56 猫の家

 わたしはねこである。


 わたしのいえはここ。





「あ、猫! 触ってもいいですか? オニキス」

 デスクワークで必要な書類を作成する為に、朝から午前中を費やして、机に向かっている。膝には黒猫。

「いいけど、なでると逃げるかも」

「えぇ、ちょっとだけ。可愛いなぁ」

 同僚は手を伸ばして、黒猫をなでている。

「よしよしよし」

 ゴロゴロいってるのが聴こえる。同僚は黒猫を持ち上げて、抱っこした。

「私が同じようにしたら、逃げ出したのに」

「可愛い可愛い」

 聞いてないな。

「あっ…………猫ちゃん」

 黒猫はストンと同僚の手から降りると、私の膝へ戻ってきて、ポジションを探りながら、先程のように丸く収まった。

「そこがいいんだ……ちぇ〜〜」

「構われ過ぎるの、苦手なんだろ。私だって、何度も冷たくされてる」

「ふぅ〜〜ん、そ〜なんですか〜」

「本当は、なでくりまわしたい」

「あはは」


 一度、コーヒーを淹れる為に離席したら、黒猫もそれきり戻らなかった。





 くろい、あたたかいのは、おとなしくできてた。

 ふふん。わたしは、くろいのをしっている。





 レインをアーバンへ連れて行って、置いてきてからも、私は宿舎ではなく家へ帰っている。家は、レインが居る感じがするからだ。玄関の小さなサンダル、レインの部屋のドア、戸棚のマグカップ、ベッドに置いたままの本。朝、ミルクコーヒーを用意してしまって、愕然とする。居ないんだった。レインは居ない。だから私は、この家に帰って来るのか…………


 週末、午前中は家事で過ぎていく。休日の昼食が、こんなに味気ないものだったか、毎週驚く。午後、本当にやることがなくなってしまって、家を出て、目の前に広がる芝生に寝っ転がってみた。

 誰も通らない。寝てても誰にも何も言われない。レインが…………夜中に外へ出て行くのは、ここら辺だった。遠くへは行かない。この家を…………買って良かったな。

 陽射しが暖かくてウトウトしていたら、横っ腹に温かい感触。黒猫だ。いつの間に来たんだろう?





 やぁ、くろいの。おまえはまっくろで、あたたかい。そのままじっとしていろよ。





 なんだかニャオニャオ言いながら、陽当りの良い場所で、私の黒い服に身を寄せて座り込む。手を伸ばして、そっとなでようとしたら、スルリとかわされる。どうして私の手を嫌がるのだろう? まぁ、いいや。なでさせてくれなくとも、黒猫は離れず傍に居る。充分だ。


 それから、自分のいびきで目が覚めた。ポツポツと降り始めの、小雨。黒猫は居ない。


「洗濯物!」

 休日はシーツやテーブルクロス、カーテンなどの大物を洗濯する。今日はシーツとカバー。飛び起きて、家に帰った。

「そんな、濡れてない……か」

 取り込んだシーツを畳んで、ベッドには替えのシーツをかける。替えのシーツは、匂いを失くしている。洗濯済みの寝具は畳まれて、しまわれて、干された匂いは消えてしまう。

 天蓋の、ベッドを覆い隠すオセアニックブルーは、多少褪せて、濃い青味はほんの少し薄まっている。レインは、私の寝床を海の中に居るみたいと言っていた。

 海…………家の中の壁を一面くらいは、深い青にしても、いいかもしれない。白や淡い水色の壁も良いが、暗い色味は奥行きになるだろう。





「スクレーパーはお持ちですか? 綺麗に貼れますよ」

「そうですか」


 ホームセンターへ壁紙を買いに来た。分厚い壁紙のカタログを捲って、イメージしているものを探し出す。DIYに必要なものを買い揃える。


 図書室本の部屋の、背の低い棚を置いている側の壁を、ミッドナイトブルーに張り替える。青系の色味の中でも黒に近い青だ。本棚の向こうが、夜みたいで良い。

 本棚の上には、レインが海岸で拾ってきた石英の欠片やシーグラスを、シャーレに入れて置いてある。(いつか、マッコウクジラの龍涎香アンバーグリスがヒプノス島に漂着して、それを拾う奇跡の日が来るんだとか、言ってたな……)僅かに口径の異なる二枚の皿は、片方が蓋になって良い。

 真っ暗な一面の夜の壁は、濃紺と青で織られたジョーシャガン(※イラン中央部イスファハン州メイメ郡にある村。ペルシャ絨毯の産地)の絨毯とよく合っている。本を積んでいただけの部屋は、大分居心地の良い場所になった。レインが居たら、夜の壁はどうか聞けるのに。





 わたしのいえ。わたしのいえ。わたしのいえ。

 へんないきものもいるけど、わたしはわたしのいえがすき。





 本物の夜。


 窓を開けていると、潮の匂いがする。テレビのニュースは、アーバンの首都圏で起きた事件について、伝えてくる。交通事故、殺人事件、集団失踪、窃盗…………ヒプノス島なら、どれか一つでも大事件だ。これが都会との差だ。

 ヒプノス島の住人は、(監獄の囚人を除いて)誰がどこに住んでいて、何をしている人か、ほとんど知っている。


 時々……ヒプノス島自体が、一つの大きな家のような気がする。いや、もしかしたら、この島そのものが監獄なのかも…………実際、島民は監獄の関係者か、社会生活上必要な施設の運営者、そのどちらかに従事しているもので構成されている…………いや……やめよう、くだらない想像だ。





 あのくろいの。あのくろいのに、ちかづきすぎてはいけない。

 あのくろいの。あれは、よくないもの。





 仕事へ行く途中、黒猫を見た。私とは逆方向へ歩いて行く。


 海岸か…………


 職場の同僚に黒猫を見た話をしたら、猫になりたいと言われた。野良猫を羨ましく思うなんて、わからない。私は私で居て充分なのに、そうでない人も居るのか…………やっぱり人間て、よくわからないな。


 ヒプノス島が小さな島でも、自分に家がなかったら、帰る場所がなかったら…………考えて、やめた。今は、サンド・オセアノーの草原を夢にも見ない。ロプノールの湖床を駆けていた頃の気持ちは、もう遠い。一度離れた場所はそれきりなんだ。どうして戻れることを考えて居られたのだろう。


 仕事の終わり、特別収容施設へ行く。思い出さない日がある。私の仲間はどうしている?





 どこにいても、たのしいことだけ。


 わたしにわかるのはそれだけ。





「どうして、ヒプノス島に猫が居るんでしょうね」

 どうして、人間が居るんでしょうねぇ。やめた。厭味は言わない。

「犬も鳥も居る」

「誰かが連れて来たんでしょ」

 それはそう。

「猫より先に死んだ人が居たのかも」

「あぁ、なるほど」

 野良猫の経緯なんて知りたくないかも。あれ…………私とレイン、どちらが先に死ぬだろう?





 すなはまには、はまなす。


 わたしがぼんやりおぼえている、て。


 あのてをさがしているのに、みつからない。


 どうしてだろう。

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