第53話 予兆
「今度の訓練、どんな事をするの?」
夏のある日の事。
居間で広央とイサが夏休みの宿題に取り掛かっていると、母の清香が聞いてきた。
清香は顔に笑みさえ浮かべている。
「もう子供じゃないから、生存自活訓練とかするんだよ!カエルとかヘビとか、自分の手でさばいたりするんだ」
嬉しくなった広央は思わず叫ぶように答える。
夏休みに入り、猪狩隊に混じって本格的な生存自活訓練を受けることになった。
自らニワトリやカエル、ヘビをさばいて調理する訓練。
何もないところから水を取る方法。
ロープも重要。
結び方を何十種類も覚えて暗いところでも結べるようにしたり、ロープを渡ったり降りたりする。
そして爆破訓練。
破壊するための爆薬の計算や、その扱い方について学ぶ。
15歳ともなれば完全に“大人”として軍事訓練に携わるのだ。
イサはいつの間にか座卓にうつ伏せになってお昼寝を始めていた。
宿題のノートの字は相変わらずぐちゃぐちゃだ。
広央は宿題をほっぽり投げて母に説明する。
母が自分に関心をもって、色々と話を聞いてくれるなんて珍しいことだった。
広央はついついはしゃいだ気持ちになって、それらについて詳しく話した。
少し得意気になりながら。
「そう…また詳しく話してちょうだい」
「うん!」
会話のあと、清香はおもむろに出掛ける用意を始めた。
「あれ、どっか行くの?」
「ええ。今日は島の婦人部の集まりだから」
広央は大層意外に思った。
これまでの母といえば総代の妻にもかかわらず島の内政や行政、伝統行事にさえ一切関与しない姿勢を貫いてきた。
学校の保護者会にも顔を出した事はなく、島の婦人部(男には正体不明の無駄な集まりと思われている)など、知る限り参加したことがない。
夕飯までには戻ってくると言いながら、出掛ける母の後ろ姿をただ見送った。
◇◇◇
「清香、最近よく島の活動に参加するようになったな。どうしたんだ?」
清治が団扇を仰ぎながら聞いた。
夏の夕暮れ時で、空が少し茜色に染まっている。
広央側の家の居間。
清治は背中を柱にもたれかけて、身体を半分縁側に出して胡坐をかいて夕涼みをしている。
海に近いこの家は、夏でも夕方はだいぶ涼しくなるのだ。
「そう?いけないかしら」
清香が顔も上げずに応じる。
座卓の上には、収支報告書やら活動記録やらのタイトルが入った分厚いファイルが置かれていて、それらに熱心に目を通している。
軍に不服従のこの島の、人々の暮らしや経済、ルール。
どれをとっても一筋縄ではいかない。
そもそも従来からの島民と、新しく移り住んできた住民は意識がちがう。
婦人部はその双方の調整・相互理解を図るために作られた互助会で、特に近年では相互間のコミュニケーションが大切にされている。
ゴミ捨て一つとっても、理解と協力が不可欠なのだ。
総代の妻がその重要性に気付き、やっと活動に参加してくれるようになった。
ありがたい傾向ではある、なぜ今頃なのかは少々不思議に思ったけれども。
「兄さんの方はどう?最近勤めは忙しいの?」
結婚して実家を出た年齢が早かったので、清香と清治の兄妹としての生活は短かかった。けれどお互いの関係は、兄妹の時よりむしろ深いものになるはずだった。
何しろ清治は妹の親友(小春)と結婚し、清香は兄の親友(総代)の妻となった。
兄妹であり縁戚であり、この島の人間として生活も職分も濃密に絡み合う人生になっていくはずだった。
『かえってそれが良くなかったのかな…』
親友と妹が結婚して清治が喜んだのは、束の間だった。
広央が生まれてすぐ別居、2人の夫婦としての会話を最後に聞いたのはいつだったのか、すでに思い出せなくなっていた。
「ああ、最近は亡命者の護衛業務が多いからな。家族も守ってやらないといけないし…」
軍と対立しているこの島は、常に複雑な状況に置かれている。
完全なる自治を主張しているが、独立などといった不穏な言葉は決して口に出さない。
下手に刺激すると攻撃の口実を作らせかねない。
警察と自衛軍を兼ねる猪狩隊は、常に軍を刺激する存在だ。
けれども自治を保つためには絶対に必要な存在であり、この島の独立旺盛な精神の柱でもある。
隊の長である清治の責務は重大だ。
妹と思いを共有したかったのか、清治はいつになく饒舌になって警察業務の事、警護業務の事を秘匿事項に触れない範囲で話した。
ただいま~
子供らの声で、会話は一回中断された。
広央とイサが勢いよく部屋になだれ込んでくる。
「お帰りなさい、どこ行ってたの?」
清香が愛想よく質問する。
笑顔で。
広央は海側の岩屋に行ったこと、“天の御柱”の周りをイサとくるくる回ったことを話した。
母は楽しそうに笑みを浮かべながら聞いている。
本当に、近頃の母はどうしたのだろう。
母の質問にいろいろと答えた。
その時は、母が自分に興味を持ってくれたのだろうと信じて疑わなかった。
平凡で取り柄のない息子でも、僅かに愛情を感じてくれているのだと。
その時はまだ知らなかった。
そう信じ込んだこと自体、その甘ったれた自惚れに近い感情を思い出すたび。
死にたくなる程恥ずかしい感情に、長年苛まれる事になるとは。
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