32 夜の檻と歓喜の昼

 この世の終わりはきっと此処ここで、海の向こうはあの世へ通じているに違いない。


 ヒルコは暗い空を見ていた。





 葦舟あしぶねは、島の浜辺に漂着した。

 流されるままであったヒルコは、動かなくなった葦舟から這いずり出た。





 ヒルコの身体は欠けており、腕は片方が肘までしかなく、もう片方はほとんどない。脚に至っては片方が膝までもなく、もう片方はない。

 あるだけの身体が成長しても、ヒルコは立ち上がることなど到底できはしなかった。





 ヒルコは砂浜から波打ち際まで転がって移動した。海の水は少し冷たい。ヒルコは汚れた身体を、目茶苦茶にのた打ち回って、どうにか洗い流して、そして途方に暮れた。


 どこからか、海鳥の鳴く声。このまま命が尽きたら、鳥たちは降りてくるかもしれない。


 ヒルコは、泣いていた。


 薄暗い曇り空は低く、空も海も灰色で、波が砂を、沖へ浜辺へ動かしている。砂を取る手もなく、ヒルコは背中や身体そのもので、寄せては返す波を感じていた。

 目の奥が熱い。涙が次から次へと溢れてくる。熱い涙が伝って落ちて、ぬぐうこともできない。


 どうして、私は泣いているのだろう…………悲しいのか? いや、よくわからない。何もできず、かえりみられることもなく、まだ生きていることが、本当にヒルコにはわからなかったのだ。


 ヒルコは一頻ひとしきり茫然としたのちに、再び葦舟へ戻る。今度こそ寄り道などせず、彼岸ひがんへ向かうことを願って、砂浜の葦舟が満ち潮で海へ流れ出るのを待つことにした。













 それから、どれくらい経ったであろうか。


 暗闇の中で、ヒルコは目覚めた。引きずる音……葦舟は海へ出ていない。何者かが葦舟に縄をかけて引っ張っている。


「…………」


 叫んだはずなのに、声は喉に貼り付いて、息が通り抜けた。ヒルコは身をよじって暴れた。何者かは歩を止め、ヒルコを葦舟から抱き上げる。

 ヒルコは驚いて、何者かの手の内から逃れようと跳ねた。身体に触れている手は、張りがなく乾いていて、老人のようであるのに、ヒルコの身体をかかえ持てるだけの力はあるようだった。


「そんなに暴れないでおくれ。おまえさまを落としてしまう」


 喋った。ヒルコはまともな言葉をかけられて、動くのをやめた。

 何者かはヒルコを片腕で抱き、もう片腕で葦舟を引きずって、浜辺からそう遠くない祠のような場所へ歩いて行った。





 ヒルコは見知らぬ老人に拾われ、座敷にあげられ、着物を着せられていた。深紫色こきむらさきいろの座布団を重ねて積み上げて、座ることもできないヒルコを、正座の目線になるよう支えとした。

 ヒルコは生まれて初めて、そのような位置から他の人間を見ている。


 座敷の前に、老人はヒルコに湯を使わせ汚れを落とし、おろしたての白い浴衣を出してきたのだ。


 老人に拾われてから、ヒルコは丁重に扱われている。





「どうぞ、お上がりなさい」


 老人はお膳立ての夕餉を用意して、ヒルコに差し出す。まるで神前に供えるような様子。

 手のないヒルコに、老人は匙で雑炊を一口ずつ甲斐甲斐しく運ぶ。温かい食べ物は、ヒルコに空腹を教えた。


「もっと」

 粗末な雑炊であるのに、ヒルコは食べながら、よだれが溢れて垂れていた。

「魚はわたしが釣りもうした」

 老人が箸で白身をほぐして、ヒルコの口へ運ぶ。

「もっと」

 老人が運ぶ食べ物は、どれも温かく、どれも美味く、ヒルコは食べながら泣いていた。

 

 食べ終える頃には、ヒルコは声を上げて泣いていた。





「さぁさぁ、もう泣くのをおやめなさい」

 老人はヒルコが前のめりに倒れ込んでしまわぬよう、手を添え、優しく背をさすり、宥めた。


 ヒルコはこの親切な老人に訊きたいことがいくつもあったのに、布団を敷かれ、寝かし付けられてしまった。


 老人はヒルコの枕元で言う。

「おまえさま」

 眠りに落ちる前、呼びかけられる。

「おまえさまの、奥底に眠るまことの姿で、明日目を覚ましなさい」

 真の……姿……?

