第3話
「それが昨日の話?」
「はい」
「で、昨日の今日でうちに来たと。いやお目が高いね」
先輩は嬉しそうに言う。マスメディア研究会というのはセンテンスがスプリングするような類だっただろうか。もしそうなら、僕は友人の情報をスキャンダルとして売ったことになってしまうかもしれない。
「田中先輩は」
「えみり」
さきほどの笑顔のまま、鋭い言葉が差し込まれた。僕は言葉を止め、つばを飲み込んでやり直す。
「えみり先輩は」
「先輩も余計だな。えみりでいい」
二年の女子を?名前で呼び捨てにしろと?
「……えみりさんは、恋愛詳しいんですか?」
「さんづけか。まあそれも新鮮でいいか。マスメディア研究会の看板を覚えてる?」
「よろづ相談と書いてあったのは覚えています」
「その後にその内容を書いてあったんだが、あれは詳しい順に書いてあるんだよ」
えみりはそういうが、覚えていない。椅子から立ち上がり、マスメディア研究会のドアに掲げられた看板を見に行く。「よろず相談~恋愛、進路、人生、宇宙、神~」とそこにはあった。いかがわしい文字列だ。
「神には詳しくないんですか?」
部屋に戻るのをためらい、その場でえみりに呼びかける。
「宇宙よりは、いくらかね。特に信仰もないしね」
改めてえみりをみる。黒く長く真っ直ぐな髪と、線の細さ。額にはなにもついていないものの、一見するとインド系に思えたえみりが、信仰がないというのは少し意外だった。
「ヒンドゥー教に見えた? それともキリスト教? 仏教?」
えみりは少し目を伏せて、僕を見ずに続ける。
「私は、ルーツはインド系だけど国籍はアメリカで、物心ついてからは日本を出たこともないよ。見た目で信仰は判断できない。イスラム教やユダヤ教に帰依することだって今後できることはできるだろうし、無宗教を貫こうという信念があるわけでもないけど」
その言葉は、どこか冷めていて、似たようなやり取りが繰り返されてきたことが容易に見て取れた。
「すいません。失礼な態度でした」
そう言って頭を下げる。謝罪もどこか逃げているように思えたが、今はそれしか思いつかず、ならば謝罪までの時間をあけるべきでないことはわかっていた。
「顔を上げていいよ。悪意はないことはわかっている。まあ私が不愉快に感じたという事実に悪意の有無はさほど影響しないけどね」
許してくれているのかどうかわからない。いや、失礼なことをした側が決めることではないのだけれども。
一瞬このまま逃げてしまおうかとも思ったが、失礼を重ね続けるわけにもいかない。僕は恥ずかしい気持ちを抑えて顔を上げ、えみりの正面の椅子に戻る。
「さて、それで聞きたいことというのは? その渡辺さんの気になる相手とか?」
えみりは僕と入れ替わりに立ち上がると、壁際に並んだ書棚に向かい、引き出しの鍵を開けた。中からファイルを取り出すと、すぐに引き出しの鍵をかける。取り出したファイルには「XX年生徒名簿」と書かれている。
「ガチの個人情報じゃないっすか」
「そう。だから鍵のかかるところにしまっているでしょ? えっと、なになに……」
えみりは椅子に腰掛け直し、僕に見えないようにファイルを開き覗き込む。
「斎藤拓真くんね。出身中学は、これ、どのへんの学校? 中学では美術部で」
「僕の情報じゃないっすか!?」
つい、声を荒らげてしまう。中学の部活の話なんて高校に入ってから誰かに話した覚えはない。えみりはニヤニヤしながらファイルを眺める。
「そう。あまり褒められたものではないルートだけど、こういう情報もちょっと入るんだ。個人情報取り扱いは怖いけど、まあ学生のやることだからね多少は、ね」
「自分でそんなこと言っていると免責にはならないんじゃないですかね」
「まあまあいいじゃない。あ、妹さんいるんだ。仲いいの?」
「僕のことはいいんで」
「つれないねぇ。えぇっと一年B組の渡辺さんね。はいはい」
そう言って笑いながらパラパラとメージをめくる。一人当たり一ページなのだろうか。それとも個人差はある? 出身中学、部活、家族構成だけだとしても全校生徒分あるのならかなり不気味だが、えみりの態度からすると、もう少し詳細な何かが記載されていそうだ。
「あったあった。吹奏楽部でフルートをやっているね」
それぐらいは僕もなんとか把握していた。一年B組渡辺ゆい。今日観察した限りでは同じクラスで同じ部活の女子、中村と一緒に行動することが多いようだった。見た目はどちらかというと大人しそうで、カバンには少しまで流行った野球アニメのキャラクターのデフォルメイラストのストラップがいくつかついていた。傍から見たり、同じクラスの吹奏楽部の男子に聞いた限りでは、それ以上のことをうがって聞くこともできなかった。
「ああ、ほんとうだ。進藤くんと交際歴……十ヶ月ってところか。中三の夏からとは、受験生のくせにやるね、進藤くん。野球の応援がきっかけかな」
