第17話
天気予報は正確だったようで、五時間目の終わりごろから降り出した雨は本格的に鳴ってきた。部室の窓から見える景色は、白い校舎ばかりが見えてさほど面白いものではない。雨雲の中では校舎も灰色に汚れて見えて、空との境がわかりにくくなる。
放課後が始まって十五分、ドアをノックする音が湿った空気のなかでどこか乾いて聞こえた。
「どうぞ」
妙に緊張して、声が震えてしまっていた。五秒程おいてから、ドアが開く。眉間にシワが寄っていて、とても中村や進藤の恋い焦がれる美少女とは思えない顔つきだ。
「変な売り文句で相談やっているんだね、この部活」
何をいっているのかと思ったが、部名の下に掲げられた「よろず相談~恋愛、進路、人生、宇宙、神~」の言葉のことだと遅れて気がついた。毎日見ていて麻痺していたことに、自分で気がついていなかったのが恐ろしい。
「妙な人だよね」
「本当に」
共通の話題があった割には話は弾まない。手で椅子にかけるよう促すと、少し躊躇したあと、椅子を引いて腰掛ける。
全く話題がない。ないわけではないがいきなり本題に入るわけにもいかないだろう。警戒心を解かなくてはいけないわけではないが、自然な流れというものもある。
「今日は部活はいいの?」
「まあ、ね」
低気圧とは思えない空気の重たさに頭が痛くなってきた。
「あーもうさっさと話すわ。キツい。今日はマジでごめん。えみりさんが何したかは知らないんだけど、わざわざ来てくれてありがとう」
僕はそう言って頭を下げる。渡辺は無言だった。
「とりあえず、進藤から渡辺に振られたって話を聞いて、渡辺のことは知らないけどどうしてそれなりに長く付き合って、進藤はそんなに悪いやつでもないのに、どうして振られたのかが気になって。この部に、えみりさんに相談してみたらあれこれ嗅ぎ回ることになってしまって。ごめん」
「いや、自分でやってたことでしょ」
責任をえみりに押し付けようとしていたのは見透かされてしまった。おっしゃるとおりで、進藤の語っていた渡辺の良さがすこし僕にもわかる。
「そうだね、ごめん。自分の好奇心とかから色々やっていたわけだけど、ひとつ、思いついた理由があって。中村さんを断るのも含めて、説明できるかなって」
「みきちゃんのことも知っているの?」
「あー……それは本人から教えてもらった。昨日、本人が、君の周りをうろちょろするなって言いに来て、そのときに」
どこまで渡辺が知っているのかを把握できていなかった。慣れないことはするものじゃない。
「で、今日の昼に、君から振られた話も聞いた。だから、君がバイセクシャルまたはレズビアンで、中村が好きになったから進藤が振られた、っていうのはないんだなと改めてわかった。もちろん他に好きな女性がいてもおかしくはないんだけど」
我ながら長々と早口で話してキモいなと思う。渡辺は、怒っているの呆れているのか、無表情に聞いている。
「可能性がある、レベルでは色々ありうるとは思っている。他に好きな男ができたのかもしれないし、一番有り得そうなのは、進藤が無自覚に、振られるにふさわしい言動をしていたとか。でもそれならそれで、渡辺さんならきちんと口頭で伝えた上で別れるんじゃないかなと」
「斎藤くんは私の何を知っているの?」
「正直、全く知らないんだけど、進藤の評価からするとそうかなと。でも、渡辺が自分自身でもよくわかっていないこととかもあっておかしくないよな」
人間、自分のことをすべてわかっているわけではないし、だんだんと分かっていくことはたくさんある。中村はいつから同性愛者だったのだろうか。渡辺以前に付き合った人がいないなら、もしかすると自身の性的指向に気がついたのは渡辺と出会ってからだったかもしれない。一方、出会うとかそういう問題ではないと確信できたから、えみりはアセクシャルを明言できる。僕が理想の同性にあっていないから異性愛者であるわけではないように。
ただ、進藤と出会ってから、渡辺は出会ったのかもしれない。
「このスタンプ、進藤がよく使うよね」
僕はスマホの画面を渡辺に示す。少し前にアニメ化された野球漫画のマスコットキャラクターのスタンプだ。
「この作品のキャラのぬいぐるみ、カバンにつけているよね。スマホの待受もこのキャラだった。ただ、結構調べたんだけど、渡辺さんのスマホの待受画像は、アニメ公式で配布されているやつだけどキャラたちが花見しているみたいな設定のだよね」
ぬいぐるみも、今どきは多少のアニメキャラグッズを付けることがありえないわけではないにせよ、すこし時期外れになりつつある作品のものだ。それなりに本気を感じないだろうか?
