第5話
教室に入ると、もう殆どの生徒が席についていた。先生はまだ来ていなかったが、あわてて自分の席につこうとして、視線の強さ、多さに気がついた。
椅子に腰掛けた瞬間、進藤に声をかけられる。
「廊下で一緒にいたひと、誰なんだよ」
他の人間の目と耳がこちらに集まってくるのがわかる。なるほど、普段教室の人間としかつるまない僕みたいなのが、突然背の高いエキゾチックな美人の先輩と一年の教室を覗いて回っていたら、それは怪しまれるし興味の対象になるだろう。
「あの人はマスメディア研究会の人で、なんでか手伝うことになって」
「マスメディア研究会って、あの、下駄箱のところにある変な新聞の?」
「新聞?」
そういえば、さっき中村にもそんなことを言っていた。進藤はわざわざスマホの写真フォルダから、新聞の画像を見せてくれる。模造紙の一番上に「入学おめでとう」と書かれており、それに続いて「Congratulations on your entrance」「恭喜你入学」「입학 축하」「Felicidades por tu entrada」「Félicitations pour votre entrée」「Chúc mừng bạn đã vào」「Binabati kita sa iyong pagpasok」と多種多様な言語で、おそらく同じ内容が書かれているようだ。模造紙の全てはそれで埋まっている。
「なにこの怪文書?」
進藤はスマホの画面を拡大し、右下に書かれた「マスメディア研究会」の文字を見せてくれる。相変わらず親切でいいやつで、その善意が突きつけてきた残酷な事実に僕はクラクラした。
「日本語できない人なのか?」
「物心ついてからは日本にしかいないらしいぞ。普通に日本語だ」
第一、それでは僕がえみりとコミュニケーションが取れない。というか、こんなものを作るかどうかは本人の語学力と関係もないだろう。
しかし、周りの注目が珍しく僕にまで集まってしまっているとなると、教室で進藤に事の経緯や詳細を聞くのは本当に難しくなってくる。
進藤はまだこちらに聞きたそうな顔をしていたが、五時間目の地理の教師が教室に入ってくる。椅子を引く音や机に資料を出す音が教室を支配し、僕も前を向く。
授業中にスマホを操作できないわけでもない。この授業であれば、概ね教科書を読み上げては板書していくだけで、教師がこちらを向いたとしても生徒はほとんど眼中にないはずだ。
僕は机の下でスマホを操作し、メッセージを入力する。
『昨日の話なんだけど』
詳細を聞かせてもらえるかも、聞かせてもらったところで進藤にとって意味があるかはわからないのだった。ただ、なにか論理的な、そうではなくとも情緒的な理由が欲しかった。それは進藤も同じだったようだ。授業が始まったにも関わらず直ぐに返信があり、長いやり取りが始まった。
進藤が渡辺の存在に気がついたのは、中学三年に入ってからだったようだ。えみりの言う通り、野球部の応援に吹奏楽部員として参加していた渡辺だったが、フルートは観客席からグラウンドまで響くものではなかった。昨年夏の大会で、進藤の学校は珍しく二回戦を勝ち上がり、その帰りに話したのが最初であったようだ。周りになだめられながらも「さっさと負けて自分らの大会の練習をしたいんだけど」というようなことをいっていた渡辺の横を通りがかり口論になったらしい。野球部だけが優遇されていることなど含めて渡辺滔々と苦情を述べ、カチンとは来たものの、もっともだという思いもあった。こてんぱんに言い負かされた進藤は、そのはっきりした口調が気にいったらしい。
進藤と授業中のやり取りが始まって五分、別れ話の流れどころかお付き合いにいたるまでのエピソードが続き、僕は少し怖気づいていた。まさか「そういうのはいいから振られたときの話だけしろ」とはいえないだろう。進藤の様子は背中で感じるしかないわけだが、まさか泣いていたりしないだろうか。板書の音だけが響く教室で、進藤からは不定期に長文メッセージが届く。
要約すれば、渡辺の願い通り自分たち野球部は三回戦で終わったが、進藤はわざわざ吹奏楽の大会を見に行ったこと、そこで金賞を取った渡辺達を見て感動したこと、二学期になりわざわざ別のクラスの渡辺に声をかけにいき、勇気を振り絞ってデートに誘ったこと、友人たちと一緒でない渡辺は案外大人しかったこと、徐々にざっくばらんな話をできるようになっていったことなど赤裸々な記憶が綴られ、直接対面で聞かされなくて済んだことを喜ぶべきなのか、地雷を踏み抜いた責任を感じながら、僕は時々相槌のようなコメントだけ返していた。
回想がクリスマスに差し掛かった頃、授業終了のチャイムが響いた。恐る恐る振り向くと、進藤は顔を隠すように机に突っ伏していた。寝ているふりだろうが、これ、絶対に泣いてるやつじゃん。
愛は人を狂わせる。普段の、調子の軽い進藤に思いを馳せながら、そんなことを思う。そういえば、えみりは恋愛に詳しいとうそぶいていたわけだが、恋愛経験があるのだろうか。あの人が好きになるのはどんな人物なのか、まるで想像がつかない。よほどの変人か超人でもなければ、あの人を受け入れるのは厳しかろう。中高生の男女が一緒に過ごすだけでも周囲の目を引くのに、あの容姿では隠れることもできない。外で会えないなら互いの家にでも行くのだろうか。あら、いやらしい。
