第68話 痕
夕暮れ時になりユキと清治が家に帰った時、母親の小春はまだ呑み続けていた。
相変わらず庭の方を向いたままで、2人を振り返ろうともせずおかえりも言わない。
ユキは母の背中にかけるべき言葉を見つけられず、その場で立ち尽くす。
(明日あやまろう)
逡巡した後、そう決めて母に背を向けた。
どれほど後悔する事になるかを知らないまま。
次の日、快晴でうだるほどの暑さだった。
庭では蝉が気の狂ったように鳴いている。
朝起きたときから、ユキには妙に嫌な予感があった。
父親は仕事の都合で朝早くから家を出ている。
それでも家の中が静かすぎるのだ。
物音ひとつしない。
ユキはまず台所に行った、母の姿はなかった。
そう広い家でもない。
母の寝室、茶の間、父が居室に使っている三畳間。
便所にもいない。
残った場所はただ一つ。
けれど、そこからは一切の物音がしない。
ユキは一瞬戸惑った。
戸を開けていいものかどうか。
意を決して浴室のドアを開けた。
彼がまず目にしたものは髪だった。
長く黒々とした頭髪、母親の豊かな髪はいつもなら強い生命力を感じさせるものだったが、今日のそれは違った。
浴槽からだらりと垂れた手はぴくりとも動かない。
髪はまるで無機物のように、ただホーローの表面に張り付いている。
小春は風呂場で亡くなっていた。
大量飲酒による血圧の低下と、湯に浸かって血管が拡張する相乗効果で極度の貧血状態になり、湯船で気を失って溺れた。
医師はそう診断し、小春の死は事故死として処理された。
まるで清香ちゃんの後を追ったみたいだね…
島の婦人部の女性たちはそう囁きあった。
通夜の夜。
居間で清治が慰問客の応対をしていた。
ひっきりなしに来る客のお悔みに、清治は畳に手をついてひたすら頭を下げた。
ユキもそれに倣い、父の横で殊勝に手をついて応対した。
そんな2人に、慰問客は同情的だった。
特にユキに対して。
「辛いだろうけど、しっかりね」
弔問客からそう言われる度、ユキはただ辛そうに頭を下げるだけだった。
そこにいる誰もが彼が母親を喪った事に対して大いに哀しみを感じているのだろうと思っていた。
当の本人がひたすら後悔と罪悪感に苛まれているとは思いもよらなかった。
その時、慰問客でごった返している部屋がざわついた。
白いシャツに黒い腕章を付けた総代の息子、広央が現われたからだ。
部屋にいる女たちは、密かな反感をこの総代の息子に対して抱いていた。
母親の死をまるで悲しまなかった酷薄な息子、自分たちとは違う“アルファの雄”だからだ。
そんな視線をまるで感じていないかのように、広央は淡々と棺の前に進み焼香を済ませた。
広央が自分の家に戻る時、ユキは何故かその後を追った。
すぐ目と鼻の先の広央の家は、明かりもなく静まり返っている。
広央はつと、後ろを振り返ってユキを見た。
「お前はいいよな…」
そうボソっと広央は呟いた。
ユキは直ぐその意味が分かった。
隠微された清香の死とは違い、小春は島の同胞として折り目正しく弔われる。
ユキは母を失った息子として同情された。
広央は母の死の現場に居合わせた、という感情的な理由で島の女たちから反感を買っている。
ユキは兄弟分が被っているこの差別的な反感は、何の根拠もなく理不尽なものであることを知っている。理でいえば、真に母親の死で責められなくてならないのは自分の方だとも分かっていた。
母は耐えていた。
耐えきれずに生の向こう側に行った、最期にその背中を押してしまったのは外ならぬこの自分だと。
けれど、父にさえその事を打ち明けていなかった。
目の前にいる兄弟分にさえ、話せなかった。
ユキは自分の卑怯さを憎んだ。
自分の罪状を告白しなければ、そう思い真正面から広央の顔を、目を見た。
広央からするとユキは父のお気に入りであり、自分はそうでなかった。
ユキと話す時の父はいつも機嫌が良くて、自分はその正反対の対応を受ける。
母親の事で自分は父親から完全に突き放され、ユキはきっと父から同情されるだろう。
あの山狩りの時だって、父はユキの事を褒めていた‼
「みんな言ってる、お前はキヨおじさんの子じゃないって」
広央は言ってしまった。
一度口に出すと、もう押さえることが出来なくなっていた。
「お前は父さんの子だって…」
強烈なパンチが頬に飛んできて、広央は最期まで言う事が出来なかった。
痛みは感じたが、それ以上にユキが自分に大して向けている憎しみに傷ついた。
広央は反射的に殴り返し、ユキが顔を逸らしたので拳が目に当たった。
「うぁっ…!」
ユキが目元を押さえながら叫んだ。
苦痛で顔が歪んでいる。
広央は思わずその場で固まった。
「てめ、何すんだ…!」
ユキが怒り狂って広央に突進する。
2人の庭での取っ組み合いと叫び声に、ようやく大人達が気付いた。
清治が2人の間に割って入り、他の大人たちも周りに集まってきた。
ユキはずっと目元を押さえている。
本人は何でもないというが、目が真っ赤に充血して瞼がだんだんと腫れてきた。
女たちは、この通夜の厳粛な場で騒ぎを起こした総代の息子を暗に責めていた。
本人に直接言わず、ひそひそと話す声が広央にも聞こえてくる。
清治の運転でユキが病院に連れて行かれるのを、広央は黙って見送った。
遅い時間に清治から広央のスマホに連絡がはいった。
軽い眼球打撲で大事には至らない、との短いメッセージが暗い部屋の中で光る。
広央はその文字をただ見つめる事しか出来なかった。
「ヒロちゃん…?どうしたの?」
暗がりの中、白い影のようにイサの姿が浮かび上がっ
た。
イサはここ数日ずっと熱が出て具合が悪く、それで通夜にも出れなかった。
母親がいなくなり小春も何もしなくなり、それぞれの家は混乱と乱雑の極みだった。
イサは病院が嫌いで行く事を拒み、世話をしてくれる大人がいない。
広央はどうしていいのか分からず、ただ途方に暮れる。
母親の血と小春おばさんの死、ユキの腫れ上がった目蓋と女達の静かに非難する目付き。
胸の中に激しい感情が込み上げてきて脳髄まで上がって来る。
群れの中で生きる為に、平素は抑えている強烈な激情が襲ってきた。
ユキの家の方に目を遣ると、まだ明かりが付いていて通夜が続いている。
広央はガラス越しにぼんやり浮かぶ人影を見て、不思議に思った。
誰も顔が、無い。
誰と誰なのか見分けがつかない。
(ああ、分かった!
彼の中にベータに対する憎悪が膨れ上がった、真っ黒な泥が腹から滲み出て、自分が出した憎悪に自分自身が飲み込まれようとしていた。
「ヒロちゃん!」
自分を背中から呼び抱きしめる存在に、広央はパシャっと意識が戻った。
最前まで一体何を考えていたか。
恐ろしかった。
広央は振り返ってイサを抱きしめる。
イサの肌が温かった。
彼は母親が亡くなって以来始めて泣いた。
髪も肌も白くて儚い。
この存在だけが自分の全てなんだと。
ひたすら泣いて、自分がこの子を守るんだと心に固く誓った…
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