第57話 島の外へ


広央と和希が光輝の家に駆けつけた時、居間にはキヨおじさん、そして近所の猪狩隊員の奥さん達が駆けつけていた。


何かあった時に子供の世話や家事などを手伝って、支えあう事になっている。

この島の伝統だ。


広央がまず驚いたのは、光輝の母の表情だった。

紙のように真っ白な顔色で、目は虚ろで何も映してない。

この世の終わりのような表情だった。


光輝の父と付き添いの猪狩隊員との連絡が、全くとれなくなっていたからだった。



奥さん連中がしきりに慰めたり励ましたりしているのたが、一向に耳に入ってないようだ。


小さな平屋建ての家は、この人数を入れただけで既に満杯だ。

けれども家の主がいない、不吉な空虚さが漂い始めている。


日々何事もなく平和な時が流れているように錯覚しそうになるが、軍事政権下ではどんな理不尽がいつ、どこで降り掛かって来るのかわからないのだ。


清治は事の次第を総代に報告する為と、今後の策を錬る為に総代事務所に引き上げていった。

光輝の母親には、何かあれば直ぐに近所の猪狩隊員の家に駆け込むよう、念を押すように言い含めながら。



「俺、明日おばあちゃんのとこに行く!」

自室として使っている小さな三畳間で、光輝が断固とした口調で言い放った。


「危ないぞ」

広央が静かに諭すように言う。


「清治隊長もきっと許可しない。行って余計に事態が悪くなるかもしれないぞ」

和希が冷厳に言い放つ。


「行く!絶対に行って父さんを探す!」

光輝はもう心に決めているらしかった。



もう夕暮れが近づく。

広央はある提案をした。

3人だけで決行する約束をして。



◇◇◇



「あれ、ヒロちゃんもう行くの?」

イサが不思議そうに尋ねる。


翌日、広央は朝早くから家を出た。

イサには和希の家で夏の宿題をして、副総統来日時の会話レッスンは午後だよ、と伝えた。


母の清香はあまりの時間の早さに少し不審気味だったが、向こうの家に迷惑を掛けないでね、とだけ言った。



和希の家は海側の集落から、やや外れにある。

昨日約束した通り、光輝はすでに来ていた。


島の男が常にそうであったように、この家も代々漁師を生業としてきた。

常に命がけの仕事なので、漁師の家は自然と信心が深くなる。

しめ縄を張った大きな神棚、先祖を祀る為の仏壇が鎮座している仏間。

和希の家は、積み重なった時間と歴史が堆積している。


早い時間にも関わらず、和希の祖母はすぐに玄関を開けて迎え入れてくれた。



和希の部屋は家の二階にある、古い畳の部屋だ。

夏の日差しが降り注ぐその部屋で3人、お互いの顔を見合わせる。


「よし、じゃあ…行くか。和希、頼んだぞ」

広央がそう告げる。


和希はしっかり頷き、光輝も真剣な顔つきで同じく頷く。

この家は後ろにすぐ坂があり、二階の窓から屋根伝いに登れる。

その坂を上って街側に行けるのだ。

和希の祖母はもうじき出掛け、夜まで帰らない予定だ。


広央はキヨおじさんや母達に言ったところで、島外に出る許可は出ないであろう事は分かってた。

だからこそ島を出る決意をしたのだ。


和希も一緒に行く事を切望したが、今日1日アリバイ作りに協力してもらう事にした。

広央は、オメガの子はその容貌からどうしても目立ってしまうし、危険だと判断した。

和希は一緒に行けないことを、ひたすら悔しがったが。


2人が屋根伝いに坂に登って行くの、和希はただ見守るしかなかった。



こうして広央と光輝は、朝早くに街側に出た。


街はまだ人がまばらで、静かだった。

もう少し時間が経てば喧騒が始まるだろう。


少しでも人目につかない内に島を出る、という広央の作戦だった。


「橋じゃなくて船で行くんだよね…ってうわ、ヒロ兄、汗だらけじゃん!つーか震えてんじゃん!?」


「ば、ばかな事を言うな…ふる、ふる、ふるえてなど…」


実は広央は、島外に出た事が一度もない。


軍の都合で姿を消すのは軍政に批判的なジャーナリストや言論人だけではない。

時には法に触れた政府高官やその子息にも“超法規的移送”と称して拘束・拉致といった手段が適用されるのだ。


軍に敵対する島。

その島の総代の息子となると、どんな危険があるのか分からない。


広央はポケットの中の偽造IDを思わず握りしめた。


“国民基本カード”

表向きは身分証明書、行政手続きをスムーズに行う為のIDカード。

その実は戦前から連綿と続く、国民の統制や情報収集の為のシステムなのだ。


島外で万が一証明書を見せるはめになった時用に、総代の息子だと悟られない為の偽IDカードを携帯しているのだ。


偽の名前、偽の本籍。


そして偽の種別。

β《ベータ》。


広央はこの偽造IDを見る度、複雑な気持ちになった。


神之島が密かに密造している偽造ID。

近年では軍の迫害を受けている人間の為に作成する事も多いが、本来は軍と戦う覚悟のある人間に対して付与されてきたものだ。


己の姓名を捨てて戦い、死に際しては偽名で葬られる覚悟で。


広央は決して自分の意志でこのカードを持っているわけではない。


島の総代の息子として生まれ、そしてその島と軍が敵対している。

その図式に否応なく巻き込まれた結果として、偽造IDが自分のポケットの中に収まっている。


自分の意志とは関係ない巨大な何かが、自分の航路を決めている。

それは軍なのか、父なのか。


『いっそこのカードの、誰でもないβだったら…完璧に“自由”なのかな…?』


「ヒロ兄、船来たよ!!」


広央の思考は光輝の声に遮られた。


神之島から隣接の県の港までの、比較的長距離の連絡船だ。

こうして不安な気持ちの2人を乗せたまま、船は港に向けて航路を描いていった。


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