第63話 母の死の事後処理


そこからはまるで流れるように早かった。


広央は母親の血飛沫を全身に浴びた。

真っ赤に染まったTシャツ姿のまま、父親の元に連れて行かれた。


母がずっと島の情報を軍に流していた事、光輝の父親の情報も母が流していた事を聞かされた。


広央が連れていかれたのはいつもの屋敷ではなく、総代事務所でもない。


猪狩隊の詰め所のある建物。

その地下だった。

ここは外部には知られていない場所だ。


なぜならここは重犯罪者やスパイなどを秘密裏に取り調べて、無理やり情報を吐かせる場所だったからだ。


無機質な部屋。

壁も床も暗く冷たい灰色で、装飾品は一切ない。


蛍光灯の光が白々しく部屋を照らす。


窓のない部屋。

複数人の猪狩隊に混じって、秋津がいた。


(こいつが母さんを見張ってたんだな。ずっと…)

広央は、駐車場で愛想笑いを浮かべながら近付いて来た時の事を思い出した。


その秋津と目があった。

この男は笑みを浮かべた。

瞬間的に殺意を覚える。

母が死んだのはあいつのせいでは…?



「広央」


父親の恐ろしげな声に、

広央の思念は中断を余儀無くされた。



「あの場所を清香に教えたのか?」



背中に汗がじわっと湧いて肌が総毛立った。

それくらい恐ろしかった。


父親が息子を見る目つきではない。

“敵”を見る目つきだ。


広央はここ数ヶ月の母との記憶が、濁流のごとく頭の中を流れた。


山の中に“陣地壕”があり、強化コンクリートで建てられている。

大砲を完備し、中には弾薬庫、砲撃台があり海岸からの軍の侵攻に備えている。


完全に秘匿され、この神之島の防衛の極秘事項だ。

場所はごく一部の人間しか知らない。

清香にも知らされていなかった。


あの雨の日、母の清香は確かに聞いてきた。

場所は何処にあるの?』


広央ははっきりと嘘をついた。

「知らない」


成人して完全に父に認められたら教えてもらえるのだと、これは同級生にも使う嘘だった。


母は残念そうな顔付きをした。

息子の嘘を信じた。

広央は母親といえど、島の極秘事項を口にするつもりなどなかった。



それでも父親は断言するように言った。


「お前は話したんだろう」


広央は顔に飛び散った血がすっかり乾いて、皮膚に貼り付くような痒みを感じていた。


服も血まみれだ。

罪人まるで罪人以下の存在。


窓のない地下の部屋。

父とその部下達に囲まれ自分の味方は誰もいない…



◇◇◇


ユキが父の清治から密かに全てを伝えられたのは、夕飯時。


母が夕餉の支度をしていて『清香ちゃんと連絡取れないわねえ、今日どうするのかな、こっちで食べるのかな』などといつもと変わらない会話をしていた。


清治が帰ってきた。

両袖には点々と赤いものが付いている。


奥の父の部屋へ呼ばれたユキは、その眼差しがいつもと違う事に気付く。

そして父の口から事実が述べられた。

広央を迎えに行くよう言いつけられる。


ユキは最初、何を言われているのか全く理解出来なかった。


日常が突然ブツリと切り裂かれて、昨日までの日々と断絶されてしまった。


思いがぐるぐると回った。

(ヒロは今どうしてるんだ?目の前で清香おばさんが殺されるのを見た?ウソだろ?)


清治は立ち上がると、小春のいる台所へと入った。

父が母に事を伝えるのを、ユキは夏の夕暮が迫る部屋の中で聞いた。


実に簡素な、ほんの二言三言の通告。


母親の小春は何も言葉を発しなかった。

夫に背を向けシンクの方に向き直り、そのまま包丁の柄の部分を握りしめた。


ユキは見た。

蒼白になるほど、その手が強く握りしめられていた事を。



その時、向かいの家の掃き出し窓からイサが飛び出してきた。

「ユキちゃん、ヒロちゃん帰ってこない!」


不安そうに叫ぶ。


家の中で待ってろ!それだけ言うとユキはサンダルを突っかけ猪狩隊の詰所に、広央の元に向かって走り出した。



例の地下室で相対した時、広央の様相はユキの想像と全く異なっていた。


ユキの想像では母親の死をひたすら嘆き悲しみ、涙に暮れている広央の姿がそこにあるはずだった。



「何でここにいんだ?」

それがユキが来た事に気付いた広央が発した、第一声だった。


「あーなんか腹減ったな」


そう言いながらスタスタと歩いて来る広央は、いつもの調子と変わらなかった。

顔と服に飛び散っている血飛沫の跡さえなければ。


そして広央はそのままユキの隣を通り過ぎた。

何事も無かったかのように歩いていく。



ユキは小走りで広央を追う。

その背中を見ながら、言うべき言葉を探した。


(ヒロ、清香おばさんは死んだんだよな?お前がそれを目撃して…何でそんな平然としてんだ?)


ユキは広央と歩く時はいつも横に並んで、口喧嘩したり冗談を言いあったりしていた。

けれど今日ばかりはそれが出来ない。


広央の背中を見ながら家路をひたすら歩く。

二人は一度も口をきかなかった。


ユキはこの時広央に、一緒に育った兄弟分に言葉を何一つ掛けられなかった事を後悔する事になる。


重すぎる現実にどうしていいか分からず、すぐ目の前の広央が溺れそうにもがいているのに、何一つできなかったと…


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