7 呪われたユニコーン

「これは……象牙だね」


 同学年の少年が、裏通りの怪しいドアを開けて、中へ入っていくのを目撃した。


「よく見て? これは馬の『つの』だったりしない?」


 黒塗りのいかついドア。銀のレバーハンドル。静かに入ろうとしたのに、内側に取り付けられたベルが鳴る。

「いらっしゃいませ〜」

 奥から声がかけられ、後戻りの選択肢が絶たれる。


 声の主は会話を再開して、馬の角だって? 夢を見るのは構わんが、生物も勉強した方がいい、などと聞こえてきた。





 店内の奥から、明らかに不満げな少年が出てきた。C組のヒュー・レクストフ。図書室で何度も見ているから、間違いない。


「やぁ!」

「フン」


 勇気を出して声かけたのに、無視!


「象牙、って聞こえたけど。象牙は種の保存法で、例えカットピースでも、事業として取り扱う人は登録が必要……て知ってる?」


 象牙に関して知っていることを、必死で思い出した。多少、嫌味ったらしかったかもしれない。興味を引きたくて。止まってヒュー。振り返れ。


「ちょっと、来い」

「え? ちょ、あの、えぇ?!何〜〜〜〜??」





 ヒューは自分と同じ制服の少年を引っ張って少し歩くと、別の店へ入っていった。庭園喫茶室。


「ぅわ、何ここ」

「黙れよ」


 着席して早々、コソコソ注文してる。僕らとは違う、白い制服のおねえさんがソーダフロート二つでよろしいですか? と復唱した。あ、僕の分? 悪い奴じゃなさそう。





「さっきの、何?」

 ヒューが、ちゃんとこちらを向いて喋った。

「何って…………僕のこと知ってるの?」


 ヒューは別に、僕に苛ついて〆てやろうとか、そういうのではないらしい。


「おまえもこれが象牙だって言うの?」

 あぁ、そっち。


 ヒューは秘密を隠し持った手の内を、周囲を確認してから、開いて見せた。象牙のカットピース。印鑑とかつくる材料。


「これが何だったらいいと思ってるの?」

「…………」

 言い淀んでる。

「あ。その前に確認したいことがある。なぁ、レクストフ。僕のこと知ってるの?」

「A組のイハト・イーハツェイクだろ」

 よかった。僕のことは知ってるんだ。

「で?」

 黙るなよ……僕を睨んでも、言ってくれなきゃ全然わからないんだからな?

 いいさ。沈黙から始まる話か! 僕は急かさない。





「イハ、ユニコーンて知ってるか」


 えぇと、……イハ? イハ?! 名前を短くされたの? それとも苗字の方? 初めて話したのに? ……ユニコーンて。中二病か? 厨二病?? ……『知ってるか』を今、疑問形を、断定で言ったぞ。


 もう、どこから何を突っ込んでいいかわからない……


「……イハ」

 僕が小声でつい口にしたら……

「ヒューでいい」

 そういえばヒューは、ヒューバート・レクストフだった。


「ユニコーンの角の欠片が、絶対あると思うんだ」

 ヒューは……ファンタジー系の厨二病らしい。

「それは象牙にしか見えないよ。僕でもわかる。ヒュー、この話は他の誰かにもしたことある?」

「する訳ないだろ」

 ホッ。

「嗅ぎつけたのはイハが初めてだ。誰かに喋ったら殺す」

「どうやって」

「呪い殺すから、原因不明の死亡さ」

 呪い……クラスの女子がなんかおまじないとかやってたな……ああいうの?

 ………………よし。

 声をかけたのは僕だ。決めた。


「ヒュー。秘密だ。約束しろ」

「話が通じるじゃないか、イハ」


 何一つ通じてなんかいないぞ?こんな痛々しいファンタジック厨二病は、秘密にとどめておいた方がいい。いつかヒューは、僕に感謝する日が来る!





 授業中。

 

 グラウンドでC組が短距離走をしている。体育か。


 A組の女子がチラチラ外を見てヒソヒソ話してる。小学三年生になっても、足の速い男子は注目される。

 ヒューはぶっちぎりで速い。ほんとあいつ何であんな速いの……運動神経良いって、普通に羨ましいわ。


 ヒューが、僕に気付いた。指ピストルでバーンしてくる…………あいつ、本っ当あいつ!!!! 実は大馬鹿なんじゃないの?? 僕は顔を背けて、死にそう過ぎて、ジタバタした。


「ヒューが、バーンしたぁ!!」

 女子が騒いでる。今すぐあいつをバーンしてやる!!!!