「わたしは、見てみたいものです。それはそれは……」

 ヒルコは老人の言葉を聴き終える前に、安堵の中、眠りの水底みなそこへ沈んでいった。









 …………ザァザァと、雨降りの音…………









 ヒルコは薄く目を開けると、雨戸が閉められていて、戸に当たる雨粒が土砂降りを知らせる。ヒルコは布団に寝ていたはずなのに、雨戸に頭を寄せて寝ていた。灯りがないので、座敷は暗い。老人も居ない。外の様子が見たくて、雨戸を細く開ける。


 台風でも来ているような雨と風。


 ヒルコはふと、雨戸にかけた手を見た。……手だ。……鉤爪の、獣のような手。驚いた拍子にけ反って倒れる。

 倒れるのは慣れている。バランスの取れない身体だ。転がるのも、のたうつのもヒルコには常である。でも今は…………


「おまえさま、どうなされた」

 座敷でドタバタしていたので、老人がやって来た。

「あ……あ……」

 ヒルコは老人の手にしている行灯に照らされて、立ち上がった。


 老人はヒルコを見上げている。立ち上がった龍の姿を。座敷の天井の倍はある身長で、自分の姿がよくわかっていないヒルコは、鴨居にぶつかり倒れ込んで、老人の前に伏した。


 老人が手を差し伸べて、ヒルコがぶつけた箇所を撫でさする……が、しかし、その手は瑞々しい幼子おさなごのものだった。


「あなたは……」

 ヒルコは老人をまじまじと見つめる。老人は、夕辺には確かに老人であったのに、今目の前に居るのは幼い子どもである。

「おまえさま。わたしよりも、おまえさまの御姿をご覧なさい」

 行灯をかざされて、ヒルコは自分の身体を見た。


 大蛇のような、白い鱗に覆われた胴。暗い金色の髪……ではなく、たてがみ。乳白色の鉤爪と、五指の揃った両手と両足。


「昨日の浜辺へ行ってみるか?」

 こんな大雨の中、海へ? 正気の沙汰ではない提案。

「行って……みる」


 ヒルコと幼子は雨戸を開け放って、外へ出た。幼子に促されるまま出たものの、龍の身体の勝手など知る由もない。

「おまえさまは、あめの水を泳げるはず」

 幼子は手をひらひらと、くねらせて見せる。ヒルコは見様見真似で身体全体をしならせると、雨の中へ泳ぎ出ることができた。

「水の中に居るみたいだ!」

 幼子は喜ばしい笑みでヒルコを見ている。

「雨の……中だ」

「雨空だって昇れるよ」

 幼子はヒルコに天を指し示す。ヒルコは幼子の前へ来て、伏せて言った。

「いっしょに行こう」

 幼子はヒルコの背を撫でて跨ると、ヒルコに両腕を回して、金のたてがみに頬を寄せる。


 ヒルコは跳ねて、雨空を高く駆け昇って行く。ザァザァ降りの中、びしょ濡れで、ヒルコも幼子も心跳ねて踊り回るように。昨日の浜辺など、一っ飛びで着いてしまう。





「ねぇ、教えて。あなたは昨日のお爺さんと同じ人?」


 嵐の沖に浮かんで、ヒルコは背の幼子に尋ねた。

「昨日、おまえさまを浜辺で拾ったものだよ」

 荒海あらうみに居ながら、不思議と幼子の声はヒルコの耳に澄んで届く。

「夕辺はお爺さん、今朝は幼い子ども。どうして?」

 背の幼子に振り向いて、ヒルコは尋ねる。幼子はにっこりとヒルコに笑みを向けて言う。

「昼には若者、夕辺には又お爺さんさ」

「あなたは一日で一生なの?」

 ヒルコは少し悲しそうに表情を曇らせる。

「……優しい龍、朝が来れば、この通り。そんな顔をするものではないよ」

 ヒルコは涙を滲ませていた。幼子はベソかき龍を撫でて、言う。

「おまえさまは本当に優しい」

 よしよしと、幼子は自分よりも遥かに大きく立派な姿のヒルコを、小さな手で穏やかに宥める。


「おまえさま。わたしは魚を捕まえてくるから、浜辺で待っていておくれ」


