第56話 予兆
光輝の家は海側エリアの一角にあり、古い民家だ。
地元民に紛れられるし、近くの家には猪狩隊所属の人間も多く住んでいて、いざという時にすぐに駆け付けてもらえる安心感もあった。
向かいの家も隊員の家で、光輝の姿を見ると「おかえり」と声をかけてくれた。
平屋建ての家は風が通るので案外涼しい。
光輝が玄関の三和土で靴を脱いでいると、父と母の話し声が聞こえてきた。
大学教授だった父は、現在島の学校で教鞭をとる傍ら施政にも関わっている。
島としても自治の精神を、理論として支えてくれる存在は有難い。
ただ同時に危険な事だった。
これまで学者として軍政を常に支持してきただけに、転向者、裏切者として軍はおろかかつての同僚にまで非難される立場なのだ。
母は軍から逃れて亡命して以来、すっかり心身ともに弱っていた。
スマホのチャットも電話も軍の不正アクセスは周知の事で、友人や親戚にもなかなか自由に連絡が取れない。
母が心配しているのは高齢の母の事だった。
一緒に島に来ることを強く勧めたが、夫の墓を守るのだと言ってきかなかった。
こんな年寄には軍も何もしやしないだろうと、今でも一人で暮らしている。
「護衛の人を付けてもらうから心配ないよ、お母さんの様子を見てすぐに帰ってくるから…」
「でも…」
「お父さん、おばあちゃんところに行くの?俺も行っていい!?」
突然飛び込んできた光輝に、2人ともびっくりした様子だった。
そして即座に「ダメだ」と反応した。
「えーなんで、俺もおばあちゃんに会いたいよ」
言ってはみたものの、許可が降りないことは分かりきっていた。
祖母の事も心配だけれども、光輝の心にあと一つ大きな気がかりがある。
それは暮らしていた家で飼っていた、白く大きな犬だった。
島に亡命する時に一緒に連れてってと泣いて頼んだけれど、結局ダメだった。
置手紙と共に近所の人に託すのが精いっぱいだった。
『今どうしてるのかな…ちゃんと世話してもらってるのかな…?』
翌日、光輝の父は猪狩隊の一人と朝早く島を発って行った。
◇◇◇
空は快晴で太陽は輝いていた。
蝉の鳴き声が何重にも重なって聞こえてくる。
「母さん、これで全部?」
広央が尋ねた。
大きなカートに日用品をわんさか積んでいる。
いつも母親は小春おばさんと買い出しに行くのだが、この日は広央を連れ出した。
大型スーパーの駐車場はまだ午前中なのに、夏休みの最中という事もあってか子連れ客も多く混み合っていた。
広央がワゴン車の後ろに荷物を積んでいると、ふと母の姿が消えた事に気付いた。
目で探すと母がいた。
数十メートル先。
見知らぬ男と話している。
母は後ろ姿なので表情は伺い知れないが、こちら側を向いている男と目があった。
「島外からの移住者同士のサークルを主催してるんだ」
男はそう自己紹介した。
一見人当たりの良さそうな雰囲気の若い男だが、それでいてどこか抜け目のなさそうな相貌。
やっぱり島外とは多少文化や考えが違うからね。
移住当初は戸惑うんだよ。
でもこの島はかけがえのない場所だから、日本国民全員が守っていかないとね…
広央は男の言葉をどこか遠くに聞いていた。
彼は一人で留守番をさせているイサの事が、ひたすら気にかかったのだ。
「母さんもう帰ろうよ、イサが待ってるよ」
「イサちゃんはもう大きいんだから心配ないわよ。それより…」
結局、その男と母はスーパーに併設されているカフェに入り広央もそれに付き合わされる事になった。
総代の息子なのだから、住民の貴重な意見を有難く拝聴しなさいと。
有無を言わせぬ圧で。
カフェは人が入れ替わり立ち替わりしている。
大人2人の話をコーラを飲みながら退屈そうに聞いていた広央は、あるワードを聞いて急に前のめりになった。
男は言った。
「発達障害の子の為の学校が、必要だと思うんだよね」
◇◇◇
「ヒロちゃんお帰りー!」