「イハ」


 僕をイハと呼ぶやつは、もう一人いる。兄だ。


「ごはん」

 ドン。カレーパスタが盛られた平皿がテーブルに置かれる。

「箸とフォーク、どっち?」

「フォーク。てか何これ。カレーなの? パスタなの?」

 茹でたパスタにレトルトカレーが掛かっている。

「カレーパスタ。カレーは、あまねく成しうるバリエーションの先駆者だ」

「よくわからないよ」

「パスタ食べたくて茹でた。掛けるのカレーしかなかったけど」

 お兄ちゃん……カレーもなかったら、どうしてたの……


「給食だとさぁ、カレーにうずらの玉子入ってるけど、うちは茹で玉子だよね〜」

「カレーの具で、茹で玉子入ってるとうれしくない? パスタ茹でる時、鍋にいっしょに入れとくんだよ」

「へぇ〜〜」


 うちには、兄と僕しか居ない。大学生の兄は、夕飯をつくってくれる。


「野菜は? サラダとか」

「カレーに入ってる」

「お兄ちゃん」


 僕は、冷蔵庫からグレープフルーツを出して、半分に切ってスプーンを付けてテーブルに並べた。


「果物でもいいから」

「イハがお兄ちゃんになればぁ?」

「い〜よ〜。僕、肉詰めないピーマン炒めるから」

「! ……ピーマンや〜だ〜」

「じゃ、麻〜〜婆〜〜……茄子!」

「豆腐にして〜〜」

 兄とは名ばかり! 僕のが好き嫌い、ない! エライ!


 イタカ・イーハツェイクは忙しくて時々家に帰って来ない。買い物用の財布と書き置き。僕が料理を覚えるようになったのは当然なのだ。









 図書室。

 昼休みに来たら、ヒューが居た。僕は読書の続き。


「イハ。スレイプニルって知ってるか」

 はいはい。

「オーディーンの愛車、八気筒ベントレーでしょ」

「何言ってるんだ……」

 そ、そんな目で見るなよ!

「で?」


 ヒューが、わざわざプリントアウトした画像を見せてくれた。

「これは……」

 なかなか、グロい。画像は、異常形態の馬。脚が多い。

「凄いだろ……スレイプニルの正体だ」

 正体……確かに。

「ユニコーンも、絵や合成じゃない画像があるかもしれない」

 ユニコーン好きだなぁ、ヒュー。

「ユニコーン好きな人は沢山いるから、絵や合成の画像も沢山あるでしょ」

 ヒューが感心した目で見てくる。

「どうすれば、本物に行き着くだろう……」

 僕は、なんだかヒューが好きになってきた。

「本物って……誰かがユニコーンにカメラを向けたことがあるか、ってこと?」

「ユニコーンは、今はいないかもしれない」

「今は?」

「イハ。昔はいたかもしれない。カメラも普及してない時代には」

 僕はちょっとだけ面白く、楽しくなってきたかもしれない。

 予鈴。

 僕たちはこの秘密の話を中断して、それぞれの教室へ戻った。


















 ヒプノス島。

 炭洲すみすレインは九才になっていた。


 オニキスが机で寝落ちして数分。

「起きてるよ」

 崩れそうだった頬杖は持ち堪えた。

「オニキス、ベッドで横になりながらにすれば?」

「横になったら、それっきりだよ」

「それでもいいのに」

「今日は新しい本を選んで、読み始めたんだろ? 何に決めたの?」

「エンデの『はてしない物語』」

「レインの年齢にピッタリだ」

 ヒプノス島には図書館がある。僕は常連だ。エヘン!