 幼子はヒルコの背から降りると、海原を歩いて行く。荒れ狂う沖に居るはずなのに、幼子は軽やかな足取りで波間を歩いて行く。その後ろ姿は、いつの間にか少年のものへ変わっていた。


 ヒルコは雨と波の間をパシャパシャしながら浜辺へ飛んで行く。

 砂浜。

 ヒルコは砂浜の砂を掻いて穴を掘り、波打ち際から尾で水路を引いて来て、穴の前の砂壁を決壊させて遊ぶ。砂浜に大きく、鉤爪で絵を描いていく。描き上げる前に、雨と風が絵を消し去っていく。終いにはバシャバシャと走っているのか飛んでいるのかわからない様子で駆け回っている。

 ヒルコはうれしかったのだ。五体満足な上に、大きな空飛ぶ龍になって。自由に動ける身体、自在に動かせる手足。





 雨がやんだ。雨雲も風も、海の彼方へ遠ざかって行ってしまった。


 龍の姿でいるヒルコの身体から、雨粒が落ちて乾いてくると、ヒルコは砂浜に膝を着いた。


 膝? …………ヒルコは今まで白い鱗に覆われていた胴が、光に晒されて、水滴が弾け落ちるように見えた。魔法が解けるように、変身していた身体から輝きが散って離れていく。そう感じられた。

 ヒルコは砂浜に、確かに膝を着いている。膝の続きには足があって、触れている手にも五本の指があって…………ヒルコの身体は、どこにも欠けたところなどなくなっていた。


 ヒルコはゆっくり立ち上がって、二本の脚で立った。あまりにも普通に。両腕を伸ばして見る。右も左も、手がある。





 暫くして、海から青年が歩いて来た。ヒルコは魚を何匹もまとめて持っている青年をまじまじ眺める。


「おまえさま」


 嵐の海へ出た時は幼い子どもだったのに、先程は少年で、今は成長した青年。


「あなたは…………神様?」


 青年はヒルコに微笑みかけた。ヒルコは知った。あぁ、私は神様に拾われたのだ。常世とこよの島へ流れ着いて、最後の最後に、思わぬ救済があった。





 陽が落ちて、行灯を灯す頃。青年は壮年の名残りを残しつつ、昨日見た老人になっていた。


「ここは、あの世なのですか?」

 ヒルコは老人に尋ねた。

「あの世は海の向こう。ここは常夜島とこよのしま…………夜の国だ」

「私の身体はいったいどうしてしまったのでしょうか?」

 ヒルコは両腕を伸ばして、両手をしげしげと眺める。

「今こそがおまえさまの姿であったはず」

 老人はヒルコの手を取り、ヒルコの五指に触れていく。

「私は……かような扱いを初めて受けました。…………神様、……私を拾い上げてくれて、本当に」

 老人はまだ年端も行かないヒルコの頭に触れ、撫でる。ヒルコは言葉を続けることができず、老人に抱きついて泣いていた。

「おまえさまは良い子だ。とても、とても良い子だ」

 母様かあさまにも、父様とうさまにも、そんなことを……言われたことが、あっただろうか…………


 その晩、ヒルコは老人から離れることなく、眠りに就いた。





 未明に老人は布団から這い出て、障子を開け、長い廊下を這って行き、台所の勝手口から出る頃には立って歩いていた。

 老人は再び幼子おさなごの姿に成長している。


 ヒルコと寝ていた老人は、夜中には一度冷たくなり、命は繰り返されていた。


 これが海の神の、永遠とわに続けられてきた命の姿だった。常夜島とこよのしまの時の流れは、島が世界の外側にあって、およそ人々の暮らす世界とは異なるものであった。

 人は海へ流されても、海の神の島へは着かない。

 ヒルコは来るべくして、神のもとへ漂着したのだ。













 幼子おさなごは、自らを人の子だと思い込んでいる、泣き虫の龍神に手を差し伸べた。尊大なところなど何一つない、地に落ちて憐れなる様子の龍神は…………海の神には大層、いとおかしきものに見えた。


