第3話
心地の良い微睡みに誘われるように、いつもより早く眠りについたはずなのに、起きてみたら日付は変わったばかりで、部屋は真っ暗だった。一度崩れてしまった生活習慣を戻すのには時間がかかるらしい。諦めて、窓の外を眺めてみる。
遠くの方の街明かりは、まだ一日を終わらせられない人達の亡霊みたいだ。俺もきっと、いつもならそこに行きたいと願うんだろうな。だけど、今年の夏はそうじゃない。まだやりたいことがあって、それを一緒にやってくれる人がいる。そんなありがたみを忘れないように、そんな未練がましい光を目に焼き付けておく。
しばらくすると、しとしとと弱い雨が降り始めた。天気予報を確認すると、今日は朝から雨が降って、夜には本降りになるらしい。
思えば昔から、俺はこういう奴だった気がする。楽しみにしていた遠足の日の天気が雨だった、みたいな思い出が蘇ってきてしまって、壁にもたれかかってやるせなさに浸る。間が悪い、運がない、ツイてない。色んな言葉が思い浮かんで、これがもっとポジティブな方向に進む思考の糸だったら、俺の人生はもう少しだけ色づいていたんじゃないかと後悔にも満たない安い悔いが残る。
ネガティブは俺の根源なんじゃないかというような気がする。千早といると解消されたような気になるマイナスな思考も、ひとりでいるときは当たり前のように頭の中に居座ってくるし、それを自分らしさだと誤認しそうになる。強制的に引き上げられるようにポジティブな思考を手にしても、その手を離されたらまたネガティブの海に落ちていく。一度崖の上の景色を見てしまうと、光の届かない海の底が嫌になる。それこそ、会わない方がいいんじゃないかと考えてしまうくらいに。
それでも会ってしまうんだから、人間は目先の欲求に弱いものなんだろうと思う。そしてそんな、悟ったような物言いをする自分のことが恥ずかしくてたまらなくなる。
真夜中の空白を埋めるように広がった思考は部屋を埋めて、どうしようもなく息苦しくなる。きっとこの先も何千回とこんな夜に苦しんで、それでも俺は夜を生きていくんだろう。誰かの目を避けるまでもなく、誰の目も届かないこの夜の中で、他でもない自分自身に語りかけて、落ち込んで、自分はこんなもんだと割り切れるように祈りながら、眠って全てを忘れる努力をするんだ。
夏休みに入ってからだいぶ減っていた、起きていたのか眠ってしまったのかが定かではない日。昨日の物思いが染み付いた部屋にじめじめとした確かな質量が流れ込んでくるような、嫌な雨が降っている。窓は開けたままだったらしく、窓枠が湿っている。早急に窓を閉めて水気を拭き取っても、やっぱりこの部屋の湿度は変わらない。ネガティブな重みのある空気が部屋を埋めていて、いるだけで気が滅入ってしまいそうだ。どこかに逃げたいのに、そんな場所はどこにもない。ここがどうしようもなく自分の居場所であることに、いつになったら納得できるんだろう。ここではないどこかへの憧れは日を追うごとに増していて、自分にはどうすることもできないような気がしてしまう。それはきっと居場所に満足していないんじゃなく、自分に満足していないだけだ。その対抗策を、逃避しか知らないだけ。
浸りに浸った後ろ向きな思考の波は、もう息もできないほどの水位をもって俺を襲う。押し寄せては引き返す波の中に沈んでしまわないように、地に足を着ける練習をしている。
いつか俺は、この物思いから逃げ切れなくなってしまうかもしれない。そう思うだけで足が竦んで、逃げなきゃいけないのに立ち止まってしまう。いっそ沈んで楽になりたいという気持ちが、俺も自覚できないほど深いところで喚いている。
夏休みの課題はほとんど終わってしまった。今日の予定が潰れてしまえば、俺はこの後悔が詰まった部屋の中で孤軍奮闘するしかない。それだけは避けたいが、雨の中夏をしたいなんてぼんやりした願望に付き合ってもらうほどわがままなわけでもない。まだ眠れるような気もするし、今日は眠ってしまうのが正解なんだろう。くだらない思考のせいで冴えてしまった頭を宥める方法を考えていると、電話がかかってきた。
『おはよう』
聞こえてきたのはとても元気な声。それだけであんなに頭を埋めていた物思いは蜘蛛の子を散らすように消えていってしまって、相手のことを考えるようになる。まだ朝の7時なのにこんな声が出るだろうか。もしかしたら昨日みたいに寝ていないのかもしれない。
「おはよう。もしかして、今日も寝られなかった?」
『まさか。昨日は帰ってすぐ寝ちゃって、起きたらこの時間だったの』
「そうなんだ、寝られたならよかったよ。で、こんな早くからどうしたの?」