広央が玄関を開けるが早いか、すぐにイサが飛んできて抱きつく。
彼女はほんの少し離れてただけでも、いつも大歓迎で広央を迎えるのだった。
母の清香は素っ気無く“ただいま”と言った後、すぐに自分の部屋に引っ込んだ。
「イサ、今日俺いい事聞いてきたぞ!」
広央が顔を輝かせながら言った。
「なになに?」
イサもつられて嬉しそうに返事をしたが、話の詳細を聞くにつれ段々表情が暗くなっていく。
移住者サークルの代表を名乗る男が言うには、クラスが30人だとしたら、発達障害や学習障害の子は必ず1人〜2人はいる計算なのだと。
現在島には専任の教師も殆どおらず、それらの子が適切な支援を受けられずにいる。
「でさ、それ専用の学校ってのは難しいからさ、まずは週末だけそういうクラスを設けようって言っててさ!…あれ、どうした?」
広央のテンションに反して、イサの表情はどんどん暗くなっていく。
しまいには俯いて膝を抱え込んでしまった。
「…ヒロちゃんも、イサの事ばかだと思ってるの?」
広央はハッとして口を噤む。
学校の教師が度々面談を申し入れてきた。
一人だけ授業について行けないイサについての相談だ。
授業中に教科書を読んでみて、と諭しても読めないと拒否する。
テキストやノートを床に投げ捨てて学習拒否をする。
その事は、同じクラスの子を通じて広央に伝わってきている。
ただでさえ子供に関心の薄い母の清香が、イサに対して関心を払うわけもなく面談に応じた事は一度もなかった。
それどころかイサがいない時、時折いる時でさえあからさまに小春に言うのだ。
“あの子、きっと何か障害があるのよ”
事も無げに刺すような言葉を吐く母。
広央はこの言葉が母の口から出てくる度に、心臓がドクンと脈打つのを感じた。
イサがどこかにやられる。
でも大人の権力は絶対で抗う術がない。
大人はいつも敵で、イサを自分から引き離そうとする勢力だった。
父に助けを…求められる訳もない。
唯一味方になってくれそうなのはキヨおじさん…
広央には、イサに問題があるなんて信じられなかった。
中国の古典を題材にした人形劇。
イサはテレビで放送されるのをいつも楽しみにしていて、夢中になって観ていた。
生き生きとした表情でストーリーに夢中になっているイサは、心にも能力に問題があるようには思えなかった。
『あれ結構ストーリー難しいわよ、あの子内容わかってる?ただ眺めてるだけじゃないの?』
母のそんな意見は無視した。
「そんなんじゃないよ…」
広央はもしかしたらイサが喜んでくれるのではと、と思っていたのだ。
でも泣かせてしまった。
セミの声がやたらとうるさく聞こえた。
夏の明るさがなんだか空々しく感じた。
2人の間に気まずい沈黙が張り巡らさた。
「ごめん、泣かないで…」
広央が謝ってもイサは顔をあげず、小さな嗚咽をあげるだけだった。
「イサ、もう学校の事は言わないから」
そう言ってイサの頭に、髪にそっと触れた。
まるで花を撫でるみたいに。
それでイサも少し、顔を上げた。
色素の薄い目を、真っ白な睫毛をゆっくりと広央に向ける。
固くなった空気が溶けて、いつもの二人の間柄に戻ろうとしていた。
その時、開け放しの掃き出し窓から、勢いよく和希が部屋に飛び込んできた。
「ヒロ兄!」
「わ、和希どうした!?」
和希は広央に、短くいくつかの報告をする。
広央はその報告に顔色を変え、玄関に駆け出して行く。
イサには出掛けて来るから何かあったら電話して、とだけ言い残して。
和希は部屋の隅にいるイサと、ふと目が合った。
キッと睨む、そして広央の後を追った。
同じオメガの和希から、イサはなぜ自分が睨まれたのか分からなかった。
分からないまま、ぽつんと一人部屋に取り残されてしまった。
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