おまけ

第19話 試験期間、部活制限中

 コの字型に配置された長机で、えみりは僕の右斜め前の机にプリントを広げていた。えみりはプリントを片手に目をとじて、唇をかすかに動かして、声にならない声を出している。手元のプリントは古文だろうか。十秒ほどして薄くまぶたを開き、直ぐに目を閉じてまた唇を動かす。暗唱しているようで、さきほどから五分はそれを続けている。僕は手元にある数学のプリントに目を落とし、三角比をいくらかいじると、気がつけばまたえみりに目を向けていた。中間試験の近づく中、本来部活動は休止期間だが、校舎の片隅にある我が部室には見回りさえろくにこない。来たところで自習室代わりに使うことを咎められることはないだろう。普段なら騒がしいグラウンドも静かで、時折風の音や車の音は窓から響くが、僕がペンを動かしさえしなければ、えみりの喉を通るかすかな空気の震えもわずかに感じられるようだった。

 まつげの長さ、厚い唇。広く額を出したポニーテールは、座っている限りさほど揺れ動きもしない。背も高いが首も僕よりは長そうだ。右手に持ったプリントが時々揺れ動き、その手のひらの色が他の肌に比べて白いことに気がつく。手のひらは全ての人類でメラトニンが少なく、色に人種差は少ないらしい。爪もそうだ。えみりの場合は爪はなにか塗っているらしく、不自然ではない範囲で明るいピンクをしているけれど。

 えみりは僕の視線に気がついていることだろう。最初は気づかれないようにしなければと思って何度か無理に数学に挑もうとしたが、えみりの引力以上に三角比の持つ斥力に弾き飛ばされて、僕の視線も思考もえみりの方に向いてしまっている。僕は不躾な視線を向けてしまっているのだろうか。アセクシャルを公言したのは、そういう目で見られたくないからではないだろうか。なら、僕はさっさとこの感情を捨てて、何処か別の恋愛対象でも見つけるべきなのだろう。内心は自由だ。しかし、この視線は内心の範疇に収まるものでもないのではないだろうか。

 好みのタイプなのかといえば、たぶんそうではない。これまでに恋愛感情を抱いた経験が多い訳では無いが、少なくとも周りにえみりのような人間はかつていなかった。それは見た目も、性格もそうだ。エロ画像も家族に見つからない範囲で触れない訳では無いが、海外サイトだって概ね「japanese」で検索をかけていた。いやえみりは日本国籍かもしれないのだが。

 しいていえば、その黒く真っ直ぐな長い髪は、そういう対象として、身に覚えがあった。髪フェチなのだろうか、僕は。

 えみりがアセクシャルでなければ、僕はここまでの魅力を感じたのだろうか。手に入らないからこそ、魅力を感じてしまっているのではないだろうか。いや、アセクシャルでなければこれほど積極的で人当たりの良いえみりなら、恋人ぐらいいるだろう。出会った時点で恋人がいれば、手に入らないという点ではあまりかわらない。そのとき、僕はえみりに今ほどの魅力を覚えない? いや、そうではない。そもそもえみりがアセクシャルであるというのはその本質であり、そこが違っていたら、という仮定が、酷く失礼で、その性指向の否定につながるものだ。そうじゃないし、そうであるべきでもない。ただ僕はいまえみりに惹かれていて、理性的な分析はともかく、この感情をどう整理していいかわからないだけなのだ。

「ぼーっとしてるね、拓真」

 えみりはいつの間にかプリントを机におろしていた。すでに僕はえみりを見てさえいなかったらしい。

「わからないから教えようか? 数学」

「わからなくはないんですけど、飽きて」

「余裕だね」

「余裕はないんですけどね」

 数学の授業中は進藤の件にだいぶ意識を持っていかれていた。すでにいくつか出題濃厚な問題は示されており、そのノートは進藤からもらっていたが、頭にはあまり入っていない。答えにだけ接すると思考過程はむしろ奪われてしまう。

「数学は得意なの?」

「いえ、正直苦手です」

「一つずつわかることを確認することと、求めたい答えに必要な条件をはっきりさせていくことだよ。公式も覚える必要はなく、原理原則を確認して変形させれば大体は答えが出るものだ。あとは慣れだね」

「慣れ、ですか」

「そう。経験を積むしかないよ、焦らずにね」

 なにか比喩的に諭されているのだろうか。途中まではえみりを見つめていたことは確かで、それには気づかれていることだろう。

「えみりさんは古文ずっとやってましたよね? 苦手なんですか」

「いや、むしろ好きだからやっていた感じだね」

 その返答は少し意外だった。

「古文、好きなんですか?」

「好きだね。得意だし」

「どのへんが?」

 えみりは僕を見て、珍しく困ったような顔を浮かべる。

「英語や数学は、私がいい点数をとっても色々言われるからね。古文や漢文は概ねフェアなんだよ。スタートラインが、みんなにとって」

 そういって、えみりは視線を落とした。インド系アメリカ人であるえみりは、英語や数学の成績を、そのルーツや環境に求められてしまう。実際にどうであるかは、関係なく。

「変な話をしたね。数学、分からなかったらヒントぐらいはあげるから、遠慮なく聞いてくれ」

「ありがとうございます」

「中間試験が終わったら、今学期中にあと2回は新聞かなにか出したいからね。試験程度で時間を取ってもらっては困るよ」

 それなりにマスコミ研究会として活動する気はあるようだ。しかし次は何を取り上げようというのだろうか。

「試験」

「うん?」

「試験終わったらネタ出しですかね」

 えみりは僕をじっと見て、満面の笑みを浮かべる。

「いいねぇ積極性のある後輩が来てくれて嬉しいよ。さあ、試験勉強頑張ろうじゃないか」

 そういって快活に笑うと、えみりはまた別のプリントを机の上から拾い上げ、少し眺めて腕を組み、暗誦を始める。その横顔は、やはり美しく思えた。

「えみりさん」

「なに?」

 えみりは目を閉じたまま答える。

「BGMがあったほうが落ち着くんで、もう少し声出しても大丈夫ですよ。かえって気になっちゃうんで」

 えみりは少し驚いたように目を開けた。そしてプリントに目を通し、顔は前を向いたまま、目だけ僕に向けた。

「それは、ちょっと恥ずかしいから嫌だな。気になるなら音楽でも聞いてくれ」

 なんだ、それ。僕は驚いてえみりの横顔を見る。目を閉じて口を小さく動かす様子は先程同様だが、ごくかすかに聞こえていたはずの空気の震えも、まるでなくなっている。

 勘弁してくれ、まじで。僕は三角比に目を落とし、頭を抱えてしまう。聞こえるのは、窓の外からの風の音と、自分の鼓動ばかりだ。

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