『今日の予定、どうしようか聞こうと思って』
「あぁ、そうだね、雨だし」
昨日みたいに強制的に連れ出してくれることを期待していた。俺に選択肢を委ねられたら好きなようにとしか言えないし、それもダメならやめとこうかと言ってしまうだろうから。
『別に後日でも構わない?』
やっぱりそうだよな。俺は自分を説得するように全然大丈夫だよ、と告げる。わかった、という言葉の響きがとても冷たいものに聞こえて、電話を切ってしまったら憂鬱で埋め尽くされるはずの部屋をぼんやり眺めることしかできなくなる。
『さっきはスルーしちゃったけど、宮城も電話出るの早かったよね。寝られなかったの?』
「うーん、どうだろう、寝たのか寝てないのか曖昧なんだよね」
『あー、たまにあるね、そういう日。悩み事とか?』
「いや、そういうのじゃないとは思うんだけど…もっとくだらないことだよ」
悩み事、と呼べるほど高尚なものでもない、自分が自分であることが嫌だという子供みたいな物思い。当たり前みたいに横たわっているのに、俺はこの軽い絶望にすら向き合えない。そんな自分のちっぽけな器みたいなものに、よりやるせなくなる。
千早みたいな眩しい人間と一緒にいると、自分との差を感じてしまって、それが埋まらないような気がして、自分がちっぽけに感じてしまう。そんな八つ当たりみたいな思考に行き当たって、自分に腹が立つ。
「なんていうかさ、夜って何も咎められないんだなぁって思うと、夜にずっといたいなって思っちゃって」
できる限り曖昧に、それでも少しは共感を得られそうな、そんな理由を考える。だけど俺の頭では、そんな都合のいい言葉を生み出せそうになかった。
『夜、私も好きだな。いつか散歩したりしてみたい』
正直意外だった。千早みたいな人間って、夜はちゃんと寝ているものだと思っていたし。失恋は、俺が思っているよりずっと重いものらしい。
「いいね。そのときはご一緒させてよ」
そのとき、なんて考えちゃいないけど。頭に浮かんだ言葉を打ち消すように、軽い口調で言う。
『いいよ、約束ね』
電話の先からも軽い口調が聞こえてくる。それがこの関係性の着地点のような気がして、少し寂しくなる。
気まずい沈黙が流れる。話を振る気もないのに、そろそろ切ろうか、と言い出せないのは何故なんだろう。
『じゃあ、次の予定決めたりしちゃおうよ。いつなら空いてる…って、全部空いてるんだっけ』
「さすがにその言われようは俺も傷つくんだけど」
冗談を言い合えるようになったのも、少しは関係が深まったってことなんだろうか。異性との関係性って、本当によく分からない。
『あはは、ごめんごめん。今週末とかどう?土曜日か日曜日のどっちか』
「別にそれでいいけど、さっき言われたことを思い出すと無理にでも用事を入れたくなるね」
心が軽くなっていくのを感じる。きっと必要のない会話が、それを続けてもいい関係性が、俺の求めているものなんだろうと思う。これがずっと続いてくれたらなんて、烏滸がましくて考える度に打ち消してしまうけれど。
『もう、そんな冷たいこと言わないでよ』
「さっきのお返しだよ」
2人で笑い合う時間が続いたりすれば、俺の物思いもどうにかなったりするんだろうか。ありえない想定だとはわかっていても、そう考えるのをやめられない。
『ということは、今日の予定はなんにもないんだ』
「なーんにもないね。課題もほとんど終わっちゃったし」
実際、何かをやろうとはするんだろうと思う。無駄に外に出てみたり、電車で行ける範囲の知らない街に行ってみたり。そうする時間は充分過ぎるほどあるし、憂鬱を溜め込むには俺の部屋は狭すぎるから。
『私、7月中に終わっちゃった』
「8月中暇じゃなかった?」
『まぁ、暇だったけど。暇なの好きだし』
何も考えないでいられるなら、俺も暇な方がいいんだけどな。やらなきゃいけないことだけを考えていた方が楽なときもあって、考えしろを残すみたいに、わざと手をつけずにいる課題がある。
「一人でいると、考え込んじゃうからなぁ」
つい口が滑ってしまって、取り繕うように次の言葉を紡ぐ。
「進路とかさ、そろそろ考えなきゃいけないじゃん」
『進路か〜、私、何も考えてないな』
うまく違和感のない会話にできたみたいで、胸を撫で下ろす。
「俺も具体的には決めてないけどさ、この成績じゃヤバいかな〜とか思うことはあるじゃん」
『もう少し点数上がったらな〜とかね。わかるよ』
学年6位でも満足できないのか、いや、6位だからこそなんだろうな。できる奴はずっと上を目指していけるんだろう、できた経験があるから。
