第67話 ユキの母・小春の告白


その日、海はベタなぎだった。

夏の日差しがほんの少しだけ緩みかけた昼下がり。


ユキは釣り竿とルアーを確認し、海に出かける用意をしていた。

自分の部屋から玄関に出るまでには、どうしても茶の間を通らなければならない。


茶の間の縁側には母親の小春がいた。

小春は柱にもたれかかりながら、ビール瓶を片手に庭を眺めている。

彼女の周りには空になったビール瓶が何本も転がっていて、酔っ払い特有の嫌な匂いが漂ってくる。


ユキは母親の後ろ姿を見る。


あの日以来、小春は酒浸りになっていた。

もう婦人会には一切参加せず、心配して尋ねてくる近所の人も完全に拒絶し一日中酒だけを飲んでいた。

元々よく呑む性質たちではあったが、節度は守っていた。


今ユキの目から見て、母は完全に病気になっている。

そしてその病気は、15歳のユキにはどうにもしてやれないものだった。


母がまた、ビール瓶をくわえアルコールを流し込んでいる。

ユキの目にどれほど痛ましく映っても、もうどんなに飲まないように懇願しても無駄なことが分かっている。

だから彼は母親を見ないよう、そっと家を出るつもりだった。



「どこ行くのよ?」



ユキはぴたりと足を止め、母親の方を振り返った。

相変わらず庭を見ているので、ユキには母の背中しか見えない。


その背中に向かって答える。

「父さんと釣りに行くんだよ」


「“父さん”…?」


「ああ、父さんは先に海に出てるから」



ユキは直ぐに家を出るつもりだった。

けれど母、小春のあざけるような言葉に身体が固まった。



「あんた、清治の事ほんとに父さんだと思ってるの?」



小春は新しいビールを開け、また口を付ける。

シュワシュワと泡のはじける音だけが部屋に響く。


ユキは身体の自由を失ったかのように、その場から動けなくなった。

続く母の言葉に、凍り付くような戦慄を覚えた。


「清治とは14の時から付き合ってたけど、一回も妊娠なんかしなかったわよ」


その後に続く言葉は、ユキの中にある父との繋がりを切り裂くようなものに思われた。

彼の耳に母の言葉が毒のように侵襲してきて、次第に心臓にまで達するような感覚が起きた。


母親を生まれて初めて殴ったのは、ユキにしてみれば正当防衛だった。


「それ以上言ったら殺すぞ、ババア!!」


そう叫び、釣り竿をつかんで家を飛び出た。

母親がどんな顔をして、どんな思いでいるのかを考えないよう、海へ通じる道を必死に走った。



古い型の小さなボート。

ユキと父親の清治が釣りをする時は、いつもこれで海へと繰り出した。


夏の時期はイサキがよくとれて、ユキが50センチの大物を釣り上げた時もある。


この時ばかりは、普段父子二人の釣り馬鹿っぷりを白けた目で見ている小春も、珍しく息子を誉めた。


さすがあたしの息子と…


ユキはその時の光景を思い浮かべながら、今日も大物が持って帰れれば、と願った。


ユキは“あの日”の事を清治から父親としてでなく、島防衛の長としての言葉で聞かされた。

清治はユキを子供ではなく、一人の自立した青年として見ていたからだ。


ユキは父の横顔を見つめた。

先程の母親の言葉を頭の中から追い払おうとして、海面の釣り糸の揺れに集中を戻した。


不快な噂は陰に陽に、本人の耳に入っていた。


『ユキは総代と似ている』


海は静かで波の音以外、何も聞こえない。

ユキは思いを振り払おうと、再び海面に集中した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る