第2話・アザちゃんとウメ先輩

 高校入学と同時にバイトを始めたのは、父親が怖かったから。

 私自身に何かをされたわけではないけれど、一つ年上の兄は毎日のように叱責や指導——と称した暴力——を受けていて、そのくせ私の前ではキョトンと普通の父親面しているのが――その豹変性が――怖くてしかたなかった。

 早く、この家を出たい。

 私はどの教科よりも真剣に家庭科の授業を受けて、大学進学にしても就職するにしても、ひとり暮らしをするなら纏まった金が必要なのを中学生ながら十分理解した。

 そして金を得るためには働く必要があり、女子高生が真っ当な方法で金を稼ぐ方法は限られている。

 そんなこんなで初めてのバイトにコンビニを選んだのだけど、大した理由はない。学校と家から近くて、希望の時間帯で人を募集していたからだ。

「よろしくね、岡島さん!」

「よろしくお願いします」

 日曜日、初めての出勤日。私はアザちゃんと同じシフトだった。8時から17時まで。バックヤードには店長が常駐していて、肥えた体を丸めて小さなノートパソコンと向き合っている。

「同じことも三回までだったら聞いていいよ! 四回目以降は料金が発生します」

「いくらですか?」

「えっ?」

 悪戯イタズラに笑うアザちゃん。今なら冗談だとわかるけれど、当時の私は緊張しており、面白みのない返ししかできなかった。……いや、緊張していなかったとしてもそれは変わらないか。

「えっと…………じゃあ恋バナ付き合ってもらう権! ここメンズばっかだからさぁ~」

 アザちゃん――あざみ 由多加ゆたか先輩――は当時大学四年生。

 地元には希望の学部がなく、大学進学と共に静岡から横浜に越してきたらしい。ウサギみたいに可愛らしく機敏で、いつでも夏祭りにいるみたいにいろんな種類の笑みを浮かべている。

「なんのお役にも立てなさそうですけど……それでいいなら」

「やったぁ! それじゃあなんでもじゃんじゃん聞いてね!」

 国道沿いのコンビニでは露骨なアイドルタイムがあって。品出しも掃除も発注も終えてしまえば、お客さんが来ない限りとにかく暇だった。だから私はアザちゃんと、それはもう喋った。喋り尽くした。

 来る日も来る日も、アザちゃんとシフトが被った日は、お客さん全体よりアザちゃん一人との会話量の方が多かったかもしれない。

 快活で、思いやりがあって、お姉さんぶるのに妹みたいなアザちゃんを大好きになるまで、そう時間はかからなかった。

「そんでね、そんときのウメちゃんがさぁ~」

 はじめは互いに学校や家族のことを語っていたけれど、だんだんと話題は、アザちゃんの好きな日常系アニメか、『ウメちゃん』についてが中心になっていた。

 と、いうのも。

 私がこのコンビニでバイトを始めたとき、二人――アザちゃんとウメ先輩――は、ちょうど、実に気まずい距離感を保っている最中さなかだったから。


×


 ウメ先輩――梅窪うめくぼ 美嘉みか先輩――は高校卒業後、フリーターとしてこのコンビニで働いている。

 店長曰く、朝、昼、夕、夜、どの時間帯もどんな業務も完璧にこなせる神。接客はドライながら不快感はなく、一度もクレームを受けたことはないという。『でも素人が真似すると絶対クレームくるから、接客だけはアザちゃんを見習ってね』と言わせるほど。

 アザちゃんと同い年とは思えない程大人びていて、鮮やかな金髪の隙間から覗くじっとり濡れたように圧のある瞳が特徴的だった。

 それと、香り。ウメ先輩は近づくとハワイの匂いがした。ハワイなんて行ったこと無いけれど。ハワイアンショップの入り口から必ず漂っているあの香り。

「最近さ」

 週三回シフトが被るアザちゃんと違って、ウメ先輩とは週一でしか一緒にならないし、なってもそんなに話すこともなかった。

 のに。

 その日はウメ先輩が珍しく、ポツリと私に話しかけてきた。少し怯む私へ、ウメ先輩はどこかやりづらそうに続ける。

「アザミがアンタの話ばっかしてるよ」

 タバコのカートンを崩して棚に補充しながら、ウメ先輩は私を見ずに言う。コーヒーの紙コップを補充していた私は、「はぁ」とだけ間の抜けた返事をした。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………なんですか?」

 チラチラと、特徴的な瞳が何度も私を横切る。いかにも何か話したそうで、そして話しかけられたそうで根負けしてしまった。

「アザミ、アンタに…………その、なにか、私の話とか……してる?」

 あぁ、と。

 うつむいた拍子に隠れてしまった瞳と、隠しきれない赤面を見て、私はあぁと理解――確信する。

「してますよ、しょっちゅう」

「っ、そ、そう」

 ――この人、アザちゃんのこと好きなんだ。

 そう、心の中で言葉にした途端、今までなんだか怖いなぁと思っていたウメ先輩へ――むくむくと親近感や愛おしさが芽生えた。


×


 アザちゃんから聞いた話によると、二人はほぼ同時期にこのコンビニで働き始めたそうだ。

 大学生として学業や部活の傍ら働くアザちゃんと、コンビニでフルタイム勤務しているウメ先輩。違う生き方をしているせいもあってか最初は距離があったけれど、同い年パワーは強く、だんだん話すようになって、三ヶ月もすれば二人で遊びに行くようにもなった。

 中でもアザちゃんのお気に入りは、ウメ先輩の車で海岸線を走るだけのドライブとのこと。

 よく喋るアザちゃんの横で、話に耳を傾けながらハンドルを握り、小さく微笑んでいるウメ先輩の姿が目に浮かぶ。

 しかし、そんな二人が今、気まずい距離感にいるのなら一大事だ。

「んーとね、別にそんな変な話じゃないんだけど~」照れて変にはぐらかすアザちゃん。

「アザミ、なんか言ってた? そう、わかった」隙あらば私からアザちゃんの情報を得ようとするウメ先輩。

 節々をポツポツと話すくせになかなか核心を見せない二人から私は根気強く聴取し続け――

「ビックリはしたんだけど~もしかしたら私の勘違いかもしれないし~」持ち前の快活さでも払拭できないモヤモヤに唸るアザちゃん。

「正直、理性があった記憶がある。……でも……なかったことにしたい……」

 ――ようやく見えた気まずさの原因はズバリ、カラオケで軽く酔ったウメ先輩がアザちゃんにキスをしようとした。

 未遂だし、なんならただの惚気のろけだし、私は安堵して大見得を切った。

「任せてください」

 アザちゃんとウメ先輩へ放った、同じトーンの同じセリフ。

 なんとかして二人の気まずさを解消する。その一心は、第三者であるはずの私の行動力や思考回路をプラスにしてくれた。

 家に帰れば不和の空気で息が詰まり、学校では授業で置いて行かれないように必死で、部活はしておらず親しい友達もいない。

 このコンビニで過ごす時間が――アザちゃんとウメ先輩と過ごす時間が――人生に彩りを与えてくれていた。

 大好きな二人の役に立ちたい。大好きな二人の笑顔が見たい。

 そう思えば思うほど力が湧いてきて、ときどき、どうしようもなく胸が痛んだ。

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