「まぁ、千早ほど高尚な悩みじゃないんだけどさ」
ぴたりと思考が止まるのを感じる。やりもしないくせに、劣等感だけは募らせている。それが筋違いな感情であることは理解しているから、そんな自分に腹が立つ。
『…踏み込んでもいいかな、さっきのこと』
「さっきのことって?」
『考え込んじゃう、って、なんのことなんだろうって』
世界の時間がそこで止まったような、それなのに頭は回り続けるような、変な感覚に囚われる。
『多分、進路のことじゃないよね。そんな口調じゃなかった』
何でもない、と言ってしまうことは簡単だった。もう一度はぐらかしたら、きっと千早は踏み込んでこないだろうから。
だけど、ちゃんと言った方がいい気がした。
「何もやらずにいると、暗いことばっかり考えてるんだ。だから課題もちょっと残してるし、何も考えないで済む時間が欲しくて」
きっと本当は、ずっと聞いて欲しかったんだ。自分が抱えている物思いのこと。誰かに聞いてもらわないと、ずっと解決しないような気がしてたんだ。
『…ごめん、さっきの嘘。私も寝られなかった』
気のせいかもしれない。だけど俺にはその告白は深刻そうに聞こえて、どんな声をかけたらいいのかわからなくなる。
『生活習慣って、一回ズレちゃうとどうにもならないね』
軽い口調に変わったものの、言いたいことはそんなことじゃないだろうということは、最初の声色でわかる。俺はただ黙って続きの言葉を待っていた。
『乗り越えられたつもりだったんだけど、やっぱりあれは宮城がいてくれたからだったんだろうなぁって。一人でいるとずっと考えちゃって、本当によくないよね』
なるべく重い空気にならないようにだろうか、空笑いを交えながら語る千早の声は、痛々しいほどに助けを求めているように聞こえる。
『だから、今日は電話できただけでもよかった。ありがとう』
「あのさ」
考えるよりも先に声が出ていた。
「雨の中でする花火も、別に楽しめると思わない?」
自分でも、何を言っているのかはよくわからない。だけど会わなきゃいけない。こんな話をしてくれたということは、頼れるのが俺しかいないということなんだろうと思うから。そんな自意識過剰を信じてでも、千早の心を軽くしてあげたかった。
『本当にいいの?』
「よくなきゃ言わないよ。しよう、花火」
『…ありがとう、いつも』
こちらこそ、いつもありがとう。千早のおかげで何度も救われている。それは伝えてもいいことかどうかわからなくて、どういたしまして、とだけ答える。
俺が人に向ける感情のほとんどが迷惑で不必要だと考えていること、いつになったらやめられるんだろう。実際、迷惑だと思われる方がマシなくらい、無関心でいられるのが怖いだけだ。誰も自分に興味がなくて、ずっと孤独だと思ってはいても、それが事実だと突きつけられるのが怖いだけ。
「集合は何時にする?」
『うーん、6時くらいでいいかな』
「6時?この時期じゃ、まだ明るいんじゃないかな」
『別にいいじゃん。お話して、夜を待とうよ』
だから、こんな会話で少し救われた気がしてしまう。俺と話をしたい人間もこの世にはいるんだ、俺は一人じゃないんだ。少し大袈裟かもしれないけれど、確かにそう思えてくる。
「じゃあ、6時で。というか、場所すら決めてない気がする」
『本当だ。雰囲気だけで花火しようってなってたね』
「河川敷って、花火禁止なのかな」
『あー、学校の近くの?いいんじゃないかな、分からないけど』
「まぁ、駄目だったら謝ればいいもんね。そこ集合にしよう」
『うん。じゃあ、また夜』
電話が切れて、部屋に一人きりになる。充満していたはずの憂鬱感はどこかに消え去っていて、相も変わらず雨は降り続いているのに、冬晴れの日のような爽快感が残っていた。
千早には救われてばかりな気がする。俺が眩しいと思っているだけで、千早だって一人の人間だ。落ち込んだり、憂鬱になったりすることもあるだろう。失恋したてなんて、きっとそうなんだろうと思う。
俺が恋愛のことを考えるとき、それは全て想像になってしまうからというわけではなく、自分にできないものだと思っているから、神話とかSFのことを考えているときのような、この世に存在しないものに決まった形なんてない、みたいな着地点に終始する。存在しないわけじゃないのはわかっているし、歴史上それが積み重なってきたことで今ここに俺がいることは間違いないんだけど、なんとなく同じ世界のできごとだとは思えないでいる。だから俺は、深く考えすぎないようにブレーキをかける。何もわかっていないのにわかったような口振りをしてしまうことは、千早をつらくさせるだけだろうから。対人関係は自分と相手の価値観の相違をどう埋めるかなんだろうなとか、お互いの将来を想う決断が違ったなら、それはもう割り切るしかないんじゃないかなとか、そんなことを言い出さないように。