六時間目の古文の教師が教室に入ってくる。休み時間の十分間、進藤はほとんど身動きしなかった。ひょっとしたら本当に寝てしまったのかもしれないと思ったが、授業開始とほぼ同時に、僕のスマホの通知ランプが輝く。長い戦いになりそうだ。清少納言と進藤のエッセイを交互に眺めながら、僕は古語と現代語のあわれを行ったり来たりすることとなった。
互いに励まし合いながら受験勉強を乗り越えて、ようやく進藤と渡辺は同じ学校に、つまりこの高校に進学したようだ。もし進藤がわずかにでも冷静になったら全部削除するんじゃないかと思い、スクリーンショットに進藤の魂の叫びを保存しながら、僕もようやくここまでたどり着いたことに感無量だった。なるほど、長い冬がおわり、あけぼのにやうやう白くなりゆく山ぎはこれほどまでに美しいのだ。そんな感動も冷めやらぬうちに、物語は進んでいく。
高校に入った進藤と渡辺は、進学校のくせに思いの外しっかり活動していた野球部と、前評判通り厳しい吹奏楽部にそれぞれ入部したことで、一緒に過ごす時間はかなり減っていたようだった。特に渡辺は、土日も部の人と遊ぶことが増えていた。同じ楽器の仲間で交流することは大事だろう。理解のある彼氏としての振る舞いを身に着けていた進藤は、寂しい気持ちを多少伝えながらも、それでも夜に電話して、渡辺の新しい交流関係を必死に覚えたりしていたのだった。
五月の連休は、五月三日に野球部の練習試合が予定されていたものの、それ以外は大きな用事はなかった。渡辺も三日には吹奏楽部の練習があったが、四日と五日は開けてもらっていた。久しぶりのデートということで、練習試合なんて進藤にはほとんどどうでも良く、最後に経験のため代打で打席に立たせてもらったがフォアボールで出塁、次の打者がフライに終わって試合終了という実にパッとしないものであったという。
三日の夜、二一時頃に電話をかけた進藤は、普段より渡辺の反応が芳しくないことにすぐに気がついた。
『大丈夫? なんかあった?』
吹奏楽部のほうで怒られでもしたのだろうか。進藤は心配して渡辺に尋ねた。電話先での反応はやはり鈍い。
『ううん。大丈夫、あした、えっと、何時だっけ?』
普段は時間に厳しい渡辺がそんなことを言い出すのは稀なことだった。
『体調悪い?明日、遠出するの止めておく?』
『……ううん。体調とかじゃないし、楽しみにしてたから行きたいよ』
どこか歯切れの悪い言い回しだった。言いたくないことがあるのかもしれない。それならそれで、デートを楽しむことで少し渡辺の気持ちが晴れればという思いがあった。時間と場所を改めて告げ、通話を早く切り上げた。念のためメッセージでも同じ内容を送ると、彼女の使い慣れたあまり可愛くない柴犬がOKを掲げたスタンプが返ってくる。
そこまでは、少し違和感があったものの、いつもどおりと言える範囲であった。しかし、翌日、水族館の最寄り駅で渡辺に会った進藤は、その瞬間に、嫌な予感がしたという。久しぶりとのデートらしい初めて見る明るいワンピースと裏腹に、渡辺の表情は沈んでいた。
『……そこ、入ろうか』
進藤は近くのカフェを指さした。渡辺は無言で小さくうなずき、二人で店内に入る。かろうじて二人席が空いており、そういうときにいつもしていたように、進藤が渡辺の荷物を預かって席を先に取り、渡辺がレジに並ぶ。進藤は特に何も言わなければアイスコーヒーだった。椅子に腰掛けた進藤は財布を取りだし、硬貨がほとんど入っていないことに気が付いた。
渡辺がビニールカップを二つ手に持って席に来る。
『ごめん、細かいのいまなかったから、後で渡すね』
金の貸し借りがないことは二人の以前からの取り決めだった。もちろん、このときのようにすぐに出せないことはあったが、多くの場合は当日に、遅くとも翌日には精算できていた。
『ううん、いいよ』
渡辺はそう言って椅子に腰掛けた。普段と違う様子に、進藤は黙って渡辺の言葉を待つ。
何分かして、渡辺は目をうるませた。小柄ながら気が強く、普段ハキハキとした彼女のそんな姿を見たのは、付き合って十ヶ月ほどになるが初めてだった。
渡辺はストローを咥え、鍛えられた肺活量でアイスハニーソイラテアドエキストラショットを飲み、何度か深呼吸して、切り出した。
『ごめん、進藤くん。私、他に気になる人ができた。今はその人のことしか考えられないの。本当にごめん』
進藤からのメッセージはそこで途絶えた。相手の好きなドリンクメニュー名を諳んじられるほどの関係が終わった瞬間を無理に思い出せたわけで、下手したら舌でも噛み切って死んでいるんじゃないかと思われた。二分ほど待ってもメッセージのないことを確認し、恐る恐る振り向く。突っ伏したままの進藤だったが、時折震えており、死後硬直でなければ生命活動の表れだろう。机に赤い水たまりもできていないようだ。
「斎藤、前見なさい。寝ているのはほっとけばいい」
古文教師に声をかけられ、僕は驚いて前を向く。授業中に注意を受けたのは初めてだった。周囲の目は一瞬集まったが、すぐに授業が再開され、教師の野太い声が似合わないもののあはれを語りだすと、みな再びノートに視線を落とす。
六時間目の終了まで、進藤は突っ伏したままだった。授業が終わって声をかけようかと思ったが、野球部の連中が集まってきたので、僕は席を立った。いや、なんと声をかけてよいのか、わからなかっただけだった。
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