25 美しい生きもの

 あなたは何者か?


 私は国主に付き従い、仕える力である。









 ヒルコは王の居ない部屋を出て、外へ出た。

 雨夜から明けて、雲一つ無い快晴の朝。ちょうどアーバンの都心部は通勤と通学の人らが通りに流れていた。


 前合わせの白い上着の隠しボタンを上から下までめて、足元は踵を踏んで履いている素足の足首が、歩く度に見え隠れする。

 ヒルコの長い長い髪は、濡れていないとゆるいカーブは消え、真っ直ぐに落ち揺れる。暗い金色の髪は陽の光を反射し、煌めいていた。


 通りの人の流れと反対に歩いていたヒルコは、しかし誰ともぶつからない。肩先や、手の指先すら、当たる様子なく。通りすがる人は、ヒルコの外観に、彫像のようなオブジェクトを避けて歩くような、そんな感じだった。あまりに美しい造形は、生きている人間みに薄く、遅れてくる気付きと驚きから、ヒルコが通り過ぎてから振り返る人が多かった。





 宛もなく歩いていて、ヒルコはふと何かに振り返った。『何か』はいなかった。何かが後ろから、付いて来るような、そんな気配がしたのだ。


 ヒルコは確認できなかった何かを振り払いたく、走った。片手で上着の裾を膝まで上げ、今度は人の流れに沿った方へ。同じく後方で走り始めた気配がする。何かは確かに、ヒルコを後追いして来ていた。


 ヒルコが何かと距離を離しても、背の高いヒルコの金色の頭は目印のように目立ち、何かは執拗に追いかけて来た。

 堪らずヒルコは身を屈めて人通りを掻い潜り、路面店へ逃げ込んだ。

 何かは、只の瞬間的に変質者へ変貌した凡百の一粒であり、ヒルコを見失って、又再び市井の人へとかえっていった。

 ヒルコとすれ違い、振り返って、何者でもない誰かを一瞬で変貌させる程、ヒルコの造形は美しいものであった。





 ヒルコが入り込んだ店は、朝食に立ち寄った客で、まばらに人が居た。ヒルコは振り切った何かの居た外へ出る気にもなれず、店の奥へ入っていく。外の晴れ間と相俟あいまって、店内は目が慣れるまで薄暗く見える。大きな窓枠に切り取られた明るい中庭の様相は絵画的であり、ヒルコは吸い込まれるように庭園へ足を向けていた。


 サラセンホテルの中庭は、アーバンの都心部に在りながら、早朝の慌ただしさとは別世界だった。


 ヒルコは庭園を抜けて、レストラン皿千へ通ずる外階段へ来た。先程通り抜けてきた庭園喫茶室よりも、大きな店。

 ゆっくりと外階段を降りてくるヒルコを、店内から見ているものが居た。ヒルコがドライエリア席の合間を歩いて、何も持っていないのに、これ以上立ち入る気にもなれず引き返そうとして、不意に声をかけられた。


「座っていきませんか?」


 年配の男性。白いコックコートで店の人だとわかる。


「これから私は朝食なんですよ。あなた、もしよければ少しの間、付き合ってくれませんかね」


 突然の申し出に面食らいつつも、ヒルコは頷いて相席する。男性は、ちょっと待っててくださいよと言って、銀盆に載せた朝食一揃えを持ってきた。


 ヒルコは、男性が朝食にありついてる様を見ている。

 熱々のオニオングラタンスープ。グリュイエルチーズの入ったビーフコンソメスープを、パルメザンチーズで封じて焼き上げた、麗しの熔岩。バケットでつくったガーリックトースト。

 男性は、ティーカップのような形の持ち手が両側に付いたスープカップをヒルコに差し出してきた。琥珀色のコンソメスープ。


「いただいても?」

「どうぞどうぞ」


 男性は煮えたぎる熔岩スープを啜りながら、ヒルコには澄んだ上品なスープをすすめた。


 カップに唇を寄せて、滋味溢れる液体は、喉元を過ぎて染み渡る。ヒルコは熱をもてなされて、自然と口角が上がる。


 男性は向かい合わせのヒルコの食す姿を見遣りながら、満足気にバケットを囓る。男性の朝食に加えられた美しい生きものは、極上スープの美味を底上げしていた。


 熱いスープを飲み干して、ヒルコも満たされた様子で寛いでいる。

 男性はそのようなヒルコに、名乗って話をもちかけた。









 バックヤード。

 忙しさのピークにある皿千で、ヒルコは同僚のキャリーと喋っている。


「コンソメスープでバイトにありついたんですか?!」

「そうだよ」


 ヒルコの大分端折った話では、キャリーには突飛で驚きのエピソードだった。

 ヒルコはサラセンホテルの屋根裏部屋に住んでいて、通勤数分で仕事に来れる。


「まさか、住むとこも?」

「料理長が都合してくれた」


 ヒルコ先輩を見れば!声をかけたくなるのも、仕事に誘いたくなるのも、住むとこだってなんとかしたくなっちゃうの、わかるっちゃ〜〜わかる! この男、まさか初っ端から料理長を落としていたとは……


「見た目だけで生きていけると思ったら大間違いなんだか」

「あ、休憩おしまい。ほらほら、仕事仕事」

「ちょ、あの」


 キャリーはヒルコに押されてホールへ戻っていった。


 休憩から給仕が皿千のホールへ戻る。それがヒルコであるだけで、直ぐにも彼は客に呼ばれて向かう。きっと今日も、ヒルコは何度も呼ばれて、注文は次々増えるだろう。









 美しい生きものは、サラセンホテルに居る。

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