できる限り引き延ばそうと思っていた課題のうちのひとつを終わらせると、ちょうど母が帰ってきたみたいだった。部屋の冷房をつけるともったいないと怒られるので、そろそろ帰ってくると思って30分前につけた、みたいな言い訳をするためにリビングにいたので、顔を合わせるしかない。
「おかえり」
「ただいま。部屋、冷やしといてくれたの。ありがとう」
「あぁ、うん」
おざなりに返事をして、すぐにリビングを出る。部屋に戻ってきて、6時頃に家を出ることを伝えなければいけなかったと気付く。なんというか、頭が真っ白になる。言いたいこと、言わなきゃいけないことよりも、早くこの時間が終わってしまえばいい、どんな形であれ一人になりたいが先に来てしまう。
「俺、今から家出るから。遅くなるかも」
「お友達?」
「うん、まぁ、そんなところ」
引き返して用事を伝えるのって、なんというかバツが悪い。手短に伝えてすぐに家を出ようとすると、リビングから声がした。
「女の子なら、そんなに遅くならないようにね」
友達、をはぐらかしたのは、あまりよくなかったかもしれない。言うべきことが見当たらなかったので、返事をせずに家を出る。
温い風が全身を撫でるように吹いていて、立っているだけで汗が滲んでくるような猛暑だ。暑さのピークを過ぎてもこの調子なんだから、明日もきっと暑いんだろう。どうせ家を出ないから関係ないけど。
商店街を通るとき、窓ガラスに映る自分の姿を見て、何のこだわりもない服を着ているな、と思う。中学生になってようやく自分で服を買うようになったものの、お世辞にもセンスがいいとは言えなくて、つまらない色、つまらない形の、何に分類されるかもよくわからない服を着ている。ファッションを楽しめる人間を羨ましいとは思っても、そうなりたいとは思えない。いくら着飾ってみたところで、所詮俺は俺だから。
歩きながらそんなことを考えていると、そう思う時点で少しはお洒落をしたいという気持ちもあるんだ、という第三者目線の感想が浮かんでくる。俺がもしお洒落だったら何か変わったのかなとか、自分にないものを求めているだけなんだろうけど。
駅に着いて、いつも通り電車に乗る。ここも慣れ親しんだ場所になってきた。2年前までは、よほどの用事でもないと電車なんて乗らなかったのに。歳を重ねるごとに行動範囲を広げていかなきゃいけないことは、少し苦痛で、少しわくわくする。まだ知らない何かに対する恐怖と期待を、ずっと抱えながら生きられたらいいとすら思う。大人になったらきっと、そんなことは思わなくなるだろうから。
車窓からの景色が移り変わっていって、高架橋を通過するときに見える街が、思ったよりも小さいこと。立ち並ぶビルの奥に見える山や田んぼが、思ったよりも大きいこと。その全てが夕焼けに照らされてオレンジ色に染まる景色に、涙を流しそうになったこと。当たり前に揺られる電車の中でそんな感慨を全部引き出されて、俺もちゃんと生きているんだなぁと思える日があることに、ずっと感謝していたい。
電車を降りる。学校もないのにこの駅で降りるのは、なんというか不思議な感覚だ。必要に追われて選び取らされているものを、自分から選ぶことになるとは。
必要のないときに来るこの場所は、やっぱりいい街だなぁと思う。傘がなければ、もっといい景色に見えていただろう。
世界は意外に広くて、思っているより眩しい場所だ。それを理解しているだけでも、今日までの日々は無駄じゃなかったんだと思う。
「こんばんは」
高架下の斜面に佇んでいた千早はこちらに気付いて、小さく手を振って挨拶をした。そんなところに座り込んだら服が濡れていそうだなぁと思いながら俺も同じ言葉を返して、隣に座る。
「どんな花火があるでしょう!」
薄くて大きい、夏休み然としたパッケージに包まれているのはどう見ても手持ち花火で、どんなものがあるのかは容易に想像できた。
「なんか、すごい光るやつとか?」
ただ、それを上手に言語化できる能力が俺にはなかった。なんかすごい光るやつと、あまり光らないやつと、線香花火。そのくらいしか、手持ち花火を比較する語彙を持ち合わせていない。
「まぁ、そういうのもあるだろうけどさ。違うじゃん、もっとこう、キラキラしてるやつとか、パチパチしてるやつとかさ」
俺の表現が不満そうな割には、千早の語彙も乏しかった。
