51 摩耗する呪い
レインは、その日言われた言葉を、ずっと忘れていた。
それはきっと、意味のない、
あの日は雨で、テントの中は暗かった。
僕は腰が抜けていて、何かに掴まって立とうとして、隅に置かれた椅子の方へ這いずって行ったんだ。
お父さんがホームセンターで買ってきたけど、あまり使わなくて、スタックしていた
お母さんが模様替えをしようと出していた絨毯。丸めて椅子の隣に置いてあった。僕は絨毯を乗り越えて、椅子に掴まろうとしていた。
ちょうどその時、誰かがテントの中へ入って来た。助けてと、もう少しで声をかけるところだった。
その男は、どこかおかしかった。倒れているお母さんとお父さんに向かうと……土足の足で、一人ずつ裏返したんだ。
ねぇ……わかる? 目の前で何が起きたのか、僕は理解できなかった。
声を出したらいけない。見つかってはならない。瞬時に僕は、床に這いつくばって、音を立てないよう後ろ手で絨毯の端を引っ張って、身を隠した。
息をしている音が聞こえるんじゃないか? 向こうから僕が見えているんじゃないか? 心臓が馬鹿みたいに早鐘を打ち続けて……恐ろしかった。
「おまえは……死んだんだ……おまえも」
「もう、明日は、来ない」
「おまえだけが、生きてる明日なんて、来ないんだ!!!!」
その男は、何か言ってた。ブツブツ、ボソボソ、終いには怒鳴って……そして出て行った。車の、乱暴にドアを閉める音、エンジンの音がして、遠ざかっていく。それを、ずっと、隠れて、聞いていた。
僕は……確かに、近くで聞いていた。なのにその男が、何て言っていたか…………思い出せないんだ。
「思い出す必要はないよ、レイン」
誰……だ?
……オニキスだ。
はぁ。そうか。又か。又僕は。
「……オニキス……ごめんなさい」
僕は裸足で夜中に、オニキスの家を出ていた。オニキスが……居る。
「明日は、友だちとピクニックへ行くんだろう?」
つい今さっきまで、僕はテントの床に這いつくばっていた。それは悪い夢だなんて。僕は、思い出せない暴言より、いっそ丸ごと忘れてしまった方が、よっぽどいいんだ。
「レイン」
オニキスは可哀相だ。せっかくヒプノス島まで連れて来た子どもが、これじゃあ。
「何か、温かい飲み物を淹れるよ」
「……ココア」
「はいはい」
僕は、いつまでも弱っちい甘ったれで居たくないのに。
「他に欲しいものはあるの? レインくん」
「ない……です」
オニキスは……時々、僕のお母さんより甘い。僕は駄目人間になりたくないよ、オニキス。
ヒプノス島、海岸。
「レインは、甘ったれなんかじゃないわよ」
ハルは言い切った。
「そ、そう?」
僕はハルにおにぎりとウインナーを、ハルは僕にちまきと焼売を、取り替えっこする。海辺でピクニックだ。
「ワークブック投げ出したりしないし、ラジオ体操一度も休んだことないじゃない」
「ハルがいっしょだからだよ」
「嘘。私が風邪引いて休んだ時も、来てたでしょ?」
「行くまでわからないしね」
「……そっか」
「そうだよ」
ハルが住んでいる住宅地区の集会所を、僕らは教室代わりにして毎日勉強している。時折、人数変動があって新しい子どもが増えることもあったけど、ハルが以前僕にも話してくれたように、基本二人きりだ。学校のない孤島に長居する子どもなんて普通は居ない。
「ハルは家帰ってからも勉強してるんでしょ?」
「うん。もうすぐ小学校へ戻るの。勉強、着いて行けるように」
「僕、独りになってもここへ来るよ」
「私が居なくても?」
ハルがくれたビーズのブレスレットを、ハルに見せる。
「離れていても友だちだ」
「……レイン」
隣に座っていたハルが……僕を見つめる。
「離れたら……忘れていくの。レインのこと、忘れたくない」
「忘れてもいいよ。僕がハルのこと、覚えておくから」
「私だって覚えとくわよ!」
「ハルは新しい友だちのこと、覚えて? 僕のことは……いいよ」
「なんでそんなこと言うの? レインのばか!」
僕だって前の学校のこと、少しずつ忘れていってる。時間が経つのって、そういうことでしょう?
でも、ハルはちゃんと僕の友だちだから、僕はずっとハルを覚えている。僕にはもう君だけだから。
「僕は、ヒプノス島が大層気に入っちゃったから、他にどこへも行かないんだ。こ〜んなお爺さんになっても、ず〜〜っとここに居るかもね。だからハルのこと、僕は友だちとして、忘れることなんてできないのさ」
「レインのば〜〜〜〜か! ずっと居るなんて、できっこ……ないわ」
グスンと、ハルが涙目になっている。僕は甘い玉子焼きをハルに差し出す。ハルは一口齧った。
「……甘い」
「うん。僕は馬鹿なの?」
ハルは首を振った。もう一口。
「レインは……狡い。どうして怒ったりしないの?」
「ハルに怒りたいこと、なんにもないよ」
ハルは、手元にあるちまきを全部掴むと、僕に手渡してきた。
「これから先、どこへ行っても、何人友だちができても……いちばんの友だちは、レインだから」
「ふふ」
「何、笑ってるの、私は本気で」
「僕はハルのこと、きっと一生忘れられないよ」
「何でよ?」
初めての友だちだからだよ。
「言わなぁい」
「私は言ったのに……狡いよ! レインのばかぁ」
ハルがヒプノス島を出て行っても、僕がここで独りっきりの子どもになってしまっても…………全然いいんだ。
僕は、オニキスにここへ連れて来てもらって、ここが本当に好きになってしまった。ここは、とても良いところだ。
今まで、家の他に居場所だと思えたところなんて、なかった。ヒプノス島へ来るまでは。だから僕は、ここに居たい。ずっと。
「ピクニックは楽しかった? レイン」
「うん」
夕飯を食べながら、僕とオニキスは今日の話をするんだ。オニキスは、今日お昼時と午後休憩にちょうど呼び出されて、休んだ気がしなかったんだって。
「行きたくないです、って言えないんだ」
「言えたらいいねぇ」
オニキス笑ってる。大人になって仕事するの、大変なんだろうな……
「そこで寝たら風邪引くよ」
図書室(本棚しかない部屋)で、オニキスの本を見ていた。
「ねぇ、オニキスの部屋でいっしょに寝てもいい?」
「いいよ…………何で?」
「これ、寝ながら解説して」
オニキスの本。屋外で使うダッチオーブンのレシピ集。
「あぁ、うん、いいよ」
「……レイン?」
オニキスは、試したことがあるレシピを話してくれた。今夜は朝までぐっすり眠れそう。
「ありがと、オニキス。おやすみ……なさい」
「おやすみ、レイン」
オニキスは、僕が悪夢に苦しめられていても、何回かに一回は、気付かず目も覚まさない。真夜中に独りぼっちで外から家へ戻る時、眠っているオニキスをそっと覗く。
僕はオニキスのやさしいところ、好きだけど、ちょっと図太いところ、大好きなんだ。
オニキスは、自分は人じゃないって言ってた。人より強い生きものなんじゃないかと、僕は思う。
オニキスといっしょに居て、ここは良いところで、もう僕は……他に居場所なんて知らない。
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