「もしかしたら、渡辺さんは進藤や中村さんがだめだというより、三次元が、実際の人間がそもそも厳しかったんじゃないだろうかと。つまり、フィクトセクシャル」
フィクトセクシャル。創作上のキャラクターに対してのみ性愛を感じる性的指向だ。LGBTQ+のなかに入れるのもメジャーではなく、アセクシャルに分類されることもあるらしい。単に二次元のキャラクターが好きにとどまらず、進藤を性的に見られない中で、推しのキャラクターに特別な感情を抱いたとしたら、明朗快活な渡辺は進藤と別れを告げる必要がある一方で、その事実を人には伝えにくいだろう。
渡辺からは何も言葉が出ない。聞いたことのない単語だったのなら、なにか尋ねてきそうなものだ。いや、これも僕の思い込みで、訳の分からない突飛なことを言われて戸惑っているだけかもしれない。
「たぶん論理の飛躍はあるし、僕が僕の観察できた範囲で思いついたことを言っているだけだから、渡辺さんが進藤と付き合いながらもっといい男と影であっててそっちを選ぶことにした、というののほうが自然だよね。あとは初恋の人と偶然再開したとか、もともと好きだったけど彼女持ちだった人が別れてフリーになったとか」
最後のは、そんな恋心を引きずっていたら進藤とは付き合わないような気はするが、人間、自暴自棄になることもあろう。
「……斎藤くんには関係ないよね」
渡辺は答えない。ただ、それがいちばん重要なことであるのも確かだ。
「そう、僕には関係ない。関係があるのは、僕じゃなくて進藤だ」
僕のくだらない好奇心を除けば、その一点で終わる話だ。
「進藤には、別れたいと思った理由をちゃんと伝えてあげてくれ。とてもじゃないけどあんなのが後ろの席に居続けるのは耐えられない。あいつも前に進められないし」
それはおそらく渡辺もわかっているはずだ。
「……A組も早く席替えがあると良いね。用件が済んだのなら、これで」
渡辺は立ち上がり、荷物をつかんでこちらを向きもせず部室を出ていく。これ以上話しても意味があるとも思えず、僕は黙ってそれを見送った。
正しいやり方ではなかったな。そもそも、他人の恋愛に口をだすのが、するべきではないことだった。不必要に渡辺を刺激したわけで、これで進藤が振られる理由に悪い友人とつるんでいる、が足されたかもしれない。それならそれで進藤に伝えてくれればそれでいいのだけれども。
えみりが入ってきたのは、おもったより時間が経ってからだった。タブレット端末を持ったえみりは無言で僕の横に座り、操作を始める。
「なにしているんですか?」
「なにって、新聞を作っているに決まっているじゃないか」
なんで、と尋ねそうになり、そういえばここは相談業務がメインではなくマスメディア研究会という名前だった。
「そういえば、ここってなんで新聞部じゃなくてマスメディア研究会なんですか?」
「今更聞く? なんでだと思う?」
「……動画コンテンツも作っているとか?」
作っているとは思えないが、一応言っておく。
「今後拓真が作ってくれるならありがたいが、そうじゃないよ。答えはもっとシンプルだ」
えみりは少し間をあける。もう一つぐらい何か回答しないと教えてもらえないのかと思ったが、もったいぶっているだけのようだ。
「正解は、新聞ばかり作ると飽きるししょっちゅう作るのは大変なので、新聞を作っていない間は新聞制作以外の活動をしていると言い張るためだ」
思った以上にしょうもない理由だった。それが果たしてまかり通るのだろうか。
「でもいいな。拓真がVtuberニュースキャスターに挑戦するコンテンツとかもありかもしれないね」
「遠慮します」
「遠慮しなくていいよ。積極性が評価される時代だよ」
「お断りします」
「つれないねぇ」
そういって、えみりはタブレット操作を続ける。
「結局、ネタは見つかったんですか?」
「残念ながら取材時間の多くが何者かに奪われたのでね。あー記事が足りないなぁ。困ったなぁ」
棒読みしながら、ワイアレスキーボードとタブレットスタンドを取り出し、文字入力を始める。
「あー、そうそう、一つ言っておかないといけないことがあった」
えみりはキーボード操作をやめて、タブレットでなにか操作したあと、こっちによこしてくる。画面には、クラゲの水槽の写真が表示されていた。
「これだけはマシな写真だったよ。うちのパパも褒めてた」
「ありがとうございます」
たしかに、僕が撮った中では写りが良いだろう。画面を埋め尽くすクラゲの中に、生殖腺が六つの個体が一匹だけ混ざっている。わずかにその周囲には水があり、四つの生殖腺を持つ個体と距離を取っているかのようだった。
「ということで、言わないといけないことがあるんだけど」
えみりはそう続けて、笑顔を浮かべた。厚手の唇からのぞく白い歯は、どうも僕の目を奪うようだった。
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