第11話
「拓真はカメラは向いていないな。記事を書いてもらうか。それとも風刺画とか描けたりする?」
クラゲの水槽の前で、えみりはそうつぶやく。暗い空間の中でその表情は伺えないが、笑ってはいない様子だ。
カメラの操作方法は結局わからず、マヌケな僕は渡辺のスマホを借りて、屋外に展示された動物たちの前でポーズを決める魔法少女たちの写真を撮ったのだった。スマホを返す前に一瞬見えた野球アニメキャラの待受は少し意外だったが、そういえばカバンにもつけていたし、進藤と別れても作品は別腹ということだろうか。えみりも自身の携帯でいくらか写真を撮っていたらしく、渡辺と連絡先を交換して別れた。結局その後はなにも尋ねることはできず、こんなところまで来て接触した意味があったのはわからない。
「あの、なんで普通に水族館回っているんですか?」
「私は年パスだから実質無料みたいなものだが、君は入館料払ったんだろ?」
「経費で落として、後でもらえるんですよね?」
「せっかくお金を出したんだからひと通り見た方がいい。私のおすすめはカエルだな。毒蛙。人工的な色してていいぞー」
ほぼ無色のクラゲの前で何を力説しているのか。僕はえみりの横に立ち、クラゲの水槽を覗き込む。タコやイカも似たような動きをしているが、クラゲの傘を動かす泳法は、実際どの程度の推進力を起こしているのだろうか。透明ではあるが、ときどき、照明の色が変わることで雰囲気が大きく変わる。
「クラゲはプランクトンの一種なんだ。泳いでそうな動きはしてはしているが、流れに逆らう強さがない水の中に暮らす生物をプランクトンと呼ぶため、どんなに大きくてもクラゲもプランクトンになる」
えみりが淡々と述べる。年パス所有者が水族館の生き物に詳しいことは驚かないが、年パスを買うと僕の頭の中身までわかるようになるのだろうか。えみりはクラゲを見ながら独り言のように続ける。
「このあたりのクラゲはミズクラゲ。傘の模様は生殖腺と胃腔っていう消化機構で、よく見るとたまに模様が四葉じゃなくて五つのとか六つのやつがいる。あ、ほらそっち」
えみりの指差す方を見ると、たしかに一つだけ模様が六つある個体があった。
「詳しいですね」
「展示動物としてはカエルが好きだけど、この展示方法は好きでね」
水族館の中でも、クラゲにライトを当てて強調するためか、このエリアは特に暗い。
「暗いのが好きなんですか?」
「日陰者だからね」
「陽キャじゃないですか、むしろ」
コスプレイベントに突っ込むとか親しくないひとに取材するとか、僕には考えにくいことだ。教室のなかで受動的に話しかけられるのを待つばかりの僕ならともかく、えみりの行動にそういう要素は見いだせない。
後ろから小さく声が聞こえてきた。少し混んできただろうか。えみりは僕に目配せして、ミズクラゲの水槽から離れ、次に向かう。後ろに待っていた人から会釈され、僕もそれを返してえみりを追いかけ、今度はすこし茶色がかった、ミズクラゲよりもどこか肉厚なクラゲの水槽に立つ。
「いまみたいなときに、あまりびっくりされなくてすむんだよね、ここ」
えみりはまた独り言のように話す。
「こういう見た目していると、英語で話しかけられたりとか、日本語上手ですねとか、飽きたんだよね。ここはよく見えないし、多少楽だね」
茶色いタコクラゲは盛んに体を動かしている。それでも水流に逆らうほどの遊泳力ではなく、プランクトンに過ぎない。生殖腺の数の異なるミズクラゲも、その集団の中で差別があるわけでもない。
「僕はもう、だいぶ目も慣れたんで、ここでもえみりさんはよく見えますけどね」
フォローにはなっていない、何を言っているのかよくわからないことを口に出していた。えみりは僕をじっと見て、僕も僅かなプライドで、目をそらさずえみりと見つめ合う。
「そうだね、私からも、拓真もよく見えるよ」
「輝いてますかね」
「もう少し磨けば、ね。よし、じゃあカエルいこう、カエル。ヤドクガエル。あ、その前にマンボウもあるんだ。あれはいいぞ」
えみりはやや大きな声を出して、クラゲエリアをあとにする。追いかける前に、振り向いてミズクラゲの大きな水槽を見る。先程見つけた六つの生殖腺を持つミズクラゲは、この距離からではわからなかった。