「あと、折りたためるバケツも持ってきた。これで文句言われる筋合いはないね」
千早は周りを見回しながら言うが、別に始末ができることと音や煙の害は何の関係もない。怒られるときは怒られるものなんだと思う。
「まぁ、備えないよりはいいんじゃないかな」
何も用意してこなかったくせに、偉そうに聞こえる言い方をしてしまった。こういうところが人間関係が上手くいかない原因なんじゃないかと思う。思うだけで、今後もやるんだろうけど。
「ねぇ、蝋燭つかないんだけど」
そんな物思いにふける俺のことはお構いなしに、千早は蝋燭の準備をしていた。今日は雨なんだから使えるわけがない。少し考えればわかるだろうに。
「ライターで直接つけたら?」
俺が言うと、千早はびくびくしながら火をつけ始める。そんなに怯えなくても、と思いはしたが、面白いので黙っていた。
やがて花火は、光が弾けるように輝き始めた。
「うわー、凄い綺麗!」
何度見ても、やっぱり綺麗だ。打ち上げ花火よりも手持ち花火の方が綺麗だと思うのは、それが手が届く光だからだろうか。それとも、色を変えながら、長続きせずに終わっていく儚さゆえだろうか。どちらでもないかもしれないし、そのどちらも理由なのかもしれない。
まぁ、どっちだっていい。とにかく、雨がどうでもよくなるくらいには楽しいから。
「そういえばさ、宮城は夏の思い出とかないの?」
5本、6本と花火を消費していくうち、飽きてきて作業じみてくるのも風物詩だよなぁと思っていると、そんな話を振られる。
「夏、かぁ。あぁ、あるにはあるよ」
俺にとってはトラウマに近いような、それ以前とそれ以後で性格が変わってしまうくらいのできごとが、あるにはある。
「でも、話すほどのことじゃないから」
釘を刺すように、冷たい声で言う。それでも踏み込んでくるようなら、別に話してもいいなと思いながら。俺にとって深入りされたくないというのはお互いのための防衛線だ。一度いろんなことを知られてしまえば、その人に対して遠慮はなくなっていくだろうし、ここまでさらけ出したんだからもう友達、みたいな、自分勝手な価値観を押し付けてしまうことにもなりかねない。だから、踏み込みづらい雰囲気は出しておくし、踏み込まれたくないという顔をしておく。
「ふーん…なんか、深刻なやつなんだ」
視線を花火から逸らして、千早は続ける。
「聞かせてよ、宮城のことも」
胸がざわめくのを感じて、俺は言葉に詰まる。踏み込んでくるとは思っていなかった。なんとなく距離を置いて、話を逸らしてくれるだろうと考えていたくらいだ。
「まぁ、別にいいんだけどさ。全然面白い話じゃないよ」
そう前置きして、自分の話を始める。話そうと思ってみるまで、こんなに緊張するものだとは思っていなかった。それくらいに人との関わりを避けて、深い付き合いになるのを避けてきたんだなぁと自分を恥じる。
「去年の夏休み、花火大会に行ったんだ」
「いいじゃん、花火。誰と?」
「同じ小学校の、なんていうか、仲が良かった人達」
良かった、という部分を強調して話す。きっと数年後には、名前も思い出せなくなるような人達。
「うんうん。それで?」
「で、打ち上げ花火が終わったあと、手持ち花火をやろうって話になって。ちょうど今日みたいにさ」
あのときまでは、確かに俺は幸せだった。久しぶりに会った友達と楽しく花火を見て、二次会みたいに手持ち花火に移行して、思い出話でもして、大人になっても遊んでいようみたいな話をして、それを美しい思い出にできると思っていた。
「え〜、私も混ざりたかったな」
「そのときはまだ千早のこと、同じクラスってことしか知らなかったから」
冗談くらいは言えるんだな、と思う。今も呼吸が浅くなって、早く逃げ出したいくらいなのに。
「で、花火をしながら思い出話をしてたんだけど。小学生のときって男女なんか気にしないで遊んでたから、その輪の中に女子もいてさ」
「え、正直意外かも」
「俺もそう思う。今じゃ考えられないよ」
あのときのことがなかったら、今も俺は女子と話せていたりしたんだろうか。同じことが起こるなんて思うほど自意識過剰ではないが、苦手になってしまったことは確かだ。
「ほら、夏の夜って解放的になるじゃん。線香花火なんて、その際たるものだし。だからきっと、言えないでいたことを言えるタイミングだったんだろうね。昔から俺のことが好きだったし、今も好きだって言ってくれる子がいて」
頭に浮かぶそのときの光景は、靄がかかったみたいに不鮮明だ。きっと心のどこかの機関が、このトラウマにも近い記憶を封印しているんだろうと思う。
