29 ヒルコ

 雨夜から数日。

 ヒルコは再び王宮の地下水路へ侵入を試みていた。


 他に方法を思い付けなかったので、雨夜を待って、同じようにしたのである。


 だかしかし、王宮地下へ辿り着いても、あの親切な人間は居なかった。





 確か、あの夜は……ほとんど寝落ちしかけていた私を、どこかへ運び入れてくれた……


 記憶を頼りにヒルコは歩き始めた。ここへ来るまで、龍の姿になって水路を泳いできたから、びしょ濡れだ。身体ごと振って、水気を飛ばす。腕に結わえ付けて持ち運んだ、白い上着と履き物を身に着けて、それでも幾分濡れているまま、歩く。


 ヒルコは回廊を進んで、王宮の居室へ来た。扉を叩いた。声をかけたいが、何とかけていいものか、わからない。ただ、ヒルコは扉を叩いて、開けてもらうのを待つより他は、何もできなかった。









 足音と扉が開かれる音。

 ヒルコは扉から離れて立った。


「…………」


 又会いたくて訪れたのに、ヒルコはその人間の名前も知らなかった。





 王様は軽い驚きを覚えながらも、中へ入るよう促した。声をかけようにも、王様は言葉に詰まっていた。雨夜の訪問者は再び、自ら現れた。そのことが嬉しく思えていたのだ。





 ヒルコは迎え入れられたことと、自分が忘れられていなかったことが、喜ばしく…………言葉もない歓迎は、心に響き、ヒルコは微笑みの表情となる。





 王様は濡れているヒルコを見て、あの夜のようにヒルコに触れ、髪や身体を拭いた。


「雨の晩に現れる、あなたは何者ですか?」

「ヒルコ。私は……国主を探している」


 王様より幾分背の高いヒルコは、冬の海のような海水色の目で、一心に見つめてくる。


「国主…………私はインテグレイティアの王です。あなたの探してい」

「王……様」


 言い終える前に、ヒルコは王様の足元に跪いて、呼んだ。


「どうか私を、王様に仕えるものに、加えて……ください」


 金色の、まだ水の雫が伝う、濡れた暗い金色の髪が、足元に拡がって見える…………

 王様はヒルコに顔を上げるように、跪くことをやめるように、そう言おうと思うのに……ヒルコの暗い輝きを放つ、長い長い髪に見蕩れていた。


 王様はヒルコの前にしゃがみ、ヒルコの手を取って、立たせた。


「王とは言っても私は……」


 ヒルコの手が王様の手をうやうやしく取り直して、その手に拝礼する。王様は口にしようとしていた言葉が、掻き消えてしまった。


「ヒルコ」


 王様はヒルコの名前を呼んだ。ヒルコは、真っ直ぐに王様を見つめてくる。ヒルコには、見えない力があるかのようだ。


「私に仕えたいと?」

「はい」

 即答。

「あ」

「なぁに?」

 ヒルコの目に見つめられると目が離せない。

「週末だけ、お願いします」

 いきなり、週末バイトの面接でもしているような感じになる。ヒルコは平日働いている龍なのだ。

「週……末」

 王様は困惑しつつも、週末だけ仕えたい希望に、答えなくてはならなかった。

「来たい時に来なさい」

 にっこり。ヒルコが得たいと望んで難しいものなど、この世にあるのだろうか? 他のものがしたなら小狡こずるく映るであろう笑みも、ヒルコのそれは、王様に良い印象を与えたに過ぎなかった。

「帰ります。外、水路からじゃなくても出られますか?」

「明るくなってからは?」

「あなたの寝るところを取ってしまったから」

 そんなことを考えていたのか。

「私は別に、あれから起きていたし」

「起きてて何してたんですか?」

「あぁ。あなたの……ヒルコの……髪を拭いて、それから」

「それから?」

 ヒルコは見てくる。

「見ていた。ヒルコを」

「私を?ずっと?」

 実際、ヒルコの顔を、夜明けまで見ていたのだ。眺めていた。見ているだけでなく、乾いて真っ直ぐになったヒルコの髪を手指でいて、スルスルと滑らかに戻った感触を堪能していたのだ。

「あはは……王様は変態だ」

 言われた言葉の酷さとやわらかな笑みが一致しない。

「国主の興味が引ける顔をしていて良かった」

 なんだか邪悪なことを言っているようなのに、邪推することもできない。外見で得をする構図そのものであるのに、ヒルコには一片の邪気も感じられない。

「美しく生まれて、育って、良かったものだ」

 厭味混じりに口に出してしまった。ヒルコはほんの少し、口角を上げてみせただけで、答える言葉はなかった。 

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