「映画を先に見たからストーリーは知ってるの」

「面白い?」

 頷いて、レインは少し笑った。

「僕もこの本を、学校で読んでみたかった」

 会話が停まった。


 僕は考えなしに言ったんだ。主人公のバスチアンみたいに、学校へコッソリ本を持ち込んで、隠れて読んでみたかった。別に深い意味はなくて……


「インテグレイティアへ行ったら、少しの間、学校へ通ってみる? レイン」


 オニキスは、真面目な話を振ってきた。


「少しの間……ってどれくらい」

「半年」

「それって……僕をインテグレイティアへいっしょに連れてって、半年置いてくる……てこと?」

 オニキスが僕を見てる。

「アーバンに私の知り合いが居て、住むところは大丈夫」

「オニキスはその人に、僕をあげちゃうの?」

「あげる訳ない。強いて言うなら、貸してあげるだけ」

「どうし……」

 僕が言ったからだ。

「そうじゃないよ。レイン、そうじゃない。レインはいつか人の中へ戻って、学校へは行ってみるべきなんだ。本来は」

「本来は……」

「初めて会った時は、然るべきところへ身を置いて、日常の続きをできるように……そう運ぼうとしたのに……私の方ができなかったんだよ」


 オニキスは本当に僕を、自分が居るヒプノス島へ連れて来てしまったんだ。普通の大人なら、そんなことはしなかったかもしれない。子どもの僕が、連れて行ってと言ってもね。





 僕はオニキスとばかり、いっしょに居る。

 この人と居るのが……実際とても興味深く、得ることは多く、安全でもあるからだ。オニキスに、僕が切れ目なく日記のような話を続けても聴いてくれてるし、僕が知らないことを幾らでも教えてくれるし……それから、オニキスは、穏やかなんだ。わかる? キレたりしないんだ。


 僕は、インテグレイティアの真ん中のアーバンの小学校に通っていたから、よく見たことあるけど……大人でもキレる人、いるでしょ? すごい、怖い。理性がどっかいっちゃったみたいになってる人。

 僕は……忘れてる。本当は…………いろいろな人がいる。大人は皆、オニキスみたいな大人なんじゃないかって思っちゃうけど、でも、そんなことは全然なくて。オニキスは、そういうことも言葉で一つずつ話してくれるから。人は言葉で、物にも人にも状態にも、名前をつけて理解できることが沢山あるって。


 オニキスは僕にとって、ほとんど親と変わらない。安全だから安心で居られる。ほとんど『じゃない部分』は、オニキスが本当の親じゃないってだけ。


「穏やか? 私が?」

「うん」

「レイン。レイン。いちばん穏やかな人は誰だと思う?」

「え。えぇ〜〜と…………神様?」

「フ」

 笑った。違うらしい。

「わかんない。…………誰?」

「死んでる人だよ」

「えぇ〜〜〜〜。し、死んでる人は死体じゃない? 人に数えていいの?」

「生きていた人だよ」

「にばん穏やかな人なら生きてる?」

「あはは。『いちばん穏やか』がフルフラットなら、死んでる。ちょっとでも山があったら生きてるかもね」

「ダメじゃん。ちょっとの山が、いちばん低い人は誰かなんて特定できないもん」

「流動的なものに『いちばん』は付けない方がいいね。敢えて付けて質問すると」

「うん」

「質問された人は、その人が知っているものの中から、いちばんを答えてくれるんだ」

「当たり前じゃん」

「質問する側は、選択範囲を言ってない」

「範囲を言ってても、知らないものは出てこないよ」


「レインが今いちばん興味あるのは誰?」

「今読んでる本のアトレーユだよ。出発したとこだし」


「レインが今いちばん『怖くて』興味あるのは誰?」

「………………地下室の人だよ。声が漏れ聞こえてくる。なんなの? あの人」


「少し病気なんだ」

「そぅ」


 …………あれ。僕、同じようなこと訊かれたのに、違うこと答えてる。


「ねぇオニキス、今の」

「わかった? 調べものをする時、思い出してごらん。ショートカットできるよ」

「うん。多分、わかったと、思う」


 オニキスが欠伸してる。僕はオニキスが机で眠ってしまわないように、ベッドへ連れて行った。









 編入生は、事件と同意語だ。

 私立のハイレベルな小学校ともなると、尚更。


「ヒプノス島から来ました。炭洲すみすレインです」

「レインは、ご家族の仕事で半年間、皆さんといっしょに学ぶことになりました。仲良くして、わからないことは教えてあげましょう」


 はーいと行儀の良い返事。ふざける生徒は1人もいない。僕は言われた席に座る。

 編入試験なんてものを受けた時に思った。校舎がキレイ。屋内プールがある。廊下に貼り並べられていた生徒の絵が、どれも上手い。ここの生徒と話す前からわかる。僕が通っていた公立の小学校とは、違う。