「おぉ。青春だ」
大袈裟にリアクションを取る千早にも笑ってあげられないまま、俺は話の続きを必死に考える。内心を吐露したり、トラウマをさらけ出したりするとき、どうにかして笑ってもらえる程度の話に収めようとする癖は、きっといつまでもやめられないんだと思う。心配されたり同情されたりすることが居た堪れないから。
「でも俺にはよくわからなくて。恋愛感情とか、そういうの。だからよくわからないって正直に伝えたら、その子泣き出しちゃって」
ヘラヘラするな、と自分で自分に苛立ちを覚える。だけど、軽々しい態度はやめられない。頭の中を、吐き気を催すほどの色んな感情が渦巻いている。それを悟られないようにすることだけに躍起になっていることが情けなくて、泣いてしまいそうになる。
「今考えたら、人の感情ってそんなもんだって割り切れるのにね」
嘘だ。俺はずっと気にしている。気持ちに応えられないことを申し訳なく思って、それでも正直に伝えたときの、あの子のあの表情のことを。わかっていたけど割り切れない、そんな見ているこっちの胸が張り裂けそうになる悲痛な表情と、それでもその気持ちに報いようとは思えなかったことを。
俺はまだ、あのときの気持ちを乗り越えられていない。
「まぁ、難しいよね、恋愛って」
千早がひとつため息をついたあと、会話は止まってしまう。俺は俺で物思いに浸って、千早は千早で何か考えているんだろう。
そういえば、千早と俺の立場は全く逆だ。千早は愛されたいと思うのに愛されなくて、俺は愛したいと思うのに愛せない。そんな凹凸が上手くはまって、今仲良くできているのかもしれない。全く逆のベクトルでも、幸せじゃないことは同じだから。人を愛することができるからつらいのと、人を愛することができないからつらいのでは、解決方法は違うんだろうけど。
「宮城はさ、きっとちゃんと恋愛できるよ」
千早はこちらを向かないまま言う。そうは思えなくて反論しようとすると、すぐさま次の言葉が紡がれる。
「そういう経験を引きずってるくらい、人を大切にできるんだから」
この1年、ずっと気にしていた。もしあのとき付き合っていたら、その後でもあの子を好きになれたりしたんじゃないか、とか。好きになってくれた人にも何も返してあげられない、価値のない人間だと思ってしまう日すらあった。
それでもたった一言千早にこう言ってもらえるだけで、俺のそんな日々は救われたような気がする。きっとずっと、誰かにそう言ってもらいたかったんだと思う。お前は何かが欠けてるわけじゃないと言ってもらいたかったんだと思う。
「私だってこの間が初恋だし、それも上手くいかなかったから、言い切れるわけじゃないけどさ」
そんなことない、そう言ってあげたかった。だけど俺は口を閉ざして、その言葉がただ空気に溶けてしまうのを待った。
言わなかったんじゃない。言えなかったんだと思う。俺は何もわからないから。それでもこうして俺を励ましてくれる人にも、何も返してあげられない。
「…花火、続きしよっか」
言われるがまま、残りの花火を消費しにかかる。とは言っても線香花火が数本残っているだけで、すぐに終わってしまいそうだ。
熱の雫のような頼りない光が、それでも力強くあたりに火花を散らしながら輝いている。それは世の中のどんな光よりも幻想的で、夢みたいだなと思うことすらある。
子供の頃から、線香花火が好きだったような気がする。美しい思い出と、この間瘡蓋になったばかりの傷みたいなじんわりとした痛み。
この火の玉に、俺はいくつの思い出を乗せるんだろうか。きっと今日のことも、そのひとつになっていくんだろうな。
「宮城はきっと、花火をしたら思い出しちゃうだろうなって気にしてたと思うけど、今日、それでも私と花火をしてくれたこと、すごく嬉しいって思っちゃう」
千早の表情は、暗くてよくわからない。ただ、表情を伺おうとする程度にはいつもの声色じゃないことはわかる。
「私、もう夏にやりたいことなんてなくなっちゃったけど、それでも遊んでくれる?」
「もちろん」
別に、千早とするならなんだって楽しいし。言いはしなくても、きっと伝わっているんだろうなと思う。俺がちゃんと楽しんでいることくらいは。
「というか、花火大会とかもあるだろうけど、それは行かなくていいの?」
「好きじゃないんだ、花火大会。行かせてもらえなくて、窓から眺めてた頃のことを思い出すから」
人の家庭って、本当に様々なんだなと思う。千早はとてもいい人間だから、きっといい家庭で育って、後悔なんてこの間の失恋が初めてなんだろうなくらいに思っていたことを恥じる。きっと人知れず色々抱えて、乗り越えられないことだってあって、それでも笑って過ごしているんだってことを、考えたこともなかった。
