第13話

 アセクシャル。ノンセクシャルともいい、他者に性的欲求を抱かないひとを指すようだ。授業直前に検索した結果を思い返しながら、ぼんやりと黒板の数式を見つめる。他人の恋愛に興味がない訳ではなく、あくまでもえみり自身が感じないだけ、ということらしい。僕だってそういう感情が強い方ではないだろうが、それでも、性欲がないわけでもないし、他人に惹かれないともいいきれない。言い切れるということが、未熟だとかそういう相手を見つけていないだけとかではなく、えみりがそういう性的指向だという証拠なのだろう。異性愛者に本当に魅力的な同性と出会っていないだけ、と言わないように、アセクシャルに魅力的な人と出逢えば変わる、というようなことをいうのは、その人を尊重しているとはいえない態度だろう。他人の心変わりをほじくり回そうとしている人間が、いまさら何を言っているのか。

 黒板に示された例題をみんなが一斉に解き始めている。違う行動を取るというのは大変なことだ。えみりに限らない。中村だって、スカートの下にジャージを履き続けるのは、他と違う行動だ。性同一性障害? いや、魔法少女のコスプレもしていた。いやいや、別に、男性が魔法少女のコスプレをしてはいけないわけでもない? LGBTQsについて調べると、Xジェンダーやクエスチョニングといった、どちらかに規定されない性のあり方だってあるようだ。そもそも別に中村を恋愛対象にしているわけでもない僕が勘ぐること自体が失礼で、どうしても気になるのなら聞けばいい。

 進藤は結局、渡辺にそれを尋ねることができず、その機会を与えられないまま今に至っていると言えるだろう。それは進藤の臆病さゆえではあるが、突然に別れを告げられて確認しないことまで責められるのはいささか不憫でもある。そこに僕は同情しているということなのだろうか。

 進藤の遺書を、ことの経緯を改めて読む。この熱量で、進藤はこれほどまでに渡辺を思っていて、それが突然終わらせられたのは、やはりフェアではないだろう。進藤によほどの非があったのだろうか。無理矢理にセックスを迫ったとか、暴力を振るったとか、店員にタメ口だったとか、他の女性関係があったとか。自分が進藤寄りの人間であることを差し引いても、流石にそこまでの事があるようにも思えない。

 一度どこかで、渡辺に直接尋ねるぐらいしか思いつかないが、昨日の様子ではどう聞いても答えてもらえるとは思えない。なにか揺さぶる材料でもなければ。それをどうやって得られる? 進藤の書いた、渡辺に関する記載を改めて読む。好きな食べ物、飲み物、ファッション、音楽、アニメ。コスプレは書いてはいないが、進藤は本当に知らなかったのだろうか。気持ち悪いほどに細かいデータ量で、そこが漏れるとは思えない。本人が隠したがっていることも含めて知っていて、僕にも黙っていたというほうが自然そうだ。つまり、進藤が知っていることのなかでも、他人に伝えていいであろうことしか書かれていないことになる。となると情報として隠されたものがある?

 いつの間にか授業は終わっていて、例題が書かれていたはずの黒板は消しのこされたチョークで薄汚れていた。中間試験はそろそろで、僕は不吉な予感を覚える。

「大丈夫か? 授業聞いてなかったろ。ノートいる?」

 進藤がこちらの背中をつついてくる。野球部員はリードやら盗塁やらを把握するために背中の様子だけでも細かい様子が把握できるのだろうか。それはピッチャー限定か?

「いや、大丈夫。ちょっと……」

 伝えるべきか考えあぐねたが、このままでは埒が明かないと思い直す。

「渡辺のことで、ちょっといろいろ考えていて」

 進藤は一瞬表情が固くなり、すぐに笑う。

「なんか、新聞部? と一緒に吹奏楽部の取材してたんだっけ? 昼休みも中村とどこか行ったとか。ごめんな、なんか気遣わせちゃって」

「いや、気を遣っているとかじゃないんだけど……」

 中村のことはクラスの誰かから聞いたのだろうか。空腹で頭が回らない僕は、どう探りを入れるべきか迷う。

「中村とは、昨日、イベントでちょっと」

 僕の言葉で、進藤は口の前で人差し指を立てた。そして机に顔を伏せる。机の上に出していたスマホが震え、進藤からのメッセージを通知する。

『その辺の話は学校では出さないでくれ』

 やはり進藤は知っていたようだ。渡辺が思う以上に進藤は渡辺を見ていたことになる。

『渡辺の趣味、知ってたんだ?』

『そりゃわかるよ。漫画とか結構好きだったし。野球も漫画で読んでルール把握したみたいだったし』

『あっちは気づかれてないと思っていたみたいだぞ』

 進藤は少し間をおいて、可愛くないうさぎが苦笑いを浮かべたようなスタンプを送ってくる。野球漫画のマスコットキャラで、進藤がたまに使うスタンプだ。

『渡辺とその後連絡は取ってるのか?』

 返信はないが、続ける。

『話す機会があれば、話したい?』

『俺がなにか悪いことをしたのなら、それは知りたいし謝りたい。復縁とかはもういいから』

 殊勝な返信があって、休み時間は終わりを告げた。進藤の頭頂部を見ながら、こいつがハゲる前にこのあたりの話題を終えて、普通に話す時間がまた来るのだろうかを考える。僕が過剰に気にしてしまっているのが原因であることは確かで、無視して普段どおりに接すればそれでいいのかもしれない。ただ、気になることは気になってしまうのだ。

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