63 塩の結晶

 最後に見たロプノール湖は、全長二十キロメートルにも及ぶ塩田の施設跡地で、湖床から塩化カリウムなど肥料用の塩を採取・精製していた。









 塩湖で見つけた塩の結晶。透明な正六面体。子どもだった頃の宝物。

 大切にずっと持っていたかったけど…………私はそれをかじって、飲み込んでしまった。









 天山山脈の南麓なんろくに、小さな集落がある。オアシス都市の栄光が砕けて、数世紀は退化してしまったかのような村。大人たちは、農耕馬や労力として小さな社会に入り込み、生活をしていた。


「もうすぐ、ここを出て行けるよ」


 仲間は移動に必要なお金を貯めていて、それは近いうちに旅に出られることを意味していた。









 私は言葉を覚える為に、学校へ通っていた。読み書き、計算、歴史……友だちは居なかった。









 村を出て、どれだけ移動しただろう……。北京ペキンの大学施設で、大人たちは何かを待っていた。寮や図書館を使わせてもらうのに、何を差し出したのだろう? 子どもの私には、知らされていない取引があったはずだ。





 待ち続ける大人たちに痺れを切らして、私は退屈していた。図書館で覚えた検索で、北京大学の周辺に何があるか調べる。

 或る日、私はそっと抜け出して、地下鉄ライトレールで香山公園へ行った。(※北京市海淀ハイディエン区売買街四十番地、香山東麓とうろくに位置し、百八十八ヘクタールの面積を有する皇家庭園)かつては静宜園せいぎえんと呼ばれた清王朝の帝室庭園で、景観の美しい…………今は海水が浸水して、十万本以上あったハグマノキは立ち枯れている。久しく失われた紅葉の朽ちかけと、流木のように水辺で佇む木だったものは墓標のように見える。





 タリム盆地を出てから、一度も駆けていない。





 私は浸水したままの立入禁止区域へ入り込んで、少しだけ走った。…………ロプノール湖が懐かしい。タリム盆地の荒れ地へ帰りたい。





 それから、船に乗ることになった。





 始めは、外来の軽種馬(主に乗馬や競走馬として扱われる品種)で隣国のインテグレイティアへ輸入されるはずだった……が、そう簡単には通らなかった。それはそうだろう。黒曜馬こくようばは、普通の馬ではないのだから。





 出入国管理の入国イミグレで、差し止められた。


 軽種の競走馬で最も有名なサラブレッドは、人の手によって完全にその血統を管理されている。黒曜馬が入り込む余地などない。又、人に変身する馬など、八百長の温床を懸念したり、人道的倫理問題まで浮上しかねない。混乱の火種は、警戒されて当然だ。


 防疫の観点からも、生態系を大いに擾乱する可能性のある植物・食料・生物(特に病原体)の移動を水際で阻止することは、出入国管理の重要な目的の一つである。黒曜馬という世界に類を見ない生物が、流入避難民の受け入れと同様に通るはずもなかった。





 黒曜馬は、法務省の外局である入管庁(※略称・通称)から、世界で初めて人間として扱われ、難民認定申請の後、難民認定・在留許可とヒプノス島への上陸が許された。これは、特例措置と言ってもよかった。


 長らくインテグレイティアでは、難民認定率が一パーセント以下であったが、複数回行われてきた流入避難民の受け入れで、難民認定にも緩和の兆しが見られるようになってきていた。





 インテグレイティアの入管庁は『インテグレイティアの難民認定数が少ないのは、申請数が少ないから』としている。

 一方、難民認定申請者側は『インテグレイティアで難民認定申請しても、受け入れられないので申請しないだけ』としている。

 一部の法学研究者らの見解は、『インテグレイティアの難民法は手続きが非常に厳格で、実際に申請できる難民はほとんど居ないという制度上の問題がある』としている。





「オニキスは、タリム盆地に帰りたくならないの?」

 レインに訊かれた。望郷の想いに囚われていたのは、退屈していたからだったと、今ならわかる。

「いや…………良い思い出ばかりじゃないしね」

「そう」

「今は、ここに家と仕事がある。レイン、『知足者富、強行者有志足るを知る者は富み、努めて行う者は志有り』、そんな言葉があるんだよ」

「よく……わかんない」

「老子の『道徳経』だ。私の本棚に、日本語訳の噛み砕いた解説本があったと思う」

「それ……僕でも読める本?」

「読んで……あげようか?」

 レインが飛び付いてきた。

「オニキスが読んでくれるの? 僕に?」

「読んでほしい?」

 私のお腹に顔を押し付けたまま、頷いてる。

「待ってて、探してくるよ」

「僕、コーヒーいれてくるーー!」

 意外なものに興味を持たれた。





 レインが、私の本棚に興味津々なのは知っていた。どれでも好きに見ていいと言ってあるのに、背表紙を眺めるくらい。私が読んで聞かせるというのは、良い提案だったのかもしれない。





「ねぇ、オニキス」

「なぁに?」

「キッチンに塩が二袋もあったよ」

「あぁ。子どもの頃、好きだったものをつくろうと思って」

「何?」

 特別面白いものでもない。

「教えてくれないの?」

 …………

「透明な……塩の結晶」



「何それ! 僕もつくりたい!」









※参考、引用。


『乗馬用品専門店jotheso(ジョセス)』日本で暮らす馬の種類・品種・在来馬について


『出入国管理』ウィキペディア


『難民認定』ウィキペディア

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