に囲まれた閉鎖的な空間だ。
鈴木課長が指した方向にも、コンクリート剥き出しの壁が見えるだけである。
一つ違うのは、右端に四角い穴がぽっかりと二つ開いていることだ。縦幅は狭いが、横幅はそれなりにある。ちょうど、角形2号の封筒が入るくらいの大きさだ。
「右がマル、左がバツさ。絶対に間違えちゃあ駄目だよ。一度出しちゃえば訂正はきかないからね」
鈴木課長の言葉に思わず「えっ」と声が漏れる。すると課長は、横井さんに聞こえないようにするためか(それにしたって絶対に聞こえてしまう距離だが)、小さな声で話し始めた。
「簡単だけど大切な仕事だからね。間違いが起きないように横井さんしかやってはいけないんだ。だけどほら、普通に考えれば子供だって間違えやしないだろう?」
右がマルで、左がバツ。それぞれの穴に入れるだけだ。確かに間違えようがない。
「もちろん事前確認はきちんとした方がいいけれどね。まぁあの穴に入れるだけだからさ、心配なら一枚ずつでもいいし、やっておいてくれないかい?」
本当は規律違反だが、横井さんが何も言わない辺り暗黙の了解というやつなのかもしれない。横井さんだって、自分の仕事量が減るのだから嬉しいはずだ。
「心配ならそのままでもいいけど」
「いえ、やります」
運は俺に味方した。
ボックスを床に置き、コンクリートに開いた穴の前に立つ。
まずはバツの箱から始めた。早く自分の分を入れたいという気持ちがあるにはあったのだが、異なる用紙を入れることに罪悪感と警戒心があったためだ。
もしかすれば、異なるものを入れた瞬間にブザーでも鳴るシステムかもしれない。課長はそんなこと言っていなかったが、用心に越したことはない。
一枚一枚用紙を確認する。バツ、バツ、バツ、バツ……。
全てのバツ用紙を入れ終え、ついにマルのボックスへと手をかけた。先程よりも時間をかけて確かめていく。
マル、マル、マル、マル……バツ。
訪れたバツ印。履歴書には俺の名前と顔写真、そして経歴が書かれていた。
親から金を盗んだこと、弟に罪を押し付けたこと。バツが書かれた面を下にして、マルの穴へと紙を差し込む。手は震え、心臓はバクバクとうるさかった。
後ろを振り返る。横井さんは背中を向けて、キーボードを叩いていた。後ろに目でもついていない限り、いや、床に目でもついていない限り、履歴書のバツ印は見つからないはずだ。大丈夫、きっとバレない。
手を離す。履歴書は軽い音を立てて、他のものと同じようにあっさりと穴の中に落ちていった。
身構える。しかし何も起こらない。危惧していたシステムや仕掛けはなかったようで、ホっと胸を撫で下ろす。
その後の仕事は順調に終わった。悩みの種がなくなったことで作業スピードも早まり、二つの箱はあっという間に空になった。
「あの、これ終わったんですけど」
声をかけると、横井さんは空いた机の上を指差した。ここに置いておけと言うことらしい。無愛想な人だなぁと思いつつ、頭を下げて退出する。
廊下を歩いている間、心の内にじわじわと不安が広がってきた。
先程は上手くいったものだと安堵していたが、そもそもマルバツの基準は何なのか? 本当に俺の行いがバレることはないのか?
もやもやとした気持ちを抱えていると、向こう側から鈴木課長が歩いてきた。やぁ、と軽く手を上げられ、俺もまた会釈する。
外に煙草休憩をしに行くらしく、俺と課長は並んでエレベーターを待った。
「仕事は無事終わったかい?」
「はい、大丈夫です」
本当は故意に入れ替えたという罪悪感に、声がひっくり返そうになる。
「それはよかった。田中くんはよく働いてくれてるからね。さっきも言ったが、一ヶ月後にはもっとやり甲斐のある仕事についてもらうからね」
課長の話が耳をすり抜ける。今後の仕事のことより、現在の仕事が気になるのだ。
初めて聞いたときには詳しく教えてもらえなかった。だが今なら、少しくらいなら教えてもらえるんじゃないか。
そう思い、意を決して課長に尋ねる。
「あの、今の作業なんですけど、あのマルバツって何なんですか? どういう基準で分けてるんですか」
不意に課長は笑みを消した。恐ろしいほどの真顔でこちらを見据える。
その冷たい目に体を固まらせていると、課長は顎に手を添え、何やらボソボソと呟き始める。
「うーん、まぁもういいかな」
もう普段の課長だ。人好きのする笑みを浮かべ、声を潜めて言う。
「今後の仕事にも関わってくることだからね。本当はまだ話しちゃいけないんだが、特別に教えよう」
ポーン。エレーベーターが到着の音を知らせる。いいところだったのに。
開いた扉から、細長い道具を持った作業着の男の人が出てきた。軽く会釈をして立ち去った男と入れ替わりに、エレベーターに乗り込む。
課長は続きを話し始めた。俺はもう、それどころではなかった。
「マルバツなんだけどねぇ、いたって単純さ。マルが死んでいい人間。バツがまだ死んではいけない人間」
課長の指が1のボタンを押す。奇妙な浮遊感とともに、箱はぐんぐんと下に降り始めた。
「さっきすれ違った作業着の男の人がいただろう? 彼と同じ仕事をしてもらうつもりだよ。大変だが、今よりずっとやり甲斐がある。マル印の人間を片付ける仕事さ」
男はライフルを持っていた。課長の話は、耳を通り過ぎてくれなかった。
「まぁまだ先のことだからね。明日からも頑張ってくれたまえ」
ふと課長が視線を落とす。床には赤いマル印。血だ。
「ああ、またか。落とさないようにと言ってあるのに」
課長は血を靴底で擦り付けた。マルは崩れ、赤色だけが薄く伸びる。エレベーターの扉が開いた。
分別された用紙が
俺はエレベーターを降りなかった。早く、早く紙を入れ替えないと。
課長が不思議そうに振り返る。震える声で、忘れ物をしたと言った。
今ならまだ間に合う。そうだ、でも、横井さんがいる。構うものか。そもそも紙を取り出せるのか。知らない、わからない。とにかく早く、
「なるほど、なら早くとってきなさい。まだ取り返しがつくはずだからね」
取り返しがつくのだろうか。
エレベーターの扉が閉まった。最後に見た課長の顔は、笑っていた。
○✕問題 島丘 @AmAiKarAi
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