20 ディバイル
或る朝。
資産家ディバイル・ナークス氏の訃報は、新聞の朝刊と関連企業の社内報に掲載されていた。
「あなたを『ディバイル』と呼ぶのは、どうにもしっくりこないわ」
「私も同感です」
エリノア・レクストフと弁護士の2人から圧をかけられ、居心地悪そうにしている青年が居た。
青年は、仕立てたばかりの喪服に袖を通したものの、手持ち無沙汰に袖口から指先を突っ込んでカフリンクスを弄り倒している。
弔事ではつけないのがマナーとされるが、生前のディバイルはダブルカフス(※袖の両端にボタンホールが開いているシャツ。カフリンクスを使用しなければ袖を留めることができない)の上等なシャツをオーダーしたので、着ている。
ディバイル曰く、ジャケットを脱がなければ見えやしない。誰ぞに見咎められることがあったら、私が着ろと言っていた、そう言えと…………
青年は、ディバイルの死について、喪失感を持て余していた。
そっとジャケットの袖口を上げて、シャツのカフリンクスを見る。長方形のプレート状にカットされた天然のブラックダイヤモンドが、金の爪で留まっている。24金製。同じものなら、指輪よりも高い。だってカフスは2つで1つだから。
ディバイルは24金が好きで、いつも何かしら身に付けていた。金なんて、成金みたいだ。私は興味ない。ディバイルは自分で、成金だからいいんだと言っていた。このカフリンクスを新調した時、遺産を喰い潰したら売ればいい、ディバイルは笑って言った。
ディバイル。
あなたは私に名前と沢山の金品を与えたけど……いちばんは、私をどこへもやらずにいてくれたことなんだ。
ディバイルは、『私』というスペアを所有しながら、結局一度たりとも使うことはなかった。
口では、私の首から下半分、臓器を全取っ替えしてやるなんて言っていたけど……もし、そんなことをしても、若さも時間も手に入れられる訳じゃないんだって。
そりゃそうだ。時間は、誰にも所有できない。持ち得るとすれば『個人の失われ続ける時間』……それを記憶として、生きてる間くらいは持っていられるだけさ。
あなたは私に自分の名前をくれた。ディバイル。あなたの人生は、私がもう少し続けるよ。
「実際、あなたはディバイルでしょう?だって、経緯はどうあれ、元々ディバイル・ナークスからつくられたのだから」
「いやな創世記だ。……人間は、小賢しくなる一方です、神さま」
「最後のお祈りですよ」
レクストフと青年と弁護士は、祈った。
喪服の群れの中で、ディバイルは衆目を集めていた。
ディバイル・ナークス。故人と全く同じ名前の青年。告別式の参列者たちには、遺産相続人である青年と知れていた。好事門を出でず悪事千里を行く……悪いことなんてまだしてないけど、噂は千里を走る。しているとすれば、私をつくった悪徳生命保険会社の方だろう?
同胞が小間切れにされてなきゃいいけど……
葬儀が一通り済んで、アーバンに来ている。私はずっと郊外の病棟暮しだったので、雑多な街中は物珍しい。
遺産相続の手続きの一切は、弁護士とレクストフに言われるがまま執り行った。
ディバイルが私に遺した家は、大き過ぎた。とてもじゃないけど私独りが住むような家ではない。かと言って、住む場所もなかったので、レクストフにお願いしてアーバンで賃貸物件を探してもらった。
「私もディバイルからあなたを頼まれているの。報酬も頂いてるから、何でも遠慮しないで。週に一度は来るから」
「野垂れ死んでも1週間で発見される訳だ」
「やめてちょうだい、ディバイル」
青年は笑みを浮かべている。
「なぁに?」
「……名前」
「そうね。今はあなたがディバイルよ。呼んだら返事をしてちょうだい」
「……はい、レクストフ」
新しい場所で、最初はそんな始まりだった。
とりあえず、部屋の中を歩き回る。
玄関、私の靴。黒いエナメルの、恰好に全振りした靴。エナメルなんて弔事向きではないけど、ディバイルが……
廊下、トイレ、洗面所、風呂……部屋が2つと、リビング、キッチン、ベランダ。テナントビルの上階が居住用で、間取りは全て同じらしい。
リビングのソファーだけ、ディバイルの家からカウチソファーを持ち出した。仰々しくも洗練された、座ると沈み込む、人喰いマットレスのソファーではなく。
全く何もすることはないが、テレビと冷蔵庫と洗濯機を買いに行かなくてはならない。家電量販店へ行けば一度で済みそうだ。
翌日の昼過ぎには、配送も設置も終わってしまった。さぁ、いよいよ何もなくなった。このままカウチでゴロゴロしていたら、レクストフに呆れられる未来しかない。
まぁ、今更でもあるが。
コンビニへ行ってみた。病院の売店とは違う。食べるもの、飲みものを買う。喪服のシャツとズボン。ジャケットとネクタイと、カフスもなしだ。靴はこれしかない。着慣れた寝間着で外出するのは、さすがに駄目だってわかる。病院の中は、所詮小さな世界だった。私は外へ出て、本当の世界を知らなくてはならない。
夜。
静か過ぎて眠れない。テレビをつける。雑音代わりなのに、眠れない。
月曜にレクストフと別れてから、火曜はほとんど何もなく過ぎていこうとしてる。
青年ディバイルは、着替えて鍵と財布だけ持って、外へ出た。
行くあてはない。なんとなく、駅の方へ向かう。ターミナル駅のロータリー近くを歩いていると、酔っ払いが行き倒れている。見慣れないものに遭遇して、ディバイルは吃驚した。往来の人々は誰も気にかける様子はない。
「あの、大丈夫ですか?」
ディバイルは倒れている女性に声をかけていた。ディバイルは病棟に居た頃、廊下で倒れている人を医者に引き渡したことが何度かあるのだ。その感覚で、助けが必要な人だと認識して声をかけていた。
女性からの返答はないが、伸ばされた手が何かを探すように動いて、ディバイルは女性の手をとった。
「助けが必要ですか?私にできることがあったら」
言いかけて、女性の口が何か呟いているように開かれる。
「み、水……」
「水ですか。ちょっと待っ」
「お願……置いてかな……で」
ディバイルはすぐそこにある駅前のコンビニで、ペットボトルの水を買ってこようと思ったが、女性は泣いていた。どこか苦しいのかもしれない。
ほんの少しもこの人を放ってはいけない気がして、ディバイルは女性に言った。
「そこのコンビニで水を買ってきます。立てますか?」
女性は頷いて立ち上がる。ディバイルは落ちている鞄を拾って、女性に腕をまわさせて肩を貸すと歩き始める。女性の身体はディバイルに寄りかかることで立てている。10センチはありそうな高いヒールの靴。黒いストッキングが伝線していて、黒くスラリとした女性の脚に白い傷が走っているように見える。実際どこか擦りむいているかもしれない。
ディバイルは水と消毒液と絆創膏、適当にそれらしい黒のストッキングを買っていた。
そしてホテルの一室に居る。女性はベッドで眠っている。照明を落として、ディバイルはベッドサイドに座っていた。
このまま部屋を出て帰ってもよかったが、女性が
暗い中、ディバイルはいつの間にか横になって眠っていた。
誰かが頬に触っている。ディバイルの手じゃない。ディバイルが時々、私の肌をどこかしら触ってきて、撫でさすっては、若いと手触りが違うとか何とか言っていた。老人は、時々気持ちが悪い……ぼんやりした覚醒の途中、その手は、自分の手のようで違う手だった。
「ねぇ、まだ起きないの?」
はっきり聴こえた。目を開けると女性が起きてる。私はベッドの布団の中に居た。
「おはよう、ございます」
女性は目を見開いた。
「あの、もう大丈夫ですか?」
「あ、あなたこそ大丈夫なの?」
「え?」
「あなたがずっと起きないから、あなたにずっと悪戯してたのよ?親切な誰かさん」
溜息をついてディバイルは起き上がった。服を着ていない。あ、パンツは履いてる。シャツ、シャツ。ズボンは……
「ねぇ!」
「はい!……なんですか?」
「なんですかじゃないわよ。無視しないで」
「あぁ。えぇと……悪戯って、私の服を脱がせたことですか?私はディバイル・ナークス。昨日、駅前で倒れていたあなたに肩を貸したものです」
几帳面に答えるディバイルに面食らいながら女性は言った。
「財布を確認した方がいいわよ。なんだかあなた、騙されそうで怖いわ」
「騙されそうって……財布、ありますね。なんともないです」
ディバイルがくれた財布。レシートを捨てる。変化はない。
「ねぇ!これ、ありがとう」
女性は黒い新しいストッキングの脚をディバイルに見せる。
「あなたにお礼したいわ。何か言って?」
「帰る」
「え?」
ディバイルは笑顔で女性に言った。
「元気そうだし、私も眠れたから」
「ディバイル、あなた眠れなかったの?」
ディバイルは答えず、笑ってみせた。
「さようなら」
ディバイルはチェックアウトして、駅前のビジネスホテルを出た。
早朝のまだ低い陽射し。水曜。ディバイルは帰らずに、適当に歩き始めた。
通りに面した路面店をいくつも通り過ぎて、帰宅した。まだどこかに入るには時間が早過ぎる。
帰って、家の中を換気してる間に洗濯と風呂。いいかげん何か服を買わないといけない。ディバイルのクソデカハウスでは寝間着でいられたけど。洗濯が終わるまで湯船に浸かっている。シャツ、アイロン面倒だな……
10時過ぎ。スーツ量販店へ来た。
いかにもな服屋に入るには勇気が足りない。吊るしのスーツの中から紺やグレー、無難なとこを見ていると声をかけられた。
「どういったものをお探しですか?」
「普段着を」
顔も上げずに返答して見ていた。
「スーツが普段着ですか」
「ぅん?」
顔を上げるとスーツの男性と目が合う。
「おにいさん、素敵なスーツ着てますね」
「店員……さん?」
「違います」
違うんかい。
「随分仕立ての良いスーツなので、声かけちゃいました」
ぅわぁ…………そんなことで声かけてくる人いるのか……しかも男性。
「ネクタイだけ外してるの……どうしてかな?もしかして、喪服?」
瞬間的に後ずさって距離を取ってしまった。
「あはは、済みません。ただのナンパです」
こんなとこで?男性に?……都会って。
「私は外に着ていける服が欲しくて」
「どうしてスーツを?」
どうして?どうしてって……ディバイルが選んでくれたのがスーツだったから……他にどんなのが普通なんだ??
「あ、僕のこと警戒してますか?全然大丈夫ですよ?」
「大、丈夫」
「そうそう、大丈夫大丈夫」
後ろから肩に両手を添えられ、移動させられる。
「いや、いやいやいや。オーダーメイドじゃなくて吊るしので……て、あれ?」
店外へ連れ出される頃には腕を組んで歩いていた。そして別の店へ。
「ここ、さっきの店と何が違」
「ここもスーツ量販店。でも対象が明確に20代向けでシルエットが綺麗なんですよ」
「へぇ〜〜」
全然わからん。
「これ、似合うな〜」
さっき私が見てたグレーのと何が違うんだ?試着室へ押し込まれた。ジャケットとズボン。なんだか着てみると、ディバイルがオーダーしたのと着心地が近いような。
「やっぱり!」
なにがぁ??
「ここのはシビアなタイトさだから、細身のスタイルじゃないと着こなせないんですよ。細いと言ってもガリでは似合わない。おにいさん、青い目だからネクタイは青系かな」
うぅん、あんまりよくわからない。ネクタイ、目の色と揃えればいいのか。なるほど。
「目、綺麗だから、髪後ろで結んで顔出せばいいのに」
ディバイルの長い前髪を片側だけ上げると……染みも黒子もない、陽に当たらない肌に目を見張る。手が、頬に触れられる。
「顔は出さないでいい。なんか恥ずかしいから」
て、あの!頬の手が、なでなで、ぷにぷに、好き勝手してくる。ちょっと!
「…………」
「やめてくれ」
無言で弄り続けるのは!
「やめろぉ」
「なにこれ……どぉゆぅ手入れを……」
「これって、これって、あれじゃない?」
「セクハラ?」
そう。それそれ。
「じゃなくて!」
結局、見知らぬ人がスーツと靴を買ってくれた。ディバイルと言い、何故なんだ……服が
いったん帰宅して新しいスーツと靴で、朝方見た路面店へ来た。
ホテルの喫茶室……店内の奥に大きな窓があって、緑豊かな庭園らしき風景。見蕩れていると、白いワンピースに黒いエプロンの女性が、庭園を抜けるとホテルのレストランへ行けますよと教えてくれた。
レストランは地下にあって、外からだと階段で降りて、屋根なし吹抜けみたいなテラス席が並んでいる。
外階段からドライエリア席に客が来た。給仕のヒルコはメニューと水を持ってテーブルへ向かう。
「いらっしゃいませ。屋内の席もご案内できますが、いかが致しますか?」
「ここで、いいです」
細身のスーツがよく似合う、黒髪の青年。おとなしそうな、人が苦手そうな感じ。ヒルコは客を観察していた。
「今のお時間ですと、ランチのメニューからもお選びいただけます」
青年は受け取ったメニューを眺めると、間を開けずに言った。
「ミルクレープショコラとレアチーズ」
ケーキ2つ頼む人かぁ……
「ケーキのご注文にはコーヒーか紅茶をお付けしています。どちらになさいますか?」
「コーヒーお願いします」
「かしこまりました」
注文が済むと、給仕はテーブルを離れていった。……ハァ。なんなんだ、今の人。天然なのかな?あの金髪。長い長い綺麗な髪。背が高くて、やたら美形……気の所為か、店内に居る客が彼をチラチラ見ているような……て、自分も見ているか。フフ。都会って、吃驚するような美しい人がいるな。
「お待たせ致しました」
ヒルコがデザートプレートを2皿、並べて置く。コーヒーのソーサーを、持ち手を私に良い位置に合わせて置いてくれる。長い指、爪の形まで美しい、ヒルコの手を目で追っていた。
テーブルを離れて、ヒルコが甘党の青年の方を見ると、コーヒーに砂糖を入れている。
角砂糖を1つ、2つ、3つ、4つ、……えぇ……青年は8つ入れて、ミルクはコーヒーが冠水するほど。
甘いケーキと合わせるコーヒーなら、ブラックで口の中をリセットするくらいの飲み方でもいいのに……あの人……
ディバイルのコーヒーの飲み方は、コーヒーを食事の補助にしていた癖である。
病棟暮しで、ディバイルには飲食が特別楽しいものではなかった。
カフェインと糖分の液体。その程度の認識だった。
故ディバイルが食事をあまりできなくなっていったので、ディバイルの食生活も若干物足りない状態に陥っていった。
時折襲われる空腹感の不快さをどうにかする為、時間外の食堂へ行っては甘いコーヒーを啜る。そんなことを日常的にしていたのだ。
ディバイルの独特な飲み方は、ヒルコの記憶に残るものだった。
帰りはホテルの方から。出て行く時に、ロビーから電話をかけた。スーツ量販店の男性に。
ディバイルが男性に買ってもらったスーツと靴は、高価なものだった。口頭のお礼で済ませていいものではない。なんとかして一度会って、代金を渡すなり何なりしたかった。
「はい、学芸編集部です。お電話ありがとうございます」
「三島……さんはいらっしゃいますか?私は名刺を頂いて」
「少々お待ちください」
三島由烏合夫……みしま、なんて読むんだ……?
「はい、三島です」
「午前中に会いました。あなたにスーツと靴を買ってもらって……わかりますか?」
「あぁ!……お電話ありがとうございます」
「もう一度、あなたに会えますか?」
喜んで。そう言って三島は、時間と場所をディバイルに伝えた。
密度の濃い水曜。19時に駅前の外食チェーン店。時間通り、ディバイルは三島に会いに来た。
2人きりではなく、どうやら歓迎会に参加させてもらえるらしい。店員に三島の名前で予約されている席に案内されると、数名の男女が居た。
「あなた……三島のナンパした人?」
「男の子じゃん!」
「座って座って」
「わぁ〜、スーツだ〜、ちゃんとしてるぅ」
陽キャだ!…………どうしよう…………
ディバイルは瞬時に、毛色の違うテリトリーへ来てしまったことを察知した。帰りたい!だが、三島に用がある。肝心の三島はまだ来ていない。
「三島もちゃんと来るから座って!」
「名前、何ていうの?」
大変なところへ来てしまった。2人が一旦半円のソファ席から離れて、ディバイルを真ん中へ。退路を断たれたぞ!
「ディバイル……ナークス」
一瞬の沈黙。なんだ?私はここの誰とも面識なんて、ない。
「なんか聞いたことない?」
「うん、最近どこかで」
「おにいさん、モデルさんか何か?」
「ディバイルでいいです。違います」
ディバイルには、質問数と同等の返答数で返す、律儀で間抜けな癖があった。ハイテンポの会話に慣れていなかったり、対話テクニックを考えない、そういった人にも見受けられがちな特徴である。
短いやりとりでも、場に居た4人は、ディバイルが見た感じよりも全然人馴れしていない、小綺麗な恰好はしていても、内実は垢抜けていない、そのような印象を持ち始めていた。
「スーツ素敵ですね、ディバイル。俺も、こういうの着たら素敵に見えないかなぁ」
「私は服を、何着たらいいかもよくわかっていません。これだって、三島さんが買ってくれたものですし」
「「「「え?!?!」」」」
何が驚きだったのか、ディバイルはわからない。
「これって、スーツ?今着てるの?」
「三島が?買ってくれた?」
「ちょ……ナンパって、本気の……」
「やだ、ディバイル……すごい綺麗な顔してる……三島さん好きそう」
どれどれ、と一同に注目される。
「わ〜〜本当だ〜〜青い目綺麗〜〜」
「髪長いから気付かんかった。見せて見せて」
「ディバイル、いくつなの?」
「
はたち!!一同はダメージを喰らった。
「肌も髪も、ピカピカのツヤツヤじゃ〜ん」
帰りたい!!ディバイルは陽キャテンションに振り回された。
「おまえら、何僕の見つけた子いじめてんの?」
「三島……さん」
ディバイルは、現金の入った封筒を渡して帰りたかった。
三島は新しく入社した編集と事務の2人を連れていた。漸く全員揃って、歓迎会は始まった。
とりあえず乾杯をして、各々注文を追加していく中、ディバイルは新しい事務員の女性から視線を感じる、ような気がする。チラチラ見られているような?
ここには三島以外、面識のある人はいない。
ディバイルはふと目線を伏せる。エナメルの靴を履いてこなくてよかった。あれは多分黒でも目立つ。両隣の2人はスニーカー。そうか、今度私もこういう靴を買おう。
ここに居る人の靴を見遣っていたら、1人はハイヒール。随分ヒールが高い……ぅん?
「あ!」
思わず声が出ていた。
「私も……あなたに会いたいって思ってたわ、ディバイル」
ピタリと賑やかさが静寂に変わる。
「ちゃんと……帰れましたか?」
「えぇ」
…………
「何 何 何 何〜〜〜〜?なんなの??」
三島が口火を切った。
「そこ知合いなの?ディバイル」
「昨日、彼女が駅前で倒れていたから」
「ディバイルが助けてくれたの。ちょうどよかった。ホテル代払いたかったのよ」
「必要ないです。私も寝れたから」
三島を筆頭に歓声と悲鳴が上がる。2人は直ぐさま気付き、誤解を解いた。
「なんだ、ビジネスホテルか」
「ディバイルが『寝れた』なんて言うから」
「ちょっと寝付けなくて歩いてたら、行倒れかと思って」
「ちょっと人助けしちゃったの〜」
「ちょっと泥酔してただけですから」
「ちょっと泥酔はダメでしょ〜」
歓迎会は終了し、二次会は呑み足りない面々でカウンターバーへ。
「三島さん。お名前、何て読むんですか?」
「お名前?僕の?ディバイル、僕の名前知りたいの〜〜」
なるほど、今夜も酔っ払いか……
「ゆぅごぉ。三島ユーゴーだよ」
「三島さん。スーツと靴の代金、受け取っていただけませんか?」
「えぇ〜。や〜だ〜」
取り合っちゃくれねぇ。困ったな。
「ディバイルは、お酒、呑めない人?」
「飲んだことないだけで……お酒、美味しいですか?」
「ウフフ……美味し〜よ〜?」
ディバイルも酔っ払ったら、こんな風になったりしていたのかな……
目上の人である三島を見て、ディバイルのことを思い出していた。
「ディバイル〜〜僕、スーツ大好きなんだよねぇ」
「でしょうね」
三島はスーツが普段着な人らしい。
「ディバイルに着てほしいの、まだあるんだぁ……それとぉ黒スーツじゃ、普段着には足りないでしょ??」
「編集さんの恰好、参考になりました。靴とか。真似してみます」
「ダメダメダメダメ〜〜〜〜ディバイルは、スーツ、着〜る〜の〜〜」
酔っ払いめ!
「スーツも着ますよ。あの、スーツと靴代は、受け取ってもらえませんか?」
再度ダメ押しで訊いてみる。
「…………」
「三島さん?」
「……来て」
「え?」
「バイトに来て。お金要らない。身体で払って」
三島はダメ元で訊いてみる。
「いつでもいいから来て」
「はい」
「え?」
「いつでもって、いつ行けば都合いいですか?」
「いい……の?本当に?」
「私は何の技能もないですけど、それでもいいんですか?」
思ってもない答えが、ディバイルから返ってきた。
「三島さん。できれば、今日の割り勘にも入れてほしいんですけど」
「ダメ」
プイと、そっぽを向かれたまま三島は言った。
「僕の奢りじゃダメなの?ディバイル」
「三島さん。そろそろ酔い、覚めてきてません?」
「さ、覚めてないも〜ん。奢られるのやなら、ちゅ〜してよ〜ディバイル」
ハァ。
溜息つかれた、と思ったらディバイルに向きを戻されて、キスされた。口に。ゆるんだ唇からディバイルの舌が……前歯に触れて、舌は、犬歯から犬歯までなぞると、舌先が触れ合う前に、ディバイルの口は離された……
何が、何が起きたの?ちゅ〜?ディバイルと?……ディバイルから?!
「三島さん」
ディバイルが割り勘の紙幣を差し出している。圧に負けて、受け取る。
カウンターの、他の編集は誰も見ていないようだった。ディバイルは両隣を確認した上で、死角を考慮して三島にキスしたのだ。
「…………」
「いつ、伺えばいいですか?」
ディバイルは、一口もアルコールを摂取していなかった。
「明日……13時……14時までには皆出社してると思うので」
「承知致しました。今夜はお招き頂き、ありがとうございます。おやすみなさい、三島さん」
「おやすみ……ディバイル」
木曜、朝。
ディバイルは、砂糖が飽和状態に達しそうなコーヒーを啜っている。昨夜の満腹感が続いているようで、トーストは省略した。
今日は午後、バイトへ行く。
三島は果たして覚えているだろうか?もしも忘れられていたら、代金封筒を置いて帰ろう。よし、大丈夫大丈夫。
正午。
三島は、泥から這い出るように起きた。二次会の後、帰宅してから追い酒をしたのだ。
13時半。
三島は平静を装い、エレベーターの鏡面でおかしなところが少しもないか鏡像を凝視している。
学芸編集部。
昨夜、二次会に来なかったものは、キチンと働いている。カウンターバーでしこたまアルコールに浸かっていた編集部員は、着席してはいるが一様にゾンビのようであった。
フロアの隅、パーテーションで区切られた簡易応接スペースに、ディバイルは居た。
「おはよう、ディバイル。何時に来たの?」
「おはようございます。ついさっきですよ」
「12時半には来てましたよ!」
デスクの方から声がする。
「ふぅん!感心感心」
ディバイルはシャツだけ昨夜とは別のもの、スーツは三島が買い与えたものを着ていた。
「本当に2着しか持ってないんだな」
「後4着持てば、洗濯もクリーニングも週1にできます。あ……」
「何?」
「忘れてた。喪服は急ぎだったけど、もう1着仕立ててもらってるのがあって……」
ディバイルは、故ディバイルとの別れで頭がいっぱいになっていて、オーダーメイドは他にもあったことを今の今まで忘れていた。
三島は覚醒した。
「あの、素晴らしいブラックスーツと同じ仕立て屋さん?」
「はい」
「……見たい。見たい見たい見たい……ディバイル〜〜……絶っ対見たい」
「えぇと、2ヶ月くらいって聞いてたから……後1ヶ月くらいかな?」
パーテーション越しに副編集長が覗き見る。
「三島編集長、どちら様ですか?」
「あぁ、おはようございます。新しいバイトです」
「編集長?三島さん、編集長?」
シシシシシと笑う三島。
「じゃあ、ディバイル!仕事の説明するから」
「はぁ」
副編集長が行ってしまうと、三島はクリーニング店のビニールカバーをかけたままのスーツをディバイルに手渡した。
「はい、制服」
胡散臭そうな眼差しが向けられる。ディバイルはジャケットの内ポケットのサイズタグを見た。三島が着られるサイズではない。
「どうして三島さんは、ご自分に合わないサイズのスーツを持っていらっしゃるんですか?」
「どうしてでしょうねぇ」
水曜の10時過ぎ。昨日、三島はスーツ量販店にフラリと入った。
応対の難しい先生のところへ向かう前に、気持ちをリフレッシュさせたくてスーツを吸いに来たのだ。
吸うと言っても別に、ペットを物理的に吸うようなものではない。好きなものが居並ぶ只中に身を置いて深呼吸したい。その程度のこと。
開店して直ぐの店内には、客はいなかった。ッスーーーー…………ハァ。ずっとここに居たい。そんな時だった。
吊るしのスーツが並ぶハンガーラック、スーツを着たマネキン……マネキンだと思ったんだ。完璧なスタイルの、ブラックスーツの。マネキンが、軽く俯いてハンガーを1つ1つ見ている。マネキン……じゃない。あまりにも仕立ての良い、美しいシルエットのジャケットを着ている青年が、スーツ量販店に居る奇妙さ。
声をかけずには、いられなかった。最悪店員の振りをして離れられるように、声をかけた。
三島はナンパをしたなどと言ってはいるが、始めからディバイルに強く惹きつけられ、興味を持って声をかけたのだ。
「電話の取り方だけど……」
三島はビジネスマナー的説明をして、社内組織図と学芸編集部の名簿をくれた。三島に連れられて部内に出社している人のデスクをそれぞれ回り、ディバイルは挨拶していく。ディバイルは名簿の空きに各人の特徴を記して覚えていく。
「名前は社員証見ちゃっていいから。電話は最終的に事務員さんがとるけど、鳴ったら本当は1コールでとりたい。ここにいる人はほとんど電話嫌いで……ディバイルは?電話とるの苦手?」
「いえ別に。こちらに来る前に、いっしょに居た人の電話によく代理で出ていたので、苦手じゃないですよ」
「イッショニイタヒト」
「お爺さんです。末期癌で、私は彼と同じ病棟暮しをしていたので」
故ディバイルの説明が面倒なので、簡単に述べた。
それから午後は電話番、雑用をこなしているうちに、途中休憩を挟んで、21時退勤となった。三島は私に、フルタイムの退勤までつきあわせて申し訳ないと言ってきた。別に何の予定もないからいいのだ。
ところで、三島から渡されて今日着ていたツイードのスーツ……チャコールグレーのヘリンボーン地のスリーピース。
「そのまま着て帰っていいよ。良い目の保養だった」
「これ結局どういったスーツなんですか?三島さんには合わないサイズですよね?」
「ディバイルにはピッタリだった?」
「えぇ、まぁ」
「僕の理想のスタイルのサイズなんだよね」
?何だって??
「…………」
「理想の体型って、背を低くするのはどうにもできないんだよね」
三島は私より背が高くて、どちらかというとガッシリした身体つきである。筋肉量もありそうだ。
「筋肉を落としてダイエットしても、ベースをダウンサイジングするには限界があるんだ」
「ふぅん、そういうものですか」
「ディバイルが羨ましいよ」
三島に明日もよろしくと言われて、
私は、今はもういないディバイルがずっと羨ましかった。
三島に私が理想を体現しているらしきことを言われてもピンとこない。誰でも誰かを羨ましく思うのは、普通のことなのだろう。
ディバイルは、自由のない孤独は耐え難いとよくゴチていた。ディバイルは……どうして、もっと、私を使って自由を手に入れようとしなかったのだろう。
金曜。
遂にディバイルの名前が、先日他界した資産家のそれと同じものであることが露呈する。
「おはようございます。ナークス様」
役職へするかのような挨拶をされた。
「??……おはよう、ござい、ます」
編集部員の1人がディバイルについて調べていたのだ。しかしながら、謎は残る。亡くなった資産家と同姓同名の青年。
「ねぇ、ディバイル。ディバイルのフルネームって、どこかに
「入ってないよ。どうして?」
紙面版の社内報を見せられた。
「あ、ディバイル」
「知合い?」
「知合いというか……ぅん、まぁ」
自分の素性を明かさないと説明できないので、何も言えない。
「あ……愛人だったりして」
三島が口を挟んだ。愛人て何だっけ。ディバイルは困惑していた。沈黙が疑惑を色濃く思わせる。
「そ、そっか~人には話せない事情てものがあったりするよな〜」
「そ、そうそう、それ」
ディバイルの相槌は、タイミングがまずかった。これでは暗に肯定したようにも思われてしまう。
休憩時に、三島が訊いてきた。周囲を気にしてから、小声でディバイルにだけ聴こえるように。
「ディバイル、もしかして援交とかしてた?」
「エンコウ?」
「パパ活みたいな」
「パパカツ……??」
三島の言う単語がわからない。埒が明かない三島は、ディバイルに援交の概要を説明して、ディバイルと資産家ディバイルの関係はそれなのか?と訊いてきた。
「ハハ……なんか今日は様子がおかしいと思っていたら。私がディバイルと肉体関係を?」
「ネクタイカンケイヲ」
「三島
「だってさぁ」
三島曰く、私が着ていた高級スーツ、資産家と同姓同名、浮世離れした雰囲気、そんな感じから連想したようだ。
ディバイルは(生命保険の件は伏せて)自分が遺産相続人だからと明かした。ディバイルとは家族でもないし、他に名前が同じである理由のもっともらしい言い訳が思い付かなかった。後、考えるのが面倒くさくなったのだ。
「…………」
三島は絶句していた。
「ディバイル、僕にちゅ〜したし、あれ?て思うじゃん」
「三島がしてって言ったから」
「してって言われたら!するの?しないよね?普通……ディバイルはぁ……してって言われたら、何でもするの??」
「え?うぅん……できることなら?」
三島に私の損益観はおかしいと言われた。損得勘定、もとい損得感情がおかしいと。
普通とかおかしいとか言われても、私には、実はあまりよくわからない。
きっと私は、ディバイルのスペアとして生まれたから、メリットデメリットが考えられないようにできているのかもしれない。確かめようのない憶測だし、知りたくもない。
私はディバイルに、自分の何をあげてもいいと思っていた。それはそれでいいじゃないか。
土曜の朝。休日。レクストフの来訪。
「おはよう、ディバイル。ちゃんと生きてるじゃない」
「応答がなかったら、中で死んでいるとでも?」
「あら、素敵なスーツ。どうしたの?」
「聴きたい?」
私はレクストフにコーヒーをすすめた。
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