本当にどこまで書いてあるんだろうか。
「で?」
えみりはファイルから顔を上げて僕を見る。少し青みがかった瞳と、長いまつげに僕は固まってしまう。
「で、というのは……」
「このままここに書いてある情報を読み上げるのが君の希望? それじゃ恋愛相談ともいいにくいけど」
「……渡辺が気になっている人の名前は書いてあるんですか?」
「確定していない情報は載ってないよ。別れたとも書いてない。まあさすがにこのデータもリアルタイム更新ってわけにはいかないからね」
僕はどう答えていいかわからなくなってしまう。えみりは続けた。
「君は友人の進藤くんが、恋人と別れそうになっているという情報を聞いた。なにかしてあげたいと思ってわざわざ当マスメディア研究会に足を運んでいただいた。光栄ではあるけれども、なにをしてあげたいのかを定めないと、協力できるかどうかも私には言えない。さて、お望みはなんだろう? すべての願いを叶えられるわけではもちろんないけれど、力になるにしてもある程度方向性は決めないといけないからね」
「……進藤はいいやつなんで、正直、なんで振られるかもしれないことになっているのかわからないんですよ」
「ふむ?」
「昨日落ち込んでいるの見て割りとびっくりして……いつも通りに戻ってほしいっていうか……」
言っていて、他人が口を挟むことでもないように思えた。部活にはある程度強制力があり、そこに行けば、少なくともその間は、進藤はおそらく傷心を忘れることもできる。そうなれば今よりも部活への比重は増えていき、教室で僕とくだらない話をすることもなくなるかもしれない。今はたまたま席が前後で話す仲になっただけで、例えば席替えがあったら、クラスが変わったら、この関係はそれでも続くほどの強さではないのかもしれない。いや、単に、数少ない友人が困っていて何もできない自分に耐えられないのかもしれない。
「なるほど、わかった。つまり君は進藤くんが好きなんだな」
「は?」
えみりは力強くうなずく。
「傷心の進藤くんのために色々と情報をかき集めておこうというのは、つまりそういうことなんだろう?」
「え、あの、どういうことで言ってます?」
「シングルの彼を慰めてドサクサに紛れて、的な」
「的な、じゃないですよ! 友人のためというだけです!」
「なんだ、違うのか。じゃあいいやつの進藤くんが落ち込んでいて、よりを戻してあげたいということか?」
えみりはつまらなそうに言う。
「ええ、まあ、そういう感じです」
「渡辺さんの想い人がもっといい人だったらどうする? それでも進藤くんの希望を優先して、渡辺さんは現状に妥協すべきか? よりよい相手を選ぶ権利が渡辺さんにもあるんじゃないかな?」
僕はまた固まってしまう。これで何度目だろうか。たしかにえみりの言う通りで、他人の交際に口を挟む権利なんてもともと僕にありはしないのだ。
「それでも、ろくに理由も知らされずに距離を取りたいと言われた進藤のために、せめてもう少し理由を調べて上げたいんです」
「それも渡辺さんの優しさかもしれないよ? 進藤くんを遥かに上回るハイスペックな人に声をかけられて、進藤くんなんてカスみたいにしか思えなくなった、とかだったら?」
「どんだけ性格悪いんですかあなた」
「可能性は色々あるからねぇ」
えみりは真顔でうそぶく。
「僕が知りたいんですよ。進藤に言えないような話なら僕の胸に秘めておけばいいだけです。好奇心ですよ、下世話な」
えみりは僕を真顔で見つめる。下世話な、までは言いすぎただろうか。品定めするような冷たい視線は、僕と彼女の間にある椅子や机を透かしているかのように突き刺さる。
「マスメディア研究会、入る?」
「結構です」
「その答えは解釈が複数ありうるから、控えたほうがいいよ。つけこまれる」
「……先輩みたいなのに?」
「えみり、ね。よし、気に入ったよ」
そう言ってえみりは満面の笑みを浮かべ、ファイルを閉じた。
「協力するよ。後輩の疑問と好奇心に応えてあげることにしよう。残念ながらこのファイルにある情報では不足しているみたいだから、調査にいかないとね。明日から昼休みと放課後はここに顔を出してくれ」
「昼休みもですか?」
「愛しの進藤くんとの昼休みも、どうせいまは居心地が悪いんだろう? スマホのガチャやノルマの周回なんて廊下を歩く間に回せばいい」
「愛しくはないです」
うれしそうなえみりは立ち上がり、ファイルをしまう。背中からもウキウキしている様子が伝わってくる。頼る先を間違えたことと、他に頼る先のないこれまでの人生をいくらか後悔し、メッセージアプリのIDを交換したあと、個人情報をやばい人に握られたことに遅れて気がついた。外の雨は少し和らいだようだが、日没が近づき、暗さは増しているようだった。
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