第62話 血の夕陽
鉄のような匂いだと、広央は思った。
身体から、生命からこぼれ落ちているはずなのに劇的なものは何もない。
ただただ液体として流れ落ちていく。
砂浜が赤く染まっていく。
同時に広央の視界も赤く染まっていった。
母の血を真っ正面から浴びて、髪から額から滴って目の中に落ちていくから。
周りの大人達はこの惨状に妙に冷淡だった。
表情一つ変えない。
広央の記憶にはっきりと焼き付いて消えなかったのは、大人達の無表情の中にキヨおじさんの顔があった事だった。
何があっても味方だと思っていた人の
◇◇◇
○○副総統の来島が明日に迫った。
心配されていた天気も上手い具合に晴れのようだ。
「欢迎来到这座小岛。您的到来是我们的荣幸~~はあ~…」
広央はテキストを投げ出し、居間の真ん中にごろんと仰向けになった。
なんせこの1ヶ月間、猪狩隊の訓練の合間を縫ってひたすら中国語の勉強。
もちろん学校の夏休みの宿題もあるのだが恐ろしい事に全く手付かずの状態だった。
とにかく明日、なのだ。
明日さえ無難にやりこなせば、もう8割方成功したも同然だろう。
広央は目を閉じた。
光輝と島を出たあの日の事が脳裏に浮かんだ。
駐車場の男、おばあちゃん、拉致、救出…
光輝の父の死。
父の死に顔を確認した時、光輝は泣く事すらせず無表情だった事。
頭の中に色々な場面が浮かんでは流れてしていく内に、いつの間にか広央は夢の中に入っていった。
(重い…身体が重くて仕方ない…まるで誰かが乗っかってるみたいだ…)
お腹の上のあまりの重さに、広央は思わず目を覚ました。
それもそのはず、イサがお腹の上に覆い被さっていたからだ。
「ヒロちゃん、起きた?」
そう無邪気に聞いてくる。
「イサ、重いよ。どいて~」
それでもどかないので、広央はがばっと起きて逆にイサの事をぎゅーっと抱きしめた。
「どうだ、降参しろっっ」
「わー、ヒロちゃん放して~」
二人の楽しい叫び声を、母・清香が突然遮った。
「広央、出掛けるわよ」
清香は無表情だった。
広央が後から思い返してみても、怯えるでも震えるでもなく、ただ無表情であるのみだった。
「買い出し?」
日が長い夏とはいえ、もう夕刻近い。買い出しに行くには中途半端な時間帯だった。
「いいから早く!」
母が少し苛立ったように言う。
広央も既に15になり、母の用事に付き合うのは少々億劫に感じる時もあった。
けれど従った。
目上の者には従うという島の不文律があり、逆らう事は悪だったからだ。
車を運転する母はずっと無口だった。
広央が音楽を付けると、母がすぐに切る。
車内はずっと沈黙だけが流れていく。
「母さん、どこに行くの?」
いつものショッピングセンターに行く道ではない。
車はどんどん街外れに向かっていく。
港から少し離れた、島の人間しか行かない海岸。
聳え立つ高い岩壁が目隠しになり、死角になっている場所がある。
車から降り、母が広央を連れて行ったのはこの場所だった。
海辺に一艘のボートがあった。
船外機のエンジンの付いたシンプルなもので、島の漁師がよく使っているタイプのものだ。
清香はボートに乗り込んだ。彼女は船の運転など全くしないので、エンジンをかけるのに手間取っている。
「母さん何なの?どこ行く気なの?」
流石に広央は清香のおかしさに気付いた。
「いいから早く乗りなさい!」
母は明らかに様子がおかしく、広央を見る目が狂気じみてきた。
「イサを残してきてる、帰ろうよ…」
広央がそう言いかけた時、
足音がこちらに近づいてきた。
見るとキヨおじさんと、部下の猪狩隊員達だった。
「キヨおじさーん」
広央は手を振って呼び掛けた。
が、近付くにつれて清治の表情がいつもと違う事に気付く。
今まで見たことのない、冷厳な顔付きだ。
清治は足元の砂をザクザク踏みしめながら広央親子の元に近付いていく。
そして、清治は清香の目の前に立ちふさがった。
清治は静かに言葉を発する。
「どうしてだ?清香」
清香の顔は紙のように白かった。
ボートのエンジンは相変わらず掛からない。
漁など全く関わってこなかった彼女は、キーの位置さえよく分からなかったのだ。
「総代から命令が出ている」
空が少しずつ茜色に染まってきて、夕暮れが近付いた事を感じさせる。
まるで舞台装置のようだ。
広央、清香、清治の3人。
舞台から降りる事は出来ない。
「たすけて…」
清香が絞り出すような声で呟いた。
「たすけて…お兄ちゃん…」
清香は泣いていた。
次の瞬間、清治は腰に提げているナイフ…軍でも使用されている銃剣で清香の喉を切り裂いた。
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