 身のうちに真の姿を隠したままであった龍は、この世に生まれ落ちて、れ程の時を、孤独の檻に囚われたまま見送ってきたのだろう。

 いたづらに、無為むいに過ぎるだけであった時を…………


 夜ごと繰り返される死から逃れることの叶わない海の神も又、龍神によって救いをもたらされていた。


 夜の翼に完全に覆い隠される中、途切れる命は死をくぐりり抜け、脈動が戻る。龍神は海の神に触れたまま、夜の間中ずっと離さなかった。  

 千々に乱れることなく、海の神が死を迎えたのは、初めてであった。





 ヒルコが目を覚ますと、布団の中に独りきり。

 ヒルコは起きた。身支度を整え、神様が用意してくれた着物に着替えて、外へ出た。

 眩しい朝陽を、ヒルコは晴れ晴れしい心持ちで浴びている。世界が、輝いて見える。朝の素晴らしさを、感じられたことなど、今まであっただろうか…………

 ヒルコは光の中、海の方へ駆けて行った。





「……神様」

 海の神は、沖で魚を捕まえていた。

「おまえさま。塩焼きにしよう、美味いぞ」

 海の神は、魚を掲げて見せた。ヒルコは笑っている。





 海の神とヒルコは祠に魚を置きに戻ると、次は裏手の小山へ入って行った。

 ヒルコは海の神が山の中で、山菜を摘み、樹の実を取り、清水を水筒に汲んだりするのを感心深く見ていた。足場のよろしくない洞窟へ入り、氷室から氷を掻き取ると、小山を出て祠へ戻った。


 祠の台所で、ヒルコは飯を炊き、海の神はおかずに取り掛かっていた。

 二柱が手を尽くして、朝餉の膳はつくられていく。

 座敷に運ばれたお膳立ては、目に喜ばしく、神の命を繋ぐものであった。


 ヒルコの炊いた御飯は、飯粒が立ち並び…………豊穣の祝福そのものであり、海の神がたてまつったおかずは…………海と山の恵みをむさぼる命の風景である。

 世界にちりばめられた無尽の奇跡は食事のもと、絶え間ない流動から刈り取られ、命に取り込まれる。


「箸が……持てない」

 海の神は、箸の持ち方を覚える前に棄てられたヒルコに、箸使いを教えた。





 正午過ぎには、二柱ふたはしらの楽園だった。

 海辺で磯遊びに興じ、海の神に手を引かれてヒルコは泳ぎを覚え、雨の日にはヒルコが龍になり、海の神を背に乗せ飛び回った。





「神様! 足の着かないところでも泳げるようになったよ!」

 浅瀬の波間で、ヒルコは言った。

「龍神よ…………取って参れ!」

 海の神は、流木を力任せに沖へ放った。ヒルコはザブンと潜ると、一掻き一蹴りで泳いで、直ぐに流木を捕まえて戻って来る。

 昼過ぎの海の神は、いちばん激しく遊んでくれるので、この時間が好きだった。





 夜中にはいつでも二柱の神は共に居た。ヒルコは海の神から離れない。夜の合間に、命を終える海の神から手を離さなかった。

 死のひととき、熱の喪われた、冷たい身体に触れているのは、好きではなかった。


「神様…………神様……」


 ヒルコは、このような夜を繰り返してきた海の神に同調して、泣いていた。









 夜明け前。

 海の神がヒルコよりも先に目を覚ますと、ヒルコの腕の中に居た。眠っているヒルコを起こさぬよう、這い出る。


 ヒルコは伸びやかに育ち、青年へと成長していた。


 海の神は、ヒルコの慈悲深い心根と力を、独り占めしていてはならないと思い至り、ヒルコに旅立ちの提案をしようと決めたのであった。

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