62 クロライナの水

 中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部。かつて、ここに都市があった。



 楼蘭。



 その名は、元来都市名であったが、国全体を指す語として用いられるようになり、その後も王都を指す名として継続使用されていたことが知られる。


 四世紀頃から、ロプノール湖が干上がるのとほぼ時を同じくして、国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれた。


 七世紀、六百六十四年に唐の仏僧玄奘三蔵は、楼蘭を『納縛波(Nafupo)』と表記している。(ソグド語『Navapa』の音訳で、意味は『新しい水』)

 インドからの帰途、廃墟となった楼蘭に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているが……都市としての楼蘭なのか、或いはその頃には廃城となった旧鄯善国の別の都市なのか、不明である。







「ロプノールっていう湖の近くに、楼蘭っていう大きな都市があったんだね」

 オニキスはどうやら、そこら辺出身らしい。

「レインはシルクロードを知ってる? 人と物が行き交う通り道にあったから、楼蘭は交易で栄えたんだ」

 オニキスの話は、僕にはところどころ難しい。西洋や中近東のものがシルクロードを経由して正倉院へ届けられる。……この話は多分、六年生の社会か中学の歴史で教わると思うよ。







 僕は、もうとっくに舟を漕いでいた。


 オニキスが昔居た場所の話を(僕がねだって)聴いていたけど、途中からオニキスは本棚から大判の地図帳を引っ張り出してきて、僕にできるだけ正確な話をしようと歴史的に話し始めたんだ。……わかる? まるで僕は、授業でも聞かされてるみたいになって……要するに、ものすごく(気持ち良く)、眠い!





 今、オニキスの家に居る。帰って来たんだ! (春休みだからね)


 物しか載せないと思っていた物流鉄道には、ちゃんと人も乗れる便が出ていた。僕は、荷物に擬態して厳重に梱包されなくても、電車に乗って貿易港へ行き、フェリーに乗ってヒプノス島へ行くことができた。(オニキスといっしょに行ったルートが特別だったなんて、知らなかった)

 僕は独りでヒプノス島へ帰れた。独りでも、知識とお金と時間があればできるんだ。(電車の乗り方も切符代も、オニキスからだけど)僕は(まだ自分でお金を稼げないけど)、お金を貯めておく意味を少し理解したよ。


 帰る日をオニキスに言っておいたけど、フェリーを降りてぐオニキスに会えたのは驚いた。時間までは言ってなかったのに、どうしてオニキスは港に居たんだろう? おかげで、港から家までドライブで帰れた。





 頭がふわふわ、身体もふわふわ。目を開けていられない。ガクンてなった。

 オニキスの長い話は中断されてしまった。僕の寝落ちがバレたの。本当はもっと、ずっと聴いていたいのに。オニキスが僕を持ち上げる。ちょっとは背も高くなったのに、軽々と。(いつか僕だって、オニキスを持ち上げてみせる)





「おやすみ、レイン」


 あぁ、ここ、ベッド。僕の部屋だ。僕の枕……僕の毛布……


「……オニキス」


 僕もオニキスに、おやすみを言いたかった。オニキスは戻ってきて、手が……僕の頭をなでて、行ってしまった。







 アーバンに居る時、同じ夢をよく見た。帰れない夢。ここへ、帰れない、夢。でも、もう見ないと思う。僕は知らなかっただけなんだ。帰る方法を。もう、あの見捨てられたような気持ちにもならないし、ただただ悲しい気持ちにもならない。

 オニキスと、オニキスの家が、僕の居場所なんだ。









「オニキス」


 仲間が私を呼んだ。


「いつまで塩湖に居るつもり? 皆、もう行ってしまうわよ」


 私はこのしょっぱい湖が好きだ。ここに居たい。


仔馬子どもを置いて行けないわ。いらっしゃい」


 あ〜〜ぁ。いっそ私を置いて、行ってしまえばいい。…………ここを離れたら、きっと二度と戻って来られない。そう思うんだ。だからここに居たいのに。





 タクラマカン砂漠。

 アルタイ山脈、天山てんさん山脈、崑崙こんろん山脈に囲まれたタリム盆地は、最後の氷期から現在の間氷期へと遷り変わる頃、盆地のほぼ全域が、カスピ海のような極めて広大な湖となった。その後、気候が温暖化するにつれて次第に水が失われ、大部分が砂漠になったと考えられている。


 人間がロプノールと呼んでいる……いや、呼んでいた湖は、大洋に星々が落ちるメテオインパクトよりずっと前に干上がってしまった。


 ロプノールは、山脈の雪解け水を集めるタリム川とチャルチャン川が流れ込んでいるのに、湖から流れ出る川はない。始めは、天に届くほど高い山々に囲まれた盆地全部が湖だったのに、湖の水はどんどん失われていって、末端湖となったんだ。そして……人間には『さまよえる湖』としての姿が、永く記憶されている。


 



 私の仲間は、もっと人の居るところへ移動して、人間になろうとしていた。


 私と私の仲間には、人間のつけた名前があった。『黒曜馬こくようば』と呼ばれて、特別扱いをされる。八百長の競走馬にさせられたり、物好きに売り飛ばされたり、時には平等に馬肉としてさばかれる。そんな目に遭っても、懲りずに人間社会へ馴染もうとするのは、何故だろう。卑下をするでもなく、果敢にアプローチを続けることをやめないのは……

 もしかしたら、この世の何処かには、異形いぎょうの存在でも生きていける……そんな場所があるのかもしれない。









 今、私と私の仲間は、インテグレイティアに居る。


 新興国の人間は、黒曜馬を晩のおかずにすることもなく受け入れ、市民権を与えてくれた。





 ヒプノス島の刑吏という仕事は、世界の外側みたいな孤島の、汚れ役にでも見えるだろうか?


 いや、どう思われていても構わない。


 少なくとも私には、ここは安住の地なのだから。









※参考、引用。


『楼蘭』ウィキペディア


『ロプノール』ウィキペディア

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