「1時間目は理科よ。委員長、レインを理科室へ案内してくれる?」

「はい、先生」


 委員長と呼ばれた少年は、隣の席だった。


「僕は、クラス委員をしているイハト・イーハツェイク。よろしく」

「よろしく、お願い、します」

「イハトでいいよ。行こう」

「僕もレインで」

「うん。レイン」


 なんだか、感じがいい。クラス委員て、こんなだったっけ……


 ちょっと、おとなしそう。緊張してるのかも。途中編入とか、頭良いんだな。





 授業と休み時間が、あっという間に過ぎていく。休み時間は、イハトがトイレとか自販機とか……自販機があるんだ! 校内に! ……いろいろ案内してくれた。


「五時間目が体育って……六時間目眠っちゃうわ」


 イハトはうんざりそうに言ってたけど……この学校は男子にもロッカールームがあって、僕は浮かれていた。


 外へ出るとC組も体育だった。

「あ。C組……」

 言うが早いか、イハトに手を振ってる男子がいる。

「友だち?」

「うん」

 ヒューは、グラウンドの反対側から走ってきた。

「やぁ、ヒュー。編入生の炭洲レインくん。レイン、友だちのヒュー」

「C組のヒューバート・レクストフ」

「レインです。よろしく」


「A組、集まって〜」

 先生が呼んでる。

「今日はC組と合同でサッカーをやりま〜す」


 わぁ〜、サッカーなんて久しぶり。ヒプノス島で、砂浜で独りでボール蹴ってたりしたけど、人数いるとやっぱ楽しいな〜。


 気が付くと、僕はヒューとボールを追っかけて走っていた。ヒュー、脚速いな! すごい!


「レイ、脚速いな」

 ヒューが話しかけてきた。

「えぇ、ヒューのが速いよ」

「レイ、速いって」

「なんか、走りやすいかも。なんだろ? 靴かなぁ?」

 砂浜にサンダルと、整備されたグラウンドにシューズでは、当然の差だった。


 二人はゴールを忘れて走り回っている。すばしっこくてクラスメイトは誰も近付けない。

 ヒューはレインより速く走れたが、レインが小回りを利かせてボールを奪いながら走るから、いつまでも二人は競っていた。レインは砂浜で遊んでいたので、ヒューより持久力がある。


「レイン、シュートして! ゴール、ゴール!」

 イハトが叫んでる。


 あぁ、そうだ! 楽しくって忘れてた。ゴールから離れていたけど、巧みにヒューから取ったボールを蹴ってゴールを決める。ナイス! コントロール!


 あれ、なんか学校、楽しいかも。うぅん? 同い年が沢山いるからかな……


 六時間目の教室は、居眠りしている子が多かった。先生の教科書を読む声。風でひるがえるカーテンと、めくれるノート。頂点を過ぎた太陽の、白い光が廊下側の席まで届いている。気持ち良い疲労のダルい感覚……





「学校はどうだった? レイン」


「いいと……思う……」


 学校の車寄せにタクシーが来ている。オニキスと時間を決めて待合せをしたんだ…………リアシートに乗ってから記憶がない。オニキスに応えていた気もするけど、僕は疲れていたみたい。


 オニキスはサラセンホテルに着くと、眠っているレインを抱えてタクシーを降りた。ホテルのロビーには、いつもより人が居る。オニキスは念の為フロントに寄って、レストランに予約を頼むことにした。


 ロビーに居た少女は、シフト表を見ていた。顔を上げたら、フロントに子どもを抱っこしている人がいる。 

 黒尽くめの若い男の人……髪、長〜い。子どもの方は、近くの私立の制服を着た男の子。その子のローファーが、片方脱げそう…………男の人がフロントを離れて、靴は脱げ落ちた。


「あの!」


 少女は即座に追いかけて、男の人に拾った小さな靴を見せた。


「あ! ……ありがとうございます」


 男の子に靴を手渡そうとしたら、その子は眠っていた。男の人が代わりに受け取って、その子に靴を履かせると、再びお礼を言って、エレベーターホールへ去って行った。


 宿泊客か…………いいなぁ、抱っこされてワープするの。お出掛けした帰りの車とか、リビングで眠っちゃうと、朝にはベッドにいるの。あったなぁ……


 三獅子川みししがわキャリーは、中学校へ通っていた。午前中のバイトは辞めて、これから週に何度か夕方のバイトを始めることにしたのだ。









 時間と場所が、よくわからない。


 薄暗くて、雨の音がしている。


「………………」


 喚くような男の人の声。


 僕は言われた言葉が恐ろしくて、声が出なくなってしまったんだ。


 怖い。何が起きたかわからない。


 叫んでも声が出ないから、ずっと手で床を叩いてた。


 助けて、助けて、助けて、誰か……





 気持ち悪いほど汗をかいて、目が覚めた。夢の中の感触があまりにも生々しくて。目を覚ませたのに、夢だったと認識するのに少しかかった。





 どうして……こんな夢を見るのだろう……

 風に乗って、声が聞こえたからだ。

 ヒプノス島で聞こえた声。あの声が僕に、忘れていたことを思い出させるからだ。



 