「…行こうよ。俺と行ったらきっと楽しいよ」
だけど、抱えてしまったことはいつか乗り越えられる。明けない夜がないように、止まない雨がないように。千早の一助になれることが、俺にできるようなことが何かあるなら。それは寄り添ってあげることだと思うし、踏み出す勇気をあげることだと思うから。
「そう言ってくれるって思ってた。宮城を好きになった子、きっと見る目があったんだね」
できる限り冗談めかして言ったつもりだったのに、それでも恥ずかしくなってしまう。あまりにもキザで、あまりにも軽薄そうなセリフだった、と頭を抱える。一人だったらもっと足をじたばたさせて、クッションでも抱いていたんだろうと思う。
「来週の日曜日なんだって。ちゃんと調べたんだよ」
そう言って、千早はスマホの画面を見せる。納涼花火大会、とやかましいくらい賑やかなフォントで書かれた文字が目を引くサイトだ。もう少し控えめでもいいんじゃないだろうか。1万発も上がらないような規模の大会なんだし。
でも、なんというか。
「楽しそうだね。空けておくよ。もともと空いてるけど」
素直に行きたいなと思える。きっと相手が千早だからなんだろうと思う。去年の俺がした後悔が救われた気がするのは、きっと千早の言葉が優しいからだけじゃない。あの子に誘われても、俺は行きたくならなかっただろうから。俺の判断は間違っていなかったって、心の底から思えるからだ。
「約束ね。絶対だよ」
千早は俺の小指に自分の小指を絡ませた。指切りげんまん、何年ぶりだろう。恥ずかしくて歌えはしないけど、嫌な気分じゃない。
「じゃあ、片付けて帰ろう」
少し焦げたような匂いと、ついさっきまで光り輝いていたものだとは思えない無機質な棒が刺さった、水の入ったバケツ。花火の最後って、毎回寂しいような気がする。それはまた来年もやりたいなと思わせてくれるから、結構好きだった。
「水はもう捨てていいんじゃないかな」
最初にも声を掛けようと思ったが、たかだかひと袋の花火をやるのにこんなになみなみ水を入れなくてもいいと思うし、それを全部持ち帰ろうとしなくてもいいと思う。
「あ、そっか。どうせ蒸発するもんね」
なんというか、千早のこういう抜けた部分に触れると、心が暖かくなる。俺と同じで知らないこともあるんだなぁと身近に感じられるというか。
「私、手持ち花火って初めてで」
「…なんか、本当に俺なんかでよかったの?」
慣れてないんだろうなとは思ったものの、いざ言葉にされると、やっぱり戸惑ってしまう。自分なんかが初めてでいいんだろうか、とか。
「宮城でよかった。本音だよ」
でも、こうやってまっすぐ笑う千早を見ていると、そんな自分にも自信を持ててしまうんだから不思議だ。俺はここにいてもいいんだと胸を張って言えるくらいに、千早の言葉に嘘はないように思えた。
夏の夜道が好きだ。虫の声が一番うるさい季節のはずなのに、やけに静かに感じられるから。触れる風が少しだけ涼しくて、それだけで外に出てよかったと思えるから。何よりも四季で一番短い夜を、大事にしたいと思えるから。この湿った空気も蝉の声も、ここにしかない特別なものだ。自販機に虫がたかるのは、本当にやめてほしいけど。
「明日も暑いのかな」
「どうだろうね、急に涼しくはならないと思うけど」
「やだなぁ〜。明日塾なんだよね」
やっぱり成績いいやつってちゃんと努力してるんだなぁ。俺は何もしてないし、それに危機感も抱いていないというのに。
「用事なくてラッキー。エアコンの効いた部屋でごろごろしようかな」
こういうことを言っているとき、俺の表情は一番輝いていると思う。性格が悪いなと思いつつ、嫌いになれない一面た。
「ずるい、替わってよ」
「学校の授業でさえついていけないのに、塾でやってることなんてわかるわけないよ」
笑いながら歩数を重ねる度に、もう少し続けばいい、と思ってしまう。この時間が、この空間が、この関係性が。一歩踏み出す度に終わっていく今日を、どこか寂しいと思っている。
「来週、楽しみだね」
「楽しみ。人生でこれ以上ないくらい」
嘘じゃない。少し先の予定がこんなに楽しみなことが、そう何度もあるとは思えない。
「大袈裟だな〜」
けらけらと笑う千早は、やっぱりなんというか、千早らしくていい。ずっとそうやって笑っていてほしいと思う。俺の話を真剣な顔で聞いてくれるのもありがたいけど、それでも千早には笑顔が似合う。幸せそうな、一点の曇りもない笑顔が。
