第9話

 日曜日に都心に出てくるのは久しぶりかもしれない。わざわざ休みの日に遠出もしないし、まして人の多いところは好きではない。埼玉県民の植民地とも呼ばれる街の交差点を行く人の波は、僕と隔絶した世界の出来事のようだが、もう少しでそうも言っていられなくなる。

 アイスコーヒーの氷は溶けて、味が薄くなってきていた。プラスチックのカップは結露で濡れ、下に敷いた紙ナプキンはトレイに貼り付き、些細な刺激で破れた。

 駅から五分ほど離れた歩行者天国の手前のカフェに、うまいこと座れたのは幸運だったろう。慌てて家を出たくせに、待ち合わせ予定時間よりも二〇分は早く着いていた僕は時間を持て余し、手近なカフェに入り、他の客と入れ替わる形で窓際のカウンター席を確保し、休日の繁華街を眺めていた。えみりに連絡をしようかと思ったが、待ち合わせよりも過剰に早く着いたということを伝えるのはどうにも恥ずかしく、時間ギリギリまではここで潰そうと思っていた。いや、案外時間には厳しそうだから、五分前には連絡したほうがいいかな。

 今日も今日とて野球部の進藤は練習試合に駆り出され、渡辺は吹奏楽部の練習が休み。別れを告げた、そもそも出場するかも定かではない元彼の応援に駆けつける必要もないのだけれど、SNSによれば、今日はここに顔を出すらしい。これでは学校が休みの日にも顔を合わせることはなく、えみりのいうとおり、別れるのは特にどちらのせいというわけでもなく時間が合わないのかもしれない。ただ、それならそれで断り方はあるんじゃないだろうか。僕が進藤のほうに肩入れしていることは間違いないが、それにしたって……そもそも進藤が渡辺の趣味などにとやかく言うともあまり思えない。僕みたいな陰キャにだって特に抵抗がないのだから。

 人が何考えているかなんて、最終的にはわからないよな。信号待ちする人々を眺めながら、ぼんやりと考える。街を歩きながらもスマホに視線を落とす人がかなりの割合でいて、他の人は一緒に来た人となにか話している。見ただけでこの街に来た目的がわかる人もいるが、そうでない人間のほうが圧倒的に多い。普段は知らなかった情報が入ると、少しだけ、世界の解像度が上がってくる。えみりは? 僕はこれまでに、えみりのような人間を知らなかった。いや、今だって別に知っているとはいえないだろう。背景も、考え方も、見た目も、僕とは異なる。そのえみりは僕をどこまで理解しているのだろうか。えみりは、僕がどこまで、友人の元カノに対するストーカーじみた行為を行い、どこで納得して手を引くと思っているのだろうか。答えをえみりが持っているのか、それとも、単に好奇心から僕を煽っているのか。悪意のある人とは思えないが、善意の人ともとても思えない。

 僕は人との距離のとり方が下手なのだろうか。信号が青になり、一斉に渡りだす歩行者たちは、スマホに視線を落としていてもなお互いにぶつかることもなくなめらかに動き続けている。僕もあの中に混ざることはできるだろう。そうやって摩擦の少ない人生を送り続けることはそれなりにできそうだ。今回みたいに、友人の、いやクラスでの隣人に時間を割くほうが苦手なのだ。えみりのいうとおり、僕は僕が思うより、もしくは僕が思うのとは違う形で進藤が好きなのだろうか。乙女な街の雰囲気に流されているのか、妙なことを思う。

「コーヒー、ブラックでいけるんだ、意外だな」

 なんだか予想できていたが、いつのまにかえみりが横の席に腰掛けていた。僕はコーヒー風味の氷水をストローで少し飲み、余裕を持つよう自分に言い聞かせながら、えみりを見る。

「来てたなら声をかけてくださいよ」

「本当にいま来たばかりだよ」

 そういって、なんとかフラペチーノを太いストローで飲む。そのメニューを頼んで、待ち合わせまであと三分の今ここに来ているということは、僕が待ち合わせ場所ではなく、この店にいることを把握していたことになるだろう。どこまで知られているのだろうか。それとも、僕が単純で読みやすいのだろうか。

「それ、カロリー高そうっすね」

「お、なにかの嫌味のつもりかな? どうせすぐに入場はできないんだし、もう少しここで時間を潰そうじゃないか」

 そういうものなのだろうか。これから訪れるイベントの知識はまるでなく、事前に調べてさえいない。

「えみりさんはこういうのにも詳しいんですか?」

 私服のえみりは、ややダボ付いたネルシャツ、Tシャツにジーパンという恐ろしくカジュアルな格好だった。スタイルの、素材の良さで押し通しているように見える。ファッションに関心がどの程度あるかはさっぱりわからない。

 僕が服を見たことに、えみりは気がついていたようだ。

「ファッションは表現だからね。表現したいもの、したくないもの、それを意識的であったり無意識であったり、選んでいるはずだ。拓真の今日の服装は……」

 僕の私服をジロジロと見て、えみりはコメントに窮しているようだ。なんだか申し訳なくなってくる。

「真紀ちゃんに選んでもらわなかったの?」

「選んでもらえそうだったんですけど、全裸で行ったほうがマシだと言われました」

 妹の名前を知っていることにはもう驚かない。

「なかなか辛辣だね。あーでも全裸の拓真がブラックコーヒー飲んでたらちょっとウケるな」

「そんだけやってもちょっとなんですか……」

 なかなかに報われない話だ。これ以上ファッションの話も全裸の話もやめたいところで、話題をそらそうとした僕はえみりのバッグのカメラに気がついた。

「すごいカメラっすね」

「ああ、父から借りてきたんだ」

 手提げかばんから見えたカメラに触れると、えみりは取り出して見せてくれる。ごついレンズの付いたデジタル一眼レフカメラは、はじめて見せるマスメディア研究会らしいものだったかもしれない。

「お父さんはカメラ好きですか?」

「もちろん好きだろうけど、それ以上に仕事だからね。映像関係の仕事をしている」

 父親か。当たり前だが、この人にも親がいるんだよな。どこかの蓮の花から出てきたと言われたほうが収まりがいいように思えるが、現実にそういうわけはない。

「どうする? 手ぶらじゃなんだし、拓真が使ってみる? 今日はカメラ担当ってことにして」

「使い方わからないんですけど」

 手渡されたカメラを起動し、設定メニューを開くことはできたが、なにをいっているのかはさっぱりわからない。えみりはきょとんとして、

「別に、オート設定か何かにして、撮れてさえいればいいだろう。なにかに使うわけじゃないし」

「そもそもこれ、高そうなんで、持ち歩くの不安なんですけど。重たいし」

「まあ高いだろうねぇ。私もよく知らないけど、これ一つしか父のカメラがないわけじゃないし、なんとかなるよ。重たいのは重たいが、それを言ったら私にも重たいよ」

 えみりはそういってフラペチーノを飲み干す。早いな。頭痛くならないのだろうか。肉体的な強さが僕とはどうも違うのかもしれない。かと思うと、目を閉じて眉間にシワを寄せて口をパクパクさせており、やはり痛いようだ。もっとゆっくり飲めばいいのに。

「よし、じゃあ行こうか」

「無理しないで頭痛いの収まってからにしません?」

「こういうのは勢いだよ。店の中だとエアコンで冷えるし、外の方がまだ温かくていい。今日は天気も良くてよかったよかった」

 何を考えているのか何も考えていないのか、やはりどうにも計りかねる。えみりは空になったらプラスチックカップを持ってふらふらとゴミ箱に向かう。僕はえみりのカバンを持ち、あわててそのあとを追った。

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