「……オニキス。居ないの?」


 オニキスが眠っているレインを抱えて部屋へ戻った時、ベッドサイドの照明だけにして、又部屋を出ていた。


 薄明りの部屋には自分しか居ない。急に心細くなって、レインは鞄の中から本を取り出して、明りのもとで読み始めた。

 編入試験の勉強で中断していた読書を、新しい学校の図書室で同じ本を見つけて貸りてきたのだ。アトレーユ。アトレーユ……猛吹雪の中、アトレーユは真実の姿を写す鏡の前へ着いた。そこに写る姿は……


「……レイン」


「オニキス……いつの間に」


「お腹、空いてる?」

「空いてない。……オニキス。オニキス」

「どうして今日はこんな甘えん坊なんだ??」

 オニキスの膝の上に座って、オニキスの黒い服にしがみついてる。

「怖い夢、見た」

「しょうがないな」

 レインが離してくれない。

「ヒプノス島の地下室に、病気の人……居るでしょ?」

「うん」

「怖い声、聞こえてくるの」

「今私たちは、遠く離れてアーバンに居るよ。怖いの? レイン」

 あ……泣いてる。

「レインくん? 目冷やしてきたら?」


 終いにはオニキスが、タオルを濡らして絞って、持ってきてくれた。





 地下室に居る人は、本当に病気の人だった。もう治療しようがない人で、薬を飲んでいるんだって。でも時々痛いから呻き声が出てしまう……僕が聞いたのは、そんな声だったんだ。







「レイン」

 オニキスが、僕を離してくれない。

「逆じゃない?」

 僕は、オニキスの頭をなでた。

「半年って、私が言ったのに」

「うん」

「我慢できるか、わからない」

「えぇ」

「後悔してる。レイン」

「半年経ったら、僕はヒプノス島に居るよ? オニキス」

「……レイン。いっしょに帰りたいよ」


「子どもを困らせてどうする。もう行きなさい」

 今生の別れに邪魔が入る。

「今生の別れじゃないんだから」

 王宮で、陛下がオニキスからレインを引っ剥がす。


 オニキスが、聞き分けのない子どもみたいになっちゃってる。





 オニキスのあんな拗ねた顔見るのは、初めてだった。


「オニキスのお気に入りって、本当だったんだな」

 陛下が意外そうに言った。

 なんと! 僕は半年間、王宮に住めることになってしまった!

「オニキスの知り合いが、まさか陛下だとは思いませんでした」

「よろしく。レイン」

「よろしくお願いします!」


 刑吏をしているオニキスはインテグレイティアへ来る度、王宮に立ち寄って、帰り際に謁見しているんだって。王様は刑吏の人たちの為に客室も用意しているから、オニキスみたいに自前でホテルを取らなくてもいいんだって。…………初めて聴く話ばかりなんだけど。


 僕が安全に暮らすのににちょうどいい場所がある、としか言われてなかったから、着いて吃驚した。王様も驚いてた。


「僕のこと、オニキスから聞かれていたのに驚かれたのですか?」

「今まで一度も、王宮の客室を使わなかったオニキスが、君の為なら頭を下げて頼みに来るから。しかも、私にレインとあまり仲良くしないでくださいって」

「あはは……ハハ……え、本当に?」

「本当に。オニキスは、本当は君を誰にも預けたくないんだよ」

「僕は、学校に行くべきだって」

「そうだね。さっきは大分面白かった」

 王様は大人げないオニキスの振舞いを思い出して笑っていた。そして、衣食住は何も心配しなくていいから、学校生活を楽しんでと言ってくれた。









 ヒプノス島、地下施設。


 ヒプノス島の刑務所には、死刑囚のみが収監されているが、医療行為を必要とする受刑者は、地下にある医療刑務所へ収監される。


 刑務所とは別に、地下にはもう一つ、特別収容施設があった。





「換気口から、声が外へ漏れ出ているようだ」


 黒衣の刑吏が、扉を隔てて、収容されているものに言う。


「非ステロイド性消炎鎮痛薬は、効いていないのか?」


 その閉じられた部屋には、半人半獣の異形なるものが収容されていた。

 先程からの話しかけに、一切応える様子がない。


「もう、他には誰も残っていない」

 刑吏は続ける。

「さまよえる湖を覚えているか? 人間はロプノールと呼んでいた。あの湖も涸れて、失われてしまった」


「青い光に灼かれて、大半はおかしくなってしまっただろう? 見限られて、捨て置かれていた方が、よかったのかもしれない」

 刑吏は、扉に額を擦り付けて言った。

「こんな、呪われた姿で生きているなら」

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