楽しい時間が一瞬で過ぎてしまうのは、いくつになっても変わらないのかもしれない。この年になっても、もう駅に着いたんだ、とびっくりしてしまう。
「じゃあ、また来週」
俺がそう言うと、千早は嬉しそうに笑う。水族館のときのことを覚えていてよかった、と思う。じゃあねじゃなくて、またねがいい。そんな気持ちを理解できるようになってきた。
「また来週って、テレビ番組みたいだね」
まぁ、照れ隠しの余計な一言は添えるけど。きっとそれでいいんだろうと思う。その方が俺らしい。こんなことを言っているうちは、あんまり人との関わりも増えないかもしれないな。
「いいんだよ。また会おうねって伝えることが大事なんだから」
その通りだと思う。上手に話したり、綺麗な言葉を探したりすることよりも、思っていることをちゃんと伝えられることの方が大事なんだ。それがたとえ、少しわかりづらくなってしまったとしても。
「また来週。おやすみ」
そう言って反対側のホームに消えていく千早を見送って、俺は一人になる。今日は不思議と、脳内反省会は開かれなかった。いつもなら気にしてしまうような話をしたにも関わらず。それはとても嬉しくて、庭先にとても綺麗な花が咲いたみたいな、思いがけない幸福を感じる。俺って幸せなやつなんだなぁと皮肉めいた視点を持つことは変わらないけれど、それすらも愛おしく感じる。俺は簡単に幸せになれる、どうだ羨ましいだろう、と思うと、そんな思考は逃げるようにどこかに消えてしまった。
「おかえり。楽しかったか?」
家に着くと、珍しく父が話しかけてきた。それなりに、と返すと、楽しかったって顔に書いてあるぞ、とからかわれる。
「お前も、ちょっと遅くまで遊んだりする歳になったんだなぁ」
しみじみと、嬉しそうに呟いた父の目があまりにも優しくて、俺は目を逸らしてしまう。ありがとう、2人のおかげだよ、と伝えられるような日が来たら、俺は本当に幸せになれるんだろうな。
俺はきっと恵まれているんだ。人にも環境にも。
「でも、あんまり遅くまで遊んだらダメだからな」
ちゃんと釘も刺すあたり、大人なんだなぁと思う。どうしようもなく埋まらない経験値の差を改めて感じる。返事もほどほどに、俺は自室に帰ってきた。
大人って、なんなんだろう。少しポジティブに考えてみる。問題を解決するためのサンプルケースが豊富で、余裕があるから人に目を向けられて、当たり前に愛情を持って人と接する事ができて。人のよりよい未来のために、自信を持って助言ができたり、支えになってあげられたりするような人。俺の理想とする大人像って、誰に憧れているものなんだろう。それが両親だったりしたら、少し照れくさいような気がする。だけど、ちゃんと嬉しいと思える。あの人達に支えられて生きていることが、とても幸せなことなんだと自覚できているような気がして。
考えてみれば早く大人になりたいと思わないことも、大人への第一歩なのかもしれない。時間って、そんなにたくさんあるものじゃないから。色んな経験をして、挑戦をして、苦難を乗り越えて。なるべくして大人になりたいと思う。いつの間にかなってしまっても、それを肯定できるくらいには。
今の俺には何もかもが足りないが、焦ったって仕方がない。為すべきことを為すために、やるべきことをやらなくちゃ。だから今は、子供をちゃんとやらなきゃいけないんだと思う。大人になってから、あのときは楽しかったと胸を張れるくらい。反抗期も思春期も、そんな心の揺れ動きも全部含めて、だんだん自分のことを知って。そうやって少しずつ大人になれたらいい。どんな着地点にいても、自分を嫌いにならないように。今の自分も未来の自分にとっては必要な通過点だったと思い出に浸れるような、そんな子供時代にしたい。だから今やるべきことは、来週の花火大会をちゃんと楽しむことだと思うし、その為に課題を終わらせてしまうことだ。先延ばしにし続けて、いざできあがったものに義務感なんて名前をつけないくらい、真剣に目の前の課題に臨むべきなんだ。教えてもらわないと何もできないなんて不安に押しつぶされる前に、まずはやってみるべきなんだ。目の前のことをちゃんとやっていった先に輝かしい未来があると信じられるうちに。
だけど今日は疲れてしまったし、早く来週にならないかなとも思う。そう思っている限りはまだ、俺は全然子供なのかもしれない。でも、今はそれでいいんだと思うし、この気持ちはなくさないでいたいな。そう思いながら、俺は目を閉じた。
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