その後はカエルやらマンボウやらを主に見て、一番メインらしい大水槽の前は混んでいてほぼ素通りしてしまった。抗議すると「物足りないなら年パスを買え」と、もはや水族館側からいくらかもらっているのではないかと思われるえみりの発言が返ってきた。
館内展示を見終えて外に出ると、まだ外が明るいことに驚かされる。暗闇になれた目に、屋上の日差しはなかなか厳しいものがあった。目を細める僕に、えみりは振りまきざまに笑いかけた。
「私がまぶしすぎるかな?」
「……ええ、そうですね」
えみりの渾身のボケにどう答えてよいかわからず、僕は長い沈黙の後ようやく答えた。
「下でショッピングでもして拓真を磨いてもいいんだが、楽しみはまた次の機会にとっておくことにして、帰るとするか。これで失礼するよ」
そういって、さっさと歩き出す。特に一緒に帰る気もないようだ。僕はえみりの家を知らないがあちらは知っているわけで、方向が違うのかもしれないし、帰りは別のほうがいいのかもしれないし、他の用事があるのかもしれない。
僕は改めて水族館を回ることにする。常連のえみりと一緒では妙にマニアックな部分ばかり見せられていて、カクレクマノミさえろくに見ることもできていなかったのだ。
首から下げたカメラを預かりっぱなしであることに気が付き、なんとなく、魚の写真を撮る。落ち着いて触れば、ピントを合わせることはできそうだ。とはいえ小型の魚は動きが読みにくく、うまく写真に納めることは難しい。客の側もよく見ると、子連れやデートに混じってカメラガチ勢がいて、物々しいカメラで写真を取っている。一人で周る僕も、よそから見ればこの仲間に入るだろう。実際は使いこなすこともできないおもちゃを持たされているわけだが。
使い方のわからないなりに写真を取りながら回っても、混雑する子供やカップルを押しのけるわけにもいかず、二周目とはいえだいぶ早く回り終えてしまいそうだ。僕は再びクラゲのコーナーに立ち寄り、揺蕩うミズクラゲの群れを眺める。ある程度同じ方向に動いているようにみえるのは、水槽内の水の流れにすぎないということか。個体ごとに見ていると、案外、動こうとする意思の差はあるようだ。集団、個性、ほぼ同様の見た目と一部の例外、水の流れ。なにか現代社会に対する比喩の一つ二つ見い出せそうだったが、特にその意義もないようだ。
とりあえず、水族館というものは一人で回ってもそれなりに楽しく、詳しい人と回るとより楽しいことは今日の収穫のようだ。水族館を出てモール内に入ると、ふたたび熱帯魚のようにカラフルなキャラクターたちが三次元に表れて闊歩しており、どちらかといえば派手さは人間に軍配が上がっていた。ただ、そればかり見ていると感覚が麻痺してきて、一周回って普通の制服の女子中高生がいることにぎょっとしてきたりする。
コスプレというのは見た目だけでなく、中身もなりきる必要があるのだろうか。渡辺と中村はどの程度、あのキャラクターになりきっていたのだろう。少なくともカフェに居るときは普段の2人とそう変わらなかったはずだ。写真を撮る瞬間はそれらしい顔を作っているようだったが。
帰りの電車の中で、ふと思い出してカメラの中身を見てみる。ピントの合っていないもの、ぶれているもの、被写体が目をつぶっている見るも無惨な画像のあと、えみりと渡辺、中村の三人の写真がある。渡辺はしっかりと表情を作れているが、中村はあきらかにいやそうだ。えみりは満面の笑みで、温度差のグラデーションがひどいことになっている。その後は、水族館のクラゲや魚の画像が続く。人間の写真よりはいくらかマシのようだ。
電車を降りてしばらく歩き、家のドアの前に立ったところで、真紀に土産の一つでも買ってくるべきだったかと思いあたる。こんなのだから兄の立場というのは日々失われていくのだろう。そして、今日の一連の出来事は、デートとはいえなかっただろうな、と思う。この嘘の訂正は、まあ後日でいいだろう。
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