13 名前
私には名前がないことに気付いたのは、辞書で言葉を調べた時だった。
noname
談話室に子どもたちが居た。喋っているのを盗み聞きして、暇つぶしをしていたんだ。
子どもたちが互いに自分の名前について、喋っている。花の名前、綺麗で素敵な花言葉がある花の、意味がある名前。家族で、何代も揃いの字を入れた、繋がっている名前。未来の幸せを願う、夢とか希望とか、そんな名前。
私の名前は?
ここに居る人は皆、手首に何か巻いていて、それに名前が書いてある。病気や怪我の治療、検査を受ける為の識別バンド。
私の手首には何も巻かれていない。
「ノーネーム」
私が呼ばれた。でも、それはいやだ。意味を知ってしまった。『名無し』…………
「もう……それやだ」
「何の話だ? 呼んだら返事しろ」
車椅子の老人が、私に言った。
「ディバイル。名前が……欲しい。私にも、ちゃんと意味のある言葉の、名前が欲しい」
老人は何か言おうとして、やめて、考えた。
「……リファンド」
ノーネームと呼ばれた青年は、自分に向けられた新しい言葉に、目を輝かせる。
「それは……名前? 私の?」
「返事をせんと困るからな。呼んだら来い。リファンド」
車椅子を押せと、青年を顎で使う。
「ねぇ、ディバイル。それは、どういう名前?」
「おまえにピッタリの名前だよ」
「後で調べてみる」
「フン。やめとけ。くだらん」
昼過ぎ。
食堂には人がまばらに居た。入院患者、その家族、医師、研修医。ディバイルとリファンドも窓際の席に居た。
「カレーが食べたい」
ディバイルに言われて、リファンドはカウンターへ向かった。
「カレーライスとヨーグルトラッシー」
「おにいさん。あなたは?」
厨房の女性が訊いてくれた。カレーはナークスさんのでしょう? あなたのは? と。
「多分、カレーが私の分になりますよ」
リファンドは苦笑いで、でも訊いてくれてありがとう。そう、女性に言った。
ディバイルは……カレーを食べた。
「君。こちらを使いなさい」
白衣の医師が新しいスプーンを差し出してきた。突然のことに、動作が停まる。
「あの、えぇと……ありがとうございます」
新しいスプーンを受け取る。
「お節介ではなく、忠告だ。食器の共有はやめなさい」
医師の忠告は……聞かざるを得ない。
「食事を中断させて申し訳ない。次からも、思い出してもらえると、うれしい」
白衣にどことなく萎縮してしまうが、この人はそうでもない。雰囲気が怖くない。リファンドはカレーを食べながら頷いた。
研修医イタカ・イーハツェイクは、時々食堂で見かける風景をみつけると、必ず忠告して回っていた。
ディバイルの個室へ戻ると、ディバイルは居なかった。リファンドは病棟を出て、病院の待合ロビーへ向かった。ディバイルは受付けや会計を待つ人に紛れて座っていた。
「こんなとこ来て、何してるんだ」
「うるさい」
リファンドはディバイルの隣に座った。
「どうしてここなんだ? 居なくなると、よくここに来てる」
「おまえには絶対わからん」
確かに、青年には老人が何を考えて、どうして人が沢山いるロビーに来ているのか、全くわからなかった。
「ディバイル。私がわからないことを、あなたは教えてくれてもいいと思う」
「……若いと、素直に言えるんだな」
「若いからじゃない。私が素直なんだ」
「恥知らずでいられるのが、若さでもある」
「はいはい」
ディバイルの言葉は、他人が聞いたら気分を害する部類の物言いだと思う。私はディバイルが素直じゃないことを知っているので、どうということはない。
隣に座って、やりとりをして、沈黙して、ディバイルは言った。
「ここに居ると、いつか名前を呼ばれるような気がするんだ」
「番号が、電光掲示板に表示されるだけだよ」
「あぁ。自分の番が来るのを待ってる。でも、番号札を持っていない」
「ディバイルは呼ばれたら……」
「会計が最後だ。済んだら、帰れるだろ?」
「ディバイルは……帰りたいのか? どこへ?」
「家に決まっている」
「家……」
「帰るべきところだ。あるだろう? 大抵は、子どもの頃住んでいた家……誰かと暮らしていた場所……或いは、孤独と自由の砦」
ディバイルを時々、羨ましく……いや、妬ましく思う。私が知らないこと、持ち得ないもの、手の届かなさに。
「今あなたが帰る部屋へ行こう、ディバイル」
「フン」
ディバイルは老人だ。治らない病気で、毎日飲まなきゃいけない薬が沢山あって、具合が悪くて寝ているだけの時もあって。
「あなたは、もう何をしても良くなれないの?」
「おまえが首から下半分、私と取り替えてくれたら、なれるかもな」
「いいよ」
「馬鹿が」
「ディバイル。いいよ?」
「接ぎ木じゃないんだ。人間はできない。できてもやらん」
頭と身体が別々だと、どちらがどちらの人間になるだろうか。リファンドはディバイルになってみたかった。
二十年前、気が遠くなる額の生命保険を紹介された。資産家でいると、一般には出回らない話を耳にすることができたりする。どこからどう見ても怪しい、胡散臭い保証内容。『二十才のリペアパーツをストックしてみませんか?』……確かそんなキャッチコピーだった気がする。
二十年満期で『継続の手続きをしなかった場合、満期以降は保険が機能しません』……私は継続せずに、払い戻し金を受け取って終了するつもりでいた。
保険会社は、満期保険金の現物として『彼』を寄越してきたのだ。この保険加入者で、満期後の継続をしなかったのは私が初めてらしい。
二十才のクローンを手放すものなど1人もいなかった、ということなのだろう。いったい、この保険の加入者は何名いるのだろう……空恐ろしい話である。
私は、他に癌保険や生命保険にも入っていた。当面困ることなど何もない。あるとすれば、寿命が後僅かで、『払い戻し』をどうするか、それくらいのことだ。
「リファンド。名前の他に、欲しいものはあるか?」
「? ……別に」
「何かあるだろ。言うなら今みたいに私がマシな時だぞ?」
「思い付かないよ、ディバイル」
リファンドは困ったように、でも嬉しげに笑っている。
「食事だって、私に合わせてないで、好きなものを食べてくるがいい。さっきので足りたのか?」
「足りたよ。大して動かないのに、そんなにお腹へらないって」
「おまえ……ダイエットでもしてるんじゃなかろうな」
「あはは。どうして? 充分スマートだろ?」
ディバイルから見ると、リファンドは大分痩せている方だった。もう少し食べた方がいい。言っても聴きやしないけどな。
「リファンド」
ディバイルが二つ折りのコンパクトな財布を握らせてきた。
「なにこれ」
「持っていろ。今からおまえのものだ」
「わ……」
まだ革の匂いがする、新品の、黒いコードバンの財布。数万円と、数千円と、小銭入れには白い硬貨ばかりぎゅう詰めに入っている。
「現金しか持たせられないからな」
「私が……無駄遣いしたらどうするんだ?」
「売店で駄菓子を山ほど買うのは、無駄遣いとは言わん」
リファンドが車椅子のディバイルの前にしゃがんで、膝の上に甘えてくる。
「私は、ディバイルの子でも孫でもないんだよなぁ?」
「結婚しなかったのに、いてたまるか」
リファンドは……その呼び名の意味も、ディバイルの何であるかも、